61 勘十郎の狂気
永禄元年(1558) 九月
尾張国愛知郡 鳴海荘 末森城 射場 織田信勝
信長が岩倉城を囲んで二月が過ぎたころ、末森城の射場に信勝の姿があった。
信長に対して謀反を起こし、稲生での戦いで敗れた信勝だったが、母である土田御前や重臣の柴田勝家による嘆願により、居城での謹慎処分となっていた。
信長の許しがないと城から出られない為、鬱屈とした心情の信勝だったが、ある程度の自由は認められていた。
それに勝家や蔵人などの家臣や、土田御前はそのまま末森に留め置かれている上に、本来ならば切腹に処されていてもおかしくない所を見逃されているので、文句を言うことはできない。
しかし一度抱いた野望は収まることなく信勝の胸中に渦巻いていた。
だが、兄である信長には到底敵わないことは先の戦で重々承知している。
このやり場のない気持ちをぶつけるかのように、日々弓馬の教練や和歌や書に没頭していた。
「そこにおるのは誰だ 俺の命でも狙いに来たか?」
何者かの気配に気が付いた信勝は、弓矢を引き絞る手を止めた。
「良くぞお気づきになられましたな。 才気に溢れるお方というのは真のようですな」
そう言いながら、脇にある茂みから商人然とした男が出てきた。
この城に出入りする者はすべて記憶している信勝だが、目の前の男は一度も見たことがない顔だった。
「御託はいい。 貴様は何者で、何が目的なのだ。 不審な動きをしたらどうなるか分かっておろうな?」
そういって信勝は男に向け弓矢を引き絞った。
「そんなそんな…某は危害を加えるつもりはありませぬ。 某は烏と申します。 我が主織田伊勢守様からの言伝を預かっておりますが、お聞きになりますか?」
「何、伊勢守だと?……入れ」
信勝は引き絞った弓矢を下げると、家臣に気取られぬよう男を部屋に上げた。
末森城 信勝居室
「浮野の地で大敗した伊勢守が、稲生の地で大敗した俺に何用だ?」
脇息に体を預けながら信勝は仏頂面で話す。
「いえ、稲生での戦いは実に惜しいものでした…。 あまり卑下しすぎるのは自らの格を落としかねませんぞ?」
「ふん。 で、なんだ?世間話をしに来たわけでもあるまい。 俺に再び兄上を裏切れとでも申すのか? もしそうだとしたら算段はあるのだろうな? 無いのならば即刻お主を切り捨てる、兄上に疑われたくはないのでな」
「鷹狩中に事故を装ったり、刺客を雇って会見中にでも刺すなど、方法ならいくらでもあるのではないですか? 貴殿は戦で敗れてから臆病になってしまっているだけでありますよ。 一度抱いた野望、まだ諦めてはないのはありませんか?」
「……伊勢守も兄上がよっぽど邪魔ならしいな。 分かった、兄上を殺れるなら例え修羅の道を歩むことになるのも厭わん」
信勝は見るものに恐れを抱かせるような凶悪な笑みを浮かべながらそう言った。
(まさか、ここまでとは… ここまでの憎悪を募らせるに至ったとは、一体何があったのだろうか?)
烏は信勝の憎悪の一端に触れ、自らの背筋に冷たいものを感じた。
俺は母上からの愛と期待を一身に受け、育っていた。
母や権六、蔵人などの近臣のみならず、家中でも自身を高く評価する者が多かった。
それに対して兄は尾張大うつけと呼ばれ、家中では腫れ物のような扱いを受けていた。
父上の葬儀での兄の蛮行が知れ渡ると、更に兄の評判は地に落ち、相対的に俺への評判はうなぎ登りとなった。
「弾正忠家次期当主は勘十郎様に違いない」周囲の者は皆口々にそう言っており、俺自身もそう思っていた。
しかし父信秀だけは自分を次期当主と認めなかった。
いや、能力的には認めていたのだろう。
現に自身の居城である末森城を相続したのは俺だった上、内政も数多く任されていた。
しかし跡継ぎにだけは最期まで選ばれなかった。
納得がいく訳がなかった。 俺は家中、国内からの評判は高く、実務も堅実にこなしていた。
対する兄は武家の三男四男を集めては、そこらで遊び惚けている。
俺に勝っていることなど年齢ぐらいのものだ。
人望も能力も俺の方がはるかに上回っている。
なのに何故、俺は選ばれなかった?
