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おはよう初めて会った人 どうか結婚してください

「結婚してください」


 真剣で、真摯で、純真で。

 そんな顔で私に手を差し伸べるのは、初めて会ったどこかの誰か。


 馬鹿にしているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。何故か、それだけは理解できる。


 ◆


 ある日、目を覚ますと、何か違和感があった。

 しかし、その違和感の正体はわからず、父と母と話してようやく理解する。


「マーガレット、お前は記憶喪失になったのだ。この三ヶ月間、自分が何をしていたのかを覚えていない」

「はい?」


 聞けば、それは呪いなのだという。

 魔王が討たれて八十年越しの、人類に向けた呪いの名残り。今ではずいぶん弱まっているようだが、稀にこうして短期間の記憶障害を受ける者もいるらしい。


「まあ、でも。たかが三ヶ月なのでしょう? ならおかしな事にはならないのではなくて?」

「ああ、まあ、そうなのだが……」

「あなた、伝えておかなくては……」


 歯切れの悪い両親の態度に、疑問符が浮かぶ。何かまずい事でもあるのだろうか。


 やがて、父の口から驚くべき言葉が紡がれた。


「お前は婚約した」


 なるほど。これは言いにくいわけである。




「初めまして、世界で一番愛おしい人」

「あ、はい」


 歯が浮くような言葉を言うのは、どうやら私の婚約者らしいダン・ウォーリーという男爵子息だった。ウォーリーといえば、確か八十年前に魔王を倒した勇者の名前だ。

 あの時に騎士爵を賜り準貴族となった後、代々の貢献を評価されて貴族の仲間入りをしたと記憶している。


「あなたは覚えていないでしょうが、私が知っていさえすれば充分です。これから、あなたに私を知っていただきたい」

「そうですね。よろしくお願いします」


 よろしくお願いします。それしか、言う事がない。


 貴族令嬢として、決まった結婚に異を唱えるなどできるはずもないのだから。


 ダンは、毎日家に来てくれた。

 私の様子を聞き、私の調子を聞き、私の気分を聞く。


 案外気の利く男であり、ドレスの趣味から紅茶をを飲む際に好むお菓子に至るまで、私の事は何でも把握しているらしい。


 大変助かり、そしてそれと同時に気持ちが悪いとも感じていた。


「おはよう、愛しい人。今日の気分はいかがかな?」

「問題ございませんわ」

「でしたら紅茶にしましょう。よく晴れた日はテラスでダージリンがお好きでしたね」


 全くもってその通り。晴れた日の昼頃は、いつもテラスに出てダージリンを楽しむ。用意されたお茶菓子も、私が贔屓にしているお店の物のようだった。


 これだ。


 全て先回りにされているよう。見透かされているよう。

 私は全く知らないのに、ダンは私の事を何でも知っている。


 これが、恐ろしくて仕方がない。震え上がりそうなくらいに。


 私は、この人の前で何をしたのだろうか。手を繋いだのだろうか。キスをしたのだろうか。

 ……裸になったのだろうか。


 貴族令嬢として考えれば、婚姻前に行為に及ぶのは褒められた事ではない。しかし、誰一人としてしないかと言われればそうでない事も事実だ。記憶のない間の私が、何か魔が差す事によって今では考えられない行為に及んだとしても不思議ではない。