それ故俺は兄に反旗を翻した。 俺こそが弾正忠家当主に相応しいと…
周りもそうだと言った。 集まる将兵も向こうより多かった。
やはり俺は間違えていなかった、父が間違えていたのだ、そう思った。
だが負けた。 完敗だった。
稲生の戦いで敗れたことにより、兄に勝っていたと自負していた気持ちが、容易く打ち砕かれた。
今まで俺を称え、支持していた家臣共も、皆手の平を返して兄にすり寄っていった。
「儂は初めから上総介様の方が有能だと見抜いておったわ」
「流石尾張の虎を継ぐお方じゃ」
「上総介様、いや殿がおればこの国は安泰ですな!」
コンナハズデハ ナカッタ……
知らず知らずのうちに肥大化していた自尊心や誇りを粉々に打ち砕かれ、心に深く影を落とすことになった。
そんな中で目の前に垂らされた一本の糸
それが蜘蛛の糸であることは重々承知だったが、縋りつかざるを得なかった。
俺は腹心である津々木蔵人を呼んだ。
「蔵人、俺はやるぞ」
「…一体何をでしょうか?」
「俺は…………信長を暗殺する」
数日後 末森城 梅の間 柴田勝家
「柴田様 大方様がお呼びになっておられます。 大方様は梅の間にいらっしゃいます故、柴田様おひとりで参られますようお願い申し上げます」
少し前、城内を歩いていた際に、大方様の侍女がそう話しかけてきた。
「大方様が儂に用とは、一体?」
そう呟いた瞬間に部屋の戸が開かれた為、慌てて頭を下げた。
「権六、面を上げてください」
顔を上げると目の前には妙齢の美女がいた。
大方様 土田御前様は儂を引き立ててくださった大殿の奥方様である。
既に四十は優に越えているであろうが、その美貌は衰えることを知らない。
特に印象的な眦、ツリ目がちな所は殿や上総介様によく受け継がれている。
いつもはその眦のように凛とした佇まいの大方様だが、今日はどこか活気がない様に見える。
「権六に頼みがあります… 勘十郎の様子を探って欲しいのです。 勘十郎は以前にも増して蔵人の所へ行っておるのです」
大方様は深く息を吐いた後、重々しくそう呟いた。
「蔵人とでありますか… しかしながら蔵人と殿は衆道の関係にあります。 こう、言ってなんですがその…」
「そのような場で人を殺める計画をするのですか!?」
「な、なんですと!?」
流石に衆道の話をするのは憚られると思い、言葉尻を濁したが、言い終わる前に大方様が叫び声をあげた。
まさかの内容に思わず聞き返すと、大方様はハッとしたような顔をした後に深く頷いた。
「最初は私も衆道のあれと思うておりました… しかし聞いてしまったのです、勘十郎が三郎をと… うぅ…」
そこまで言うと大方様は嗚咽を漏らしながら押し黙ってしまった。
一度は収まった壮絶な兄弟喧嘩。
血で血を洗う跡目争いが再び起ころうとしているのだ、無理もないだろう…
「そ、某が手の者を使って調べさせます故、大方様は暫しお待ち願います」
半信半疑ではあったが、大方様の只ならぬ雰囲気を見るに、ただの思い違いとも考えにくい。
俺は居城に戻ると急ぎ探りを入れることにした。
数日後
尾張国愛知郡 下社城 柴田勝家
「権六、大方様の話は真であったぞ…」
殿の近辺を探らせていた義兄がそう口にした。
「そうか…大方様にお伝えするのは忍びないが、伝えねばならぬな…」
「待て。 実はもう一つ、お主には言いづらいことがあってだな」
大方様へ事実を伝えるべく腰を上げかけていたが、義兄は儂を引き留めた。
「なんじゃ?」
「……勘十郎様はお主も害すおつもりのようなんじゃ」
「なっ!?」
聞き違えではないのだろうかと思わず振り返ったが、義兄は目を伏せて首を振った。
儂は目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちた。
「何故なんじゃ!? 儂は教育係として、重臣として殿に尽くしてきたとばかり… ふぐぅ…」
俺は思わず顔を抑えたが、溢れ出る涙を抑えきることが出来なかった。
「…お主が上総介様の覚えが良いのがどうも気に食わんようらしい。 以前殿の前で浮野での戦ぶりを称賛していたことがあったじゃろ? お主は気づいておらなんだようだが、あの時の殿のお顔はひどく暗いものであった。 もしかするとあれが決め手だったのかもしれんな…」
「そんな!? あれは他意などない、ただの世間話のようなものじゃ!」
「そんなことは儂でも分かる。 だが今の殿にはそれを正しく受け止めることなど出来んのかもしれんな… 如何する? このままではお主の身も危ないぞ」
「儂は…殿の守役として、筆頭家老として誠心誠意殿にお仕えしておったと自負しておる。 森部での戦いで上総介様直々にお褒めの言葉を頂いた時も、稲生での戦いで敗れた後も、殿をお支えしていくという気持ちに変わりはなかった。 だが何故、このような仕打ちを受けねばならんのじゃ… 殿には儂の思いが伝わらなんだということなのか… 儂は…一体儂はどうしたらいいんじゃ…!」
儂はそう呟きながら畳を握りしめた。
悔しさや怒り、遣る瀬無さなど様々な思いが胸中で混ざり合う。
「お主も分かっておるだろうが、助かる道は一つしかあるまい」
「…一先ず大方様にはお伝えしてくる」
儂はふらふらとした足取りで立ち上がると、部屋を出る為に戸へ手をかけた。
「義弟よ、決して早まるでないぞ…」
部屋を出る儂に対して義兄がそう言ったが、何も言う事が出来なかった。
末森城 梅の間
「そうですか、あの子は三郎のみならず其方までも… 其方には惨いことをしてしまったようですね… 申し訳ございませぬ…」
そう言って大方様は頭を下げられた。
「そんな大方様! 滅相もございません! どうかお顔をお上げください!」
儂がそう言って慌てると大方様は頭を上げられた。
「あの子も馬鹿なことを… 権六が忠誠を誓っておることなど妾にでも分かるというのに… いえ、それすら分からなくなってしまう程の恨みを三郎に抱いておるのですね… 今まであの子を育ててきたのは私たちです、ともすればこうなってしまった責を負わないわけにはいきますまい」
「と言いますと…まさか!?」
「ええ、この事を三郎へ伝えるのです」
大方様は凛とした声でそう言い放った。
しかし目元には涙が浮かび、両の手や肩は小刻みに震えていた。
「良いのですか!? この事が明るみになれば、次は決して見逃されることはないでしょう! そうです!この計画は儂が考えたことにすれば良うございます! 儂一人の命で済むなら安い物です!」
「そんなことで誤魔化せるほど、三郎はうつけではありません。 三郎は聡い子です、既にこの事も知っていてあえて咎めていないかもしれないのですよ?」
「な、ならば今からでも殿を説得致しましょう! 大方様の言葉でしたら殿もきっと!!」
「今の狂気に溺れた勘十郎には妾の声も届きますまい… 今は亡きあの人の悲願であった尾張統一、それが成らんとしているというのに… 再び尾張に戦乱を呼ぶようなことは、例え我が息子だとしても許すことは出来ませぬ。 さあこの事が勘十郎に露見する前に急ぐのです。 早う!!!」
大方様は自身の手を握り締めてそう言い放った。
「大方様がそこまで言われるのならば… では、行って参ります」
大方様の剣幕に少し気圧されつつも、部屋を出た。
「……………お前様の仰る通りになられましたね」
土田御前は誰も居なくなった部屋でそう呟き、涙を流した。
<マイナー武将解説>
吉田次兵衛 諱、生没年不詳
柴田勝家の姉婿である為勝家の義兄となる。 息子には後に勝家の養子となる柴田勝豊がいる。
元は勝家の草履取りだったが、武勇に優れており柴田家随一の家臣となる。
勝家からの信頼も厚く、自身の所領の十分の一を次兵衛に与えるほどだった。
晩年は不詳だが、勝家が越前七十五万石を得た際に丸岡城に入り、その地で隠居生活を送ったという記録がある。
ちなみに勝家の義兄には佐久間久六盛次(鬼玄蕃で有名な佐久間玄蕃允盛政や飯山藩主佐久間久右衛門勝政の父)がいるが、この時期では、同族である佐久間大学助盛重と共に信長方として戦に参加している記録があるので、本作では既に信勝側ではないという事にしています。