 この腹の底から込み上げてくるものは、一体なんだろう。

 おそらく、あまり気持ちのいいものではない。


 それはきっと、吐き気に似ている。


「そろそろお暇します。忙しくなければ、また明日」

「毎日いらっしゃってはご苦労ではありませんか? ご自愛ください」

「あなたに会えるのですから、こんなものは苦労にもなりません」


 私は、何を言っているのだろうか。

 この言葉は、来るなというようなものだ。ダンが受け流してくれたから良いものの、本当ならばこんな嫌味を言うべきではない。


 彼はいい人だ。

 なのに、私は彼を嫌っている。


 私は、嫌な女だ。




 ダンと会うのが、次第に億劫になっていった。そして、数回に一度は体調不良を理由に断るようになった。


 ダンはそれでも毎日現れ、私と会えないとわかっても嫌な顔一つせずに『お大事に』と一言添えて帰るのだ。


 そんな相手を、私は邪険にしている。

 だんだんと会う頻度が減って、今週はまだ会っていない。


「お嬢様、今日はどのようなご用件で?」


 我が家には、どんな貴族にも負けない立派な図書室がある。国内でこれほどの蔵書数を誇るのは、王都の王立図書館しかない。

 もちろん天井まで敷き詰められた本棚の全てを管理するのは大変なので、専門の図書館司書を雇い一定の権限を与えている。


 今日は、その蔵書に用があった。


「シェリーク、ご先祖様の本はないかしら? 確か高名な魔法使いだったのでしょう?」

「いやあ、あるにはありますが、なにぶん古い物ですから状態が悪くてですね……」


 シェリーク・ホーンダムは、我が家の誇る優秀な図書館司書である。

 大きな丸渕メガネが特徴で、いつも何かの本を抱えている。


 齢三十を前にして、屋敷で働く使用人の中でも五本の指に入る高給取りだ。


 その彼女が、言い淀む。

 この屋敷の蔵書の所在を全て暗記している彼女が。


「シェリーク。貴女、隠し事をしているわね?」

「は!? い、いいえ!?」

「全ての本の状態を把握している貴女なら、キッパリと読めたものではないと言えるはずよ。何でそんなに歯切れが悪いのかしら?」

「か、買い被りすぎですよぉ。お嬢様の勘違いです」

「シェリーク。素直で正直なのは貴女の美徳だけれど、今回ばかりは悪く働いたわね」


 本当はあまり行儀がよくないが、私はシェリークを指差した。正確には、鼻の頭より少し上。眉間より僅かに下あたりを。


「その眼鏡、今日はよくずれるのね。さっきから直してばかりじゃない」

「そ、そうですかぁ……?」

「ええ、そうよ。そんなに鼻の頭に汗をかくから、すぐにずれてしまうのね」

「あ」


 シェリークは袖で汗を拭くが、もう遅い。彼女は焦ると鼻の頭に汗をかくというのは、我が家では常識だ。


「シェリーク。何を隠しているの? 私に魔法を知られたらまずいわけでもあるのかしら?」

「勘弁してください! お教えしてはいけないお約束なんですよぉ!」

「約束? 一体誰がそんな事を言ったの! 私は自分の呪いを解く手掛かりが欲しいだけよ!」


 もし、ご先祖様の手記を見られたなら、そこに記された魔法を手掛かりに呪いにも何か働きかけられるかもしれない。

 それが私の最後の頼みであり、唯一の望みだ。


 こんな、違和感のある生活を送るのはもうごめんだ。

 せめて私が私であるために、全ての努力をしていたい。


「誰がそんな酷い事を約束させたの! 私がこんなに苦しんでも無視しなさいだなんて、そんな事言うのは一体誰! 私は絶対許さないわ!」


 叫ぶ。貴族令嬢にあるまじき形相で。


 私は、私自身ですら思っていなかったほどに心を病んでいるらしい。


 そして、シェリークの次なる言葉は私をさらなる混乱に落とすには充分だった。


「マーガレット様です! あなたが私にお命じになりました!」




 結局、シェリークはそれ以上話してはくれなかった。

 すみませんすみませんと伏せて詫び、本棚の奥へと逃げてしまったのだ。


 なので、私はどういう事なのか理解していない。

 私が言ったというその言葉を。


 つまり、おそらく、三ヶ月間の私だ。記憶を失う前の、覚えている時の私。

 一体何故、自分自身の自由を奪うような事を。


「ん……?」


 おかしくはないだろうか。


 もしも魔法に触れたくないだけならば、自分で気をつければいいだけだ。なのに、シェリークは命じられたと言った。他でもない私がお願いしているのに、私自身の命令に従ったというのだ。


 つまり、私はかなり強くシェリークに言った事になる。

 ()()()()()()()()()()()()()と。


 なぜ、そんな必要があるのだろうか。

 まるで、私が魔法を知りたいと思う事を知っていたかのようだ。


 ——それはつまり、自らが記憶を失う事を知っていたという事である。


「おかしい……」


 何かがおかしい。この呪いは、不意に現れたものではないのだろうか。

 思えば、父も母も落ち着きすぎている。娘が記憶喪失になったというのに。


 知っていたのだ。父も、母も、私すら。

 私が記憶喪失になる事を。

 そして、おそらくこの問題の中心にはダンがいる。


 なにせ、いきなり現れた、正体不明の人物だ。真っ先に疑うべきなのは誰かなど、明白ではないか。


 俄かに不気味になってきた。


 誰一人信用できない。正体不明の恋人は当然として、家族も、使用人も、自分自身すらもだ。


 おそろしい。何故私がこんな目に遭わなくてはならないのか。

 魔王の呪いとは、ただ少ない期間の記憶がなくなってしまう程度のものではないのか。


 何らかの思惑を感じる。


 自分の背中が、いつのまにかじっとりとした汗をかいている事に気がついた。


「マーガレットさん。部屋においでですか」

「っ!? だ、ダン様! い、いついらしたの!?」


 部屋のノック音にここまで驚いたのは生まれて初めてだ。

 今まさに信用すべきでないと結論付けたダン・ウォーリーが、扉一枚隔てただけの先にいる。


「きょ、今日は体調が優れないとお伝えし忘れていたかしらっ?」

「私もそう聞いて一度は帰ったのですが、使いの者が参りまして、お父上が『図書室で騒ぐほど元気になったらしいのであってやって欲しい』と仰られたと」

「まぁ!? そうなのね!」


 図書室での騒ぎ。

 私の必死さが、裏目に出てしまった。


 いや、どちらにせよ、あれだけ問い詰めなければシェリークは口を割らなかったろう。もしそうなったら、私はこの生活の歪さに気が付かないままでいたに違いない。


「入ってもよろしいですか?」

「……っ」


 嫌だ。入ってほしくない。近付いてほしくない。見える場所にいてほしくない。

 本当だったら、声も聞きたくない。しかし、私は彼を拒絶するもっともらしい理由が思いつかなかった。


 なにより、怪しまれたくない。

 私が気がついたと知られたら、何をされるかわかったものではないのだから。


「ど、どうぞ……」

「ありがとうございます」


 声は震えていないだろうか。

 涙は流れていないだろうか。


 息が荒い。寒気がする。汗をかいている気がする。


 シェリークに、『焦ると鼻の頭に汗をかく』などと得意げに指摘したが、今の私の方がはるかに挙動不審なはずだ。

 落ち着く必要がある。なにより安全のために。


「お茶を淹れます!」

「いえ、座っていてください。お茶ならメイドに頼みました」

「あ、はぁい……」


 恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。


 彼との仲は、屋敷全体の公認なのだ。

 震えてしまう。震えたくなどないというのに。


 しかし、考えようによってはこの状況はそこまで悲観するようなものではない。

 一番に情報の欲しい相手は私の婚約者であり、頼まなくても毎日相手から会いに来てくれる。


 探れる。怪しまれない限りは。私が落ち着いている限りは。


「今日は紅茶にちょうどいいお菓子を持ってきたのです」

「ま、まあ、それは嬉しい」


 一見して愚かしく。私は、どこにでもいる普通の世間知らずな令嬢として対応した。

 少なくとも、相手からはそう見えなくてはならない。


「私たちが出会って、そろそろ三ヶ月ですね。記念日かしら」

「……ええ、そうですね」


 厳密には、私が記憶を失ってから三ヶ月。

 私自身としては、何でもかんでも記念日としてしまうのはあまり好きではないが、いかにも好意があるかのような言動を意識しての発言である。


 ただ、ダンの反応が芳しくない。

 やはり、私との記念など気にしていないのかもしれない。


「なにか、特別な事がしたいですね。貴方は私にとてもよくしてくれますから」

「そんな、お気になさらずとも。私があなたを愛しているというだけの事なのですから」


 愛している。

 この言葉を、ダンはよく口にした。


 私にとっては見ず知らずの相手から会いをささやかれるただの恐怖体験なのだが、今に至って本当であればいいと思う。

 その方が、私を害している可能性が低くなるように思えるからだ。


 しかし、一つだけ気がかりな事がある。

 愛していると口にするたびに、ダンの表情が悲しそうに歪むのだ。


 そして、今日は一段と悲しんでいる。


「あなたにとっては、私からの愛などいらないでしょうけれどね」

「……え? いや、そんな事は……」

「いいえ、無理をしなくてもいいですよ。私には分かるのです」


 意味深な言葉だ。彼は勇者の血族との事だが、もしかしたら私の知らない秘密を抱えているのかもしれない。

 なにせ、魔王の呪いについても私は知らなかった。


 あるいは、その秘密こそが私の求めるものだろうか。だとすれば、私は彼のかなり深いところに踏み込まなくてはならない。


「無理などしていません。私は貴方に感謝しているのです。それはわかりませんか?」

「なるほど……それならよくわかります」


 弱々しいながらも、ダンの笑顔は今までで一番の安堵を感じられる。

 私の仲の彼と違い、彼の中の私は信頼できる相手らしい。


 だとすれば、情報を引き出すのはそう難しい事ではない。

 皮一枚の内側に恐れと不快感を隠し、今にも弾けてしまいそうな手を差し伸べるだけだ。


「私が記憶を失ったのは、たった三ヶ月です。それでも、心細い事に変わりはないのです。貴方に私がどれほど救われたか、ご理解いただけますか?」

「しかし、私はあなたと出会ってすらいない。あなたは私の事を覚えていないのだから」

「何を仰いますか。私の前に急に表れた男性が、貴方でよかったと思っています」


 思ってもみない事を口にして、苦手だけども微笑みかける。


 ダンは、私を見つめ返す。

 目を逸らしたくなるのをぐっと我慢して、彼の瞳を覗き込んだ。


 だが、これがいけなかった。

 彼との空気感の違いを放置して、あたかも心から寄り添っているかのように演じてしまったのだ。

 それを良しとしていたがために、ダンの勘違いを誘ってしまった。


 これは、情報を引き出すために必要な事ではあると思って、塩梅を踏み違った。


「マーガレットさん……」

「……っ!!?」


 叩く。力いっぱい。

 思わず手が出てしまった。ダンは尻もちをつく。


 だって、顔を近づけられたから。

 キスされそうになったから。


「な、何をするんですか!?」

「す、すみません!!」


 我慢ならなかった。

 いくら情報を引き出すためとはいえ、貞操には代えられない。


「怖がらせるつもりは……! 決して!」

「何をいまさら! た、助けてください! 誰か! 誰か!」


 頬を抑え、ダンは私を見上げる。


 あり得ない。

 雰囲気がいいとでも思ったのだろうか。今が好機だとでも思ったのだろうか。

 絶対にない。口先で優しくした程度で、その気になってしまうような男性は願い下げだ。


「どうしたマーガレット! 何があった!」

「マーガレット!」

「お父様、お母様! 助けてください! 口づけをされるところでした!」


 本性を現した。

 もう情報源であるなど気にするものか。


 少なくとも、この一人を排除すれば記憶を失う前の生活は取り戻せるのだから。


 ――だというのに。


「……お父様?」


 父と母は、目を泳がせて立ち尽くす。

 娘の危機に、これは真っ当な反応とは言えない。


 娘の貞操が、そんなに軽いものであるはずがないのだ。

 特に、貴族の娘であるならば。


 だとすれば、答えは一つしかない。父と母はきっと、大した事なしと思っているのだ。

 つまり……


「貴方と私は、口づけをした事が……?」

「……一度だけ」

「っ!!」


 とうとう、泣いてしまった。

 震えてしまった。

 膝を屈してしまった。


 もう、なにも見る事ができない。

 目は開いているようだが、何も見えてはいない。強い混乱による重圧で、頭の中にものを見るだけの余裕がないのだ。


 口を押える。この唇が奪われた。

 知らないうちに、知らない男に。


 なんと、気持ちが悪いのだろう。

 私が私でなくなったかのようだ。いや、私でなければいいと願っている。私が私である事に、耐えられないでいるのだ。


 なぜ、誰も嘘だと言ってくれないのだろう。たった一言そういってくれるだけで、私は救われるというのに。


 その後の事は、あまり覚えていない。


 ただ、どうやら眠ってしまったらしい事だけはわかった。


 ◆


 勇者の血族であるなど、なんの意味もない。

 それどころか、私はこんな家に産まれたくなかった。


 魔王の呪いは、勇者の家系に強く働いた。

 長い年月の果てに実質失われた一般への呪いとは異なり、むしろ年々強くなっているというのだ。

 世代を経るごとになくなっていく呪いと、そうではない呪い。何故、私はよりにもよってそうではない方を受けてしまったのだろう。


 私の呪いは、記憶障害。

 ()()()()()()という頻度で、自分が何者なのかわからなくなるのだ。


 つまり、自らのこんな境遇について知ったのすら、つい先月の事だ。どうやら、私が自分の名前を知るのは、これで六十回目に当たるらしい。


 わずか四歳の頃から繰り返しているらしいこの生活は、私自身よりも家族への負担が大きいらしかった。


 私が気がついてからというもの、両親はひどく無気力に私に接する。

 どうせ、何をしても無駄なのだと。


 だから、私も精力的には動く気になれない。

 やはりどうせ、何をしても無駄なのだと。


 この日、私は夜会に参加していた。

 わが国随一の重要貴族の主催であると聞いたが、どうせ忘れてしまうので覚えるつもりはなかった。


 始まってしばらくは貴族たちとの顔合わせだ。とはいえ、それが何度目の顔合わせなのかなどわかったものではない。

 合わせる顔合わせる顔全てがうんざりしていて、これが初めての初めましてではないのだろうと感じさせた。


 ある程度の挨拶が終わると、各々談笑と情報交換の時間になる。貴族の仕事はほとんどが会話であり、そこで得る話は余す事なく彼らの血肉となっていく。

 ただ、どうせ忘れてしまう私には関係ないが。


 あまりにもつまらなくて、早々に抜け出してしまった。まさか帰るわけにはいかないが、人気のないテラスの方へと足を運ぶ。


 どうか誰もいてくれるなと願っていたが、残念ながら先客がいた。


 マーガレット・アリアローズ侯爵令嬢。確か、先ほどの軽い挨拶の際にそう名乗っていた。


「まあ、ウォーリー卿。貴方も月夜のお茶ですか?」

「え? ああ、まあそんなところです」


 適当に話を合わせたが、私はカップを持っていなかった。これでは嘘がバレバレだ。


 しかし、彼女はそんな事を気にした様子はなかった。


「せっかくなので、ご一緒にいかがですか?」

「……そうですね。では失礼して」


 マーガレットは、正面の席へと促す。彼女の言う通り、月の綺麗な夜だった。


「紅茶がお好きなんですか?」


 何か質問されてしまう前に、自分から質問した。


「ええ、夜飲むのはダージリンと決めておりますの」

「昼間は違うものを飲まれるのですか?」

「天気のいい日はダージリン。雨が降ってもダージリンですわ」

「ああ、お好きなんですね」


 不思議な女性だと思った。

 私の記憶については知っていて、ジョークをわざわざ言う人間は少ない。


 なにせ、どれ程優れた言葉でも、三ヶ月経てば忘れてしまうのだから。


「貴方はどうしてこちらに? 社交界はお気に召しませんでしたか?」

「あ、えっと……」


 質問攻めにして相手からの質問をかわすつもりが、言葉に詰まってしまった。

 ただ、誤魔化すのも面倒で、考えなしに正直な事を話してしまう。


 あとで思った事ではあるが、この気まぐれは大正解だった。


「誰も私の事など気にしますまい。三ヶ月で記憶を失う男と話すのは時間の無駄だと考えているのでしょう。正直、私もそう思います」

「まあ、そうでしょうか?」


 マーガレットは疑問符を浮かべる。

 気を使った言葉などでなく、本心からの疑問であると感じた。


「忘れてしまうのなら、面白いジョークを何度でも聞いてくださるわ。どれ程優れた言葉でも、何度も聞けば色褪せてしまうというのに」

「……まあ、そういう考え方もありますね」

「ええ、それに、感動的な舞台で何度でも新鮮な驚きを味わえますわ。私は記憶を消してみたいお話がたくさんありますの」

「ふふ、その通りですね」


 先月記憶を失ってから、初めて笑った気がする。

 味気ないように思えていた私の三ヶ月間は、彼女にしてみればむしろ彩りあふれているらしいのだ。


 その日から、私と彼女の関係が始まった。


 マーガレットは、とても聡明な女性だった。

 変わった事を言うので少し抜けているかと思ったが、やはり貴族の令嬢としての礼節や教養にあふれた女性であると感じる。

 特に、お菓子作りについては屋敷の使用人よりも得意に思える。流行りものを追いかける事ばかりが得意なご令嬢とは大違いだ。


 どうやら、彼女は魔術師の家系らしく、魔法技術が下火となった現代でも教養を疎かにしてはならないという家の方針なのだそうだ。


 彼女とはほとんど毎日語り合った。

 記憶を失うまでの時間が限られている私にとって、彼女と一緒にいない時間はもったいなく思えてならないのだ。


「記憶を失っても、赤の他人にはなりません。だから、またお友達になりましょう」

「友達になってくれるかい?」

「当然ではありませんか」


 私が悩みを相談すると、彼女はそう言ってくれた。


 なので、私は安心して三ヶ月目を迎える事ができたのだ。




 目を覚ませば、とてつもない違和感に苛まれた。


 自分が誰なのか、全く分からない。


 両親を名乗る二人によれば、私の名前はダン・ウォーリー。勇者の末裔であり、魔王の呪いによって三ヶ月に一度記憶を失うらしい。

 もう何度も同じ説明をしているだろう両親はうんざりした顔でそんな風に説明した。


「アリアローズのお嬢さんにご挨拶してきなさい。きっとお待ちしている」

「アリアローズ?」


 当たり前だが、聞き覚えのない名前だ。

 ただ、会って来いと言われて、少しうれしく思った。これは何故だろう。


 使用人に家の場所を案内させ、さっそく向かう。

 侯爵家にしてはあまり大きくないが、小綺麗で好印象な屋敷だ。


「ごめんください」


 先触れを出しておいたので、すぐに反応があった。


「ダン! 目が覚めたのね!」

「あ、はい。あなたがマーガレットさんですか?」


 使用人より先んじて扉を開いたのは、綺麗に着飾った美しい少女だ。おそらく彼女がアリアローズ侯爵令嬢マーガレットなのだろう。


 私と、三か月前から友人であると聞いている。

 目が覚めた時、両親の次に伝えるのは彼女にするように、と言っていたらしい。他でもない私自身がだ。


 大切に思っていたのだろう。

 残念ながら、実感はあまりないが。


 それどころか、彼女は驚くべき言葉を発した。


「結婚してください」


 真剣で、真摯で、純真で。

 そんな顔で私に手を差し伸べるのは、初めて会ったどこかの誰か。


 馬鹿にしているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。何故か、それだけは理解できる。


「どういう事ですか?」

「時間がもったいないからです。私が貴方と出会うのはこれで五度目ですもの」


 聞けば、彼女とはもう一年の付き合いなのだという。

 マーガレットは私と何度も自己紹介をし、そのたびにさらに仲良くなっていった。

 そして、今回こそは告白すると決めていたらしい。


「女性からの告白などどうかと思っていましたが、貴方の事情を考えればプロポーズなど望めないでしょう? なので、仕方なしに私からする事に決めたのです」

「とはいえ、いきなりすぎませんか? 私にとっては初対面ですよ」

「ほら、そう言うと思っていました」


 その日から、私と彼女の関係が始まった。


 マーガレットは、とても聡明な女性だった。

 変わった事を言うので少し抜けているかと思ったが、やはり貴族の令嬢としての礼節や教養にあふれた女性であると感じる。

 特に、お菓子作りについては屋敷の使用人よりも得意に思える。


 どうやら、彼女は魔術師の家系らしく、魔法技術が下火となった現代でも教養を疎かにしてはならないという家の方針なのだそうだ。


 彼女とはほとんど毎日語り合った。

 記憶を失うまでの時間が限られている私にとって、彼女と一緒にいない時間はもったいなく思えてならないのだ。


 そして、まもなく三ヶ月。


「マーガレット。初めて会った日の返事をするよ」

「? 紅茶を飲みに来たのか、ですか?」

「わからないけどそれ、私が覚えてない時の事だね? そうじゃなくて、私にとっての初対面だよ」

「冗談です。お聞かせください」


 マーガレットの顔が、少し赤く感じる。


「結婚してください。私はあなたを愛しています」


 多分だが、私はその時初めてキスをした。

 覚えていないが、彼女以外の女性を愛する事など考えられない。




 何度記憶を失っても、何度振り出しに戻っても、何度でも何度でも一緒になろうと。私は、そんな覚悟で告白した。

 きっとその度に私は幸福であり、その度にあなたを幸せにすると。


 しかし、そんな事は起きなかった。

 初めての告白をしたその翌週こそが三ヶ月目の境だったというのに。私は、()()()()()()()()()のだ。


「やった!」


 目を覚ました時、思わず叫んだ。


 全部覚えている。彼女と出会ってからの全てを。五回の初めましてを。四回のさようならを。三回の喧嘩と仲直りを。二回の告白を。一度の婚約を。


 そればかりか、生まれてからの全てを。約六十回にわたる記憶喪失と、その度に繰り返したあの日々を。


 きっと、私と彼女の愛が、魔王の呪いを打ち消したのだ。

 神が二人を祝福しているのだ。


 朝食もとらず、私は屋敷を飛び出した。この喜びを、二人で分かち合いたくて。


「マーガレット! 私だ! 覚えている!」


 意気揚々とそう叫ぶ私に対し、返ったのは想像もつかない言葉だった。


「ど、どなたですか!?」


 彼女の顔に浮かぶのは困惑。

 そして、見ず知らずの男が目の前に現れた恐怖に他ならなかった。




 彼女の家系は、かつて高名な魔法使いを輩出していた。

 屋敷の図書室には今でも多くの魔術書が保管されており、専属の司書が大切に管理している。


 その中に、『(まじな)い移し』の魔法というものがあるらしい。

 口付けを条件とし、相手にかかった呪いを自らが引き受ける慈愛の魔法だ。


 彼女は、ちょうど私と出逢うよりも前の記憶しか持っていないようだった。

 そして、おそらくは三ヶ月おきに同じく記憶をなくす。


 ◆


「…………」


 目を覚ますと、よく知る部屋だった。アリアローズ邸の、私の部屋だ。


 そして、全て覚えている。

 私はまだ、彼を救えていないのだ。


 私が魔法で彼を救った以上、彼も同じ事を考えるのは自明だった。


 彼と婚約して一年と三ヶ月。

 その間ずっと口付けを拒否できていたが、痺れを切らした彼はとうとう強引な手に出た。初めから婚約者であると話せば、関係構築までの時間を削減できると考えたのだ。

 その強引さは、正直に言って裏目だった。


 いきなり現れた婚約者に、まさか好印象を抱くはずはない。

 今度こそ私と彼は決別するはずだったというのに、彼はついに力尽くで私から唇を奪った。


 ずるだ。

 別にキスされた事は気にしないが、そんな力尽くでいいのなら今までのやり取りはなんだったというのか。

 私には勇者の末裔である彼から力尽くで唇を奪う事はできないので、そういう手に出る限り私が不利だ。


 だが、諦めたりはしない。


 彼を救うためならば、私の記憶などいらないのだから。


 そうと決まれば、する事は一つだ。

 今度こそ、私は彼を救うために最善の行動をしなくてはならない。


「シェリーク! ちょっと来なさい!」

「ひぇ!? お、お嬢様!」

「あれほど私に教えたらダメって言ったでしょう!」

「すみません! すみません! で、でもお嬢様が教えろって……」

「突っぱねなさい!」

「はいぃ〜!」


 まず、シェリークに釘を刺す。

 前回の失敗とは無関係だが、記憶を失いたくないあまり、私自身が呪い移しでダンに呪いを返してしまうかもしれない。

 正直言って考えられないが、記憶のない少女は何をするかわかったものではないので警戒しなくてはならない。

 父と母に記憶喪失の詳細を伏せるようお願いしたのもこれが理由だ。私自身に、たかだか三ヶ月程度の記憶喪失だけなら大した事なしと考えさせたかった。


 これらの策は、概ね成功と言える。前回の記憶では、事態を究明しようという私を充分に妨害してくれた。

 ただ、シェリークも両親も本当のところは私に記憶喪失になどなってほしくないので、これ以上の積極的な協力は望めないだろう。


 何か、新しい手立てが必要だ。


 とはいえ、まずはダンと恋仲になる事からだが。


 この瞬間は、いつもドキドキする。

 今度こそ嫌われてしまうのではないか。今度こそ断られるのではないか。

 人間の判断がその日の気分に大きく影響されるというのは、今までの経験でよく理解した。ほとんど全く同じに対応したというのにダンの反応が異なるなど、今更驚くような事ではない。


 だから、不安だ。

 私が彼を愛しているのは本当の事だというのに。


「息子とは会わないでくれ」

「え……?」


 ダンの家で、そんな言葉を返された。


「な、何故……?」

「息子の望みだ。あの子が初めて私と妻にした頼み事を、まさか邪険になどできるはずもない」

「そ、そんな!」


 言いたい事はわかる。しかし、それはダンの記憶を諦めるという事に他ならない。


 あまりにも、冷たくはないだろうか。

 私の両親とは真逆の対応だ。意志と記憶のどちらを取るのか天秤にかけて、違う方の皿が地面についた。


「我が子を見捨てるという事ではありませんか!」

「どうとでも言いたまえ。私たちは今、生れて初めて親子なのだ」

「っ……!」


 こうなると、私には何もできる事がない。

 どれほどの押し問答をしても、どれほど熱心に頼んでも、実の息子よりも私を優先する事などない。


 だが、諦められるはずがないではないか。

 両親が息子を愛しているように、私だってダンを愛しているのだから。


「どうしたのですか、父上」

「っ! ダン!」


 ダンの顔が、扉越しに見えた。父親が彼と私の間に体を挟み込み、少しでも距離を取らせようとする。


「見ず知らずの人だ。お前とは関係がない」

「しかし……」

「関係がないはずありません! 私は……!」

「いい加減にしてくれないか! 憲兵を呼ぶぞ!」


 そう言って、扉を閉められる。

 取り付く島もない。


 しばらくすると、日が暮れてくる。

 そんなにも時間が経っていたのか。それでも、扉が開くまでその場を動くつもりはない。

 何日でも、何日でも、三ヶ月を超えてもこの場で待ち続ける。


 それ以外に、打てる手立てがない。

 私は、あまりにも無力だ。


「あ、あの……」

「……!」


 手をこまねいている私に、声がかけられる。

 言い慣れた、よく知る、愛する者の声だ。


「ダン……!」

「ああ、やはり、私を知っているのですね」


 不安そうに目尻を下げるのは、初めて会った時と同じ表情だ。もう二年以上も前の事だが、つい先ほどのように思い出せる。


 泣きそうだ。あるいはもう会えないかとすら思っていた。


「わ、私は、貴方を救おうと……!」

「待って。ここでは父に知られます。よろしければ私の部屋に」


 裏口から通されて案内されたダンの部屋は、私が知るそれよりも寂しかった。

 私からの贈り物が、全て処分されているのだ。


 私が作ったコースターも、庭でとった花束も、二人の名前が掘られた模造剣もない。

 二人で選んだアロマキャンドルも、二人を描いた肖像画もだ。


 決して永遠ではいられない私たちの中で、せめて何か残せる物をと考えたというのに、結局それもなくなってしまう。

 私を家に入れない時点で察してはいたが、いざ目の当たりにすると心が震える。


「どうかしましたか?」

「……いえ」


 平静を装い、何の気もない返事をする。

 それがどれほどの意味を持つのかわからないが、少なくとも今は取り乱してなどいられない。


「未婚女性を部屋に招くのは褒められた事じゃない。おかしな噂を立てられるのは困るので、父と母に見つかる前に用件を済ませたいのですが」

「ええ、そうですね。同感ですわ」


 ダンが、私を見る。

 私が愛したその瞳が、まっすぐと私を見ている。なんの思惑もない、純粋な目だ。思惑に塗れた私とは真逆の視線だ。


「私は、マーガレット・アリアローズ。貴方の記憶について重要な事実を知っています」

「なんだって……!?」


 嘘ではない。

 嘘ではないが、当初の予定とは違う手だ。


 このままでは、彼と頻繁に会う事は難しい。今までのような行動では、きっと知り合いよりは親密という程度で三ヶ月が終わってしまう。

 だから、一度の接触で大きな印象を与える事としたのだ。


「一体どういう事なんだ?」

「我が家の起源は、王国の立ち上げに貢献した魔法使いにあると言われています。その我が家の魔法ならば、貴方の身にかけられた魔王の呪いを打ち消す手立てがあるかもしれません」

「おお、なんと……!」


 全て、本当の事だ。

 屋敷の図書室にある書物の中には、あるいはこの呪いの対抗策となる情報が隠されているのかもしれない。

 しかし、存在する事と扱える事の間には大きな隔たりがあるのだ。


 シェリークですら読めない本。すでに絶滅した素材が必要な薬。あるいは、魔法に対して深い造詣が必要な技術。

 その全てが、私では手が出ない情報だ。そうでなくては、呪いを移すなどという回りくどい方法を取るものか。


 しかし、そんな事をいちいち話す義理はない。

 口八丁で丸め込み、呪い移しの魔法を呪い殺しの魔法であると偽って使用するのが今回の策である。


「貴方は覚えていらっしゃらないでしょうが、私は貴方に大変な恩義があるのです。どうか貴方の助けとなれないでしょうか?」

「…………」


 これは、正直賭けだ。

 今までこんな事は試さなかったので、ダンがどう判断してどう反応するかが全くわからない。

 生唾を飲み込みたくなるのを我慢して、ほんの数瞬後の返事を待った。


 そして……


「何故あなたは父上に追い出されていたのですか?」

「そ、それは……」


 鋭い。勢い任せでは、丸め込まないほどに。


「あなたが私を救うというのなら、父はそれを歓迎するはずだ。それとも、本当は父は私の事を恨んでいるとでも言うのですか?」

「……いいえ、そんな事はありません。お父様は貴方を愛しておいでです」

「ならば、何故」


 答えられない。

 嘘をついているのは、こちらなのだから。


 しかし、全て本当の事を話すわけにもいかなかった。心優しいダンは、私を犠牲にして自分だけが助かる事を良しとはしないだろう。


 最善をとった結果の失敗であると、自分自身を慰めるしかない。


「お帰りください」

「し、しかし」

「しつこい人だな。あなたには私にとって家族がどれほど大切な存在かわからないのですか? 四歳より後の記憶がない私には、もう新たな友は望めないのです。家族だけなのですよ。その父を、あなたのために謀ろうとした。あなたの必死さに興味を持ったための行動でしたが、どうやら失敗だったようです」

「…………」


 秘密裏に、屋敷を追い出された。使用人が使う裏口から、他の家族に知られないように。


 夜風が少し肌寒い。


 私は、彼を救う手立てのうちの一つを失ったのだ。

 もう二度と、私の訴えなど聞いてはくれないだろう。

 ()()()()()()など、もう何の意味もない。




「シェリーク! シェリーク! 起きなさい!」

「うぇ!? な、なんですかお嬢様! こんな夜更けに!?」


 家に帰り次第、シェリークの部屋に直行した。どうしても、できるだけ早く確認したい事があったからだ。


「ごめんなさい! でも、どうしても明日まで待てなかったの! 図書室の鍵を貸してはくれないかしら?」

「え? い、いいですけど、今から調べ物ですか?」

「私では時間がかかるから、できるだけ早く調べ始めたいのよ」

「はぁ……? ならまあお手伝いしますけど」

「いいの!?」

「そもそも私のお仕事はそれですからねぇ」


 二人で図書室に詰め、ありったけの魔法の本を取り出した。特に、呪いに関する記録は一つも見逃す事ができない。

 すでに一度した作業だが、それでも今一度洗わなければならない情報がある。


「一体なんなんです? 何を探せばよろしいので?」

「呪いよ。呪いには、弱くなるものとそうでないものがあるじゃない?」

「ええ、お嬢様の想い他人はそうでない方ですよね?」

「婚約者よ。片想いみたいな言い方しないで」

「片想いでしょう。婚約者でもありますが」

「もう……。その弱くなる条件について、もっと詳しく知りたいの」


 二冊、三冊、四冊と読んで、まだ望みの記述は見つからない。


「世代交代じゃありませんでした? いや、時間経過でしたっけ?」

「どちらでもいいのだけれど、もっと特定状況下の呪いの挙動みたいな本はないかしら?」

「いぃや、どうでしょう? 厳重保管庫の方は読めない本だらけなので、あそこにあったらもう無理ですけどね」

「だったら解読するだけよ。三ヶ月以内に」

「無茶な……。それで、なんでそんなものが気になるんです?」


 シェリークの疑問はもっともだ。一度調べたものを改めて調べようというのだから、当然何か発見があったと思うだろう。


 しかし、私が見つけたのは単なる疑念だ。

 非常に重要で、見過ごし難い疑念。


 つまり——


「四歳より前の記憶があったの」

「……それって、つまりお相手の方に?」

「そう。彼の記憶喪失は四歳から始まったけれど、四歳までの記憶を保持しているわけではないわ。四歳時点でそれまでの全ての記憶を失ったはずなのよ」


 ダンは過去に、両親の名前すら覚え直しだと言っていた。なのに、先ほどは四歳までの記憶はあると。矛盾しているようだが、一つの解釈が私の心に希望を落とした。


「彼の呪いは、改善傾向にある」

「それは何故でしょう?」

「わからないわ。だから、その原因を探しているのよ。どうやったら呪いが弱まるのか。弱まらないのは何故なのか」


 それを調べるためならば、この国中の本を解読してみせる。


 ◆


 目を覚ました時の不快な違和感を思い出す。

 私はあの感覚を一度しか覚えていないが、どうやら覚えていないだけで六十を超えて経験しているのだとか。


 あんな感覚は二度と嫌だと思う反面、次に経験する時も初めてなのだと思えば少し気が楽になる。

 いや、それは諦めたと言うべきなのかもしれないが。


 父は、とても優しい人だ。どう考えてもお荷物である私を邪険になどせず、家に置いてくれる。

 何か働きが欲しいと思って相談したら『お前はそこにいてくれるだけで構わん』などと言ってくれた。


 少し過度な気がするが、間違いなく優しい人だ。


「ダン、ちょっといいかな?」

「はい、父上」


 手持ち無沙汰で屋敷を歩いていると、父に呼び止められた。促されるままに執務室に向かうと、思ってもみない相手がそこで待っていた。


「君は……」

「お久しぶりですわ、ウォーリー卿」

「……卿なんて呼び方はやめてくれ。私なんて慣例で当主という事になっているだけの役立たずだ」


 勇者の家系は、呪いを受けた者が現れると、どれほど幼くてもその者を当主とするらしい。なので、私も四歳の頃からこの家の当主だ。

 とはいえ、貴族としての職務は周りのものが請け負うので、全くのお飾りという他ない。何もしていない私は、ウォーリー卿という呼び方が苦手だった。


「そうですか。では、ダン」

「ありがとう。不思議とその方がしっくりくる」

「ええ、私もです」


 名前は、確かマーガレット・アリアローズ。おかしな事を言って屋敷を門前払いされていた女性だ。

 だが、彼女が微笑むと少し嬉しい気持ちになる。何も記憶にないというのに。


「何故、彼女がここに? 前に追い払っていたように思いますが」

「そうだが、事情が変わったのだ。どうにも、お前の呪いについて話したい事があるのだそうだ。聞いてあげなさい」

「まあ……構いませんが……」


 前はあんなに腹を立てていたのに、今は随分と落ち着いている。もしかすると、父だけはすでに事情を聞いているのかもしれない。

 前に話した記憶について重要な事実を知っているというのも、あながち完全な嘘というわけでもなかったかもしれない。


「それで、一体何のご用ですか?」

「はい。私と口付けをしていただきたいのです」

「……ん?」


 聞き違いだろうか。彼女はおかしな事を言ったように思うが。


「父上……?」

「して差し上げなさい」

「聞き違いではなさそうですね」


 状況は不明だが、どうやらわかっていないのは私だけらしい。

 父は平然としており、マーガレットは少し頬を赤らめていながらも落ち着いている。


「私は構いませんが、あなたはよろしいのですか? 淑女として適当な男との接吻は避けたい事なのでは?」

「貴方でなくてはこんな事申しません。それに、説明するまでもなく片付けしていただければご理解いただけるはずです」

「そう、ですか……」


 納得はいかないが、相手が良いというのならやぶさかではない。

 マーガレットは控えめにも見目麗しく、落ち着いた態度も魅力的だ。

 初対面の時は変わり者かと思ったが、思えば取り乱していただけのようにも思える。


 私の記憶に残る中で初めての口付けが乞われてするとは思わなかったが、何故だか彼女相手ならば悪い気はしない。


 そして唇を彼女に落とすと、なるほど言われた通り驚くべき事実を理解した。


 ◆


 理解すべきなのは、たった一つ。呪いにおける“経過”とは、時間経過の事でも世代交代の事でもないという点である。


 ならば、何故呪いは弱まるのか。

 それは単純であり、呪いが他者に移る事によるものだ。


 魔王の呪いは呪われた者が死ぬたびにその血縁へと移り変わり、代々呪いを継続させていく。しかし、その移り変わりに際して呪いが摩耗し、やがて機能しなくなるのだ。

 ならば何故勇者の血族のみが弱まらない呪いを受けるのか。それは、勇者に対してかけられた呪いは他者から受け継いだものではないからだ。


 魔王は、一定の年月ごとに勇者の家系から一人を呪うように呪いをかけた。この大元となった呪いは摩耗していき、勇者の血族が呪われるまで期間はだんだんと長くなっていたのだ。

 しかし、記憶障害の呪い自体は新たにかけられたものであるため、最大の力を発揮し続ける。


 魔王の卓越した魔法技術によってのみなしえる、連鎖式呪術。とてもではないが、現代の常識で推し測れるものではない。


「つまり、私と君の間で呪いを移しあったから呪いが摩耗したと?」

「そうです。そして、もう間も無く完全に消滅してしまいます」


 皮肉だ。

 私たちは互いが自らを犠牲にして相手を救おうとしていたが、別に特別な事などする必要がなかったのだ。

 自己犠牲などなく、相手の妨害などせず、ただ普通に相手を思いやって行動するだけにとどめれば、呪い移しによって自然と呪いはなくなっていたはずである。


「呪いをなくす方法を見つけられなかったと思っていましたが、実はすでに見つけていたのです。見つけられないように思い違っていただけで」

「しかし、最後にはその方法にたどり着いたではありませんか。第一印象の通り、あなたは聡明な人でした」

「あら、どの第一印象かしら?」

「えっと……四か五度目です。多分」


 もう、記憶障害などほとんどない。

 どちらが呪いの持ち主なのかすらわからない。三ヶ月に一度ささやかな物忘れによってのみ、私たちはそれを認識する。

 しかし、それももうなくなるだろう。今までの態度からして、もう一度の口付けで完全に片付いてしまうはずだ。


「あなたを愛してよかった」

「貴方を愛せてよかった」


 私たちは、きっと世界の何者よりも幸福だ。

 わずかな呪いがある事を差し引いても、世界で一番。


 そして、今その呪いがなくなった。

 何一つの疑いなしに、完全な幸福者となったのだ。

YouTube配信で執筆していた作品の完成品です


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