50 疑惑
弘治二年(1556) 八月二十八日
尾張国愛知郡 中村郷中中村 木下屋敷
「………冷たい」
額に冷たさを感じて顔を背けると、額から何かが滑り落ちた。
焦点が合わずぼやけていた視界が、徐々に鮮明になると落ちたものが手拭いだという事が分かった。
辺りを見回してみると、俺は屋敷の一室に敷かれた布団に横たわっていた。
「何故俺は屋敷で寝ている? 確か今まで戦場に居たはず… ぐっ!?」
俺は身を起こそうとした瞬間、身体に激痛が奔った。
「そうか…俺は落馬した後に美作守と戦った… 討ち取った所までは覚えているのだが… こうしちゃおれん! はよ殿の所へ行かねば!!!」
俺は痛む身体に鞭を打って立ち上がると、フラフラした足取りのまま襖へ手を伸ばした。
しかし手が届く瞬間、ひとりでに襖が開かれた。
伸ばした手はそのまま空を切り、俺は前のめりに倒れたが、襖を開けた人物に支えられたことにより、転倒することは免れた。
「殿!!! 目をお覚ましになられたのですか!?」
「おう、清右衛門か… 元気そうで何よりじゃ」
俺を受け止めたのは元正だった。
目尻に涙が浮かんでいるのを見ると、相当心配をかけていたらしい。
「いけませぬ! 御身体に障ります故、布団にお戻りください! 拙者にお掴まり下さい!」
そう言って元正は、まるで壊れ物を触るような手つきで俺を布団に運んだ。
「すまんな。 で戦はどうなったんじゃ?」
「戦は我らの大勝利にございます。 ですが詳しいことは後程お伝えいたします。 殿が三日ぶりに目を覚まされたのです、この事を急ぎ皆に知らせて参ります」
「お主… 今、三日と言ったか?」
「はい。 殿は戦が終わった後、三日三晩お眠りになっていたのです。 医者はこの怪我で生きているなどとは信じられん と言っておりましたが、拙者は必ず目を覚まされると信じておりました!! では!」
そう言って元正は部屋から出ていった。
まさか三日も経っていたとは… 俺はその事実に驚き、ただ天井を見上げていた。
暫くすると、大人数がこちらに向かってくる音がした。 足音からすると相当急いでいる様子が想像できる…
これは家族や家臣たちから、色々と言われそうな感じだ…
だが自身の行いのせいなのだから、甘んじて受け入れ入れるしかない。 俺はそう思いながら再び目を瞑った。
「藤吉にぃ!!!!! よかっただ!!! おら!おにぃが死んじまうかと思うて怖かっただ!!!」
襖を開けるなり、旭はそう言って俺に縋り付いて泣き出した。
心配してくれるのは兄として嬉しいのだが、俺が重傷なのを忘れてはいないだろうか?
「こら旭! 藤吉はひでぇ怪我なんだ! とっとと離れろ!! ったく兵庫どんから聞いたが、殿助ける為に無茶したんだって? 藤吉は昔っから何でも一人で抱え込むって知ってたけどよ… でもまあ藤吉のおかげで殿は助かったんだろ? 大手柄じゃねか!」
智は旭を俺から引きはがしつつ、俺に労いの言葉をかけた。
妹の手前気丈に振舞ってはいるが、目は真っ赤に充血しているので、姉も泣き腫らしていた事は想像に難くない。
「家督を譲ったと思うたらすぐにこれじゃ… 全く心底肝を冷やしたぞ… だがお主の成したことは、武士として立派な事じゃ。 儂はお主の事を誇りに思うぞ」
「おめが傷だらけでけえって来た時、父ちゃんの時の事を思い出して気が気でなかっただよ… よかっただぁ… ほんによかっただぁ…」
母はそう言って肩を震わせて涙を流した。
親父は慰めるかのように、黙って母の肩を抱いた。
母の言葉で、小豆坂の戦いの後、親父も傷だらけで村に帰ってきたことを思い出した。
その姿を見ている母にとって、今回の事は心配で仕方がなかったことだろう。
「皆心配かけてすまなかっただ… だども俺も武士としてやんなきゃならんことがあんだ。 でもそれで皆にそんな思いさせちゃあかんわな… 次はもっと上手くやるだよ」
俺がそう言うと、今まで黙っていた長秀が口を開いた。
「藤吉にぃ、今度はおらも戦へ連れてってくれ! おらだって男だ!兵庫どんらに稽古つけてもらって強くなっただよ? もうこんなことになんねぇように俺がおにぃの力になるだ!!!」
そう言った長秀は俺に向かって頭を下げた。
弟の成長に嬉しさを感じるが、元々武家だった清右衛門たちとは違い、長秀は無理に戦う必要はないのだ。
前世では名将だった長秀だが、俺が居ることでこれからの未来は変わっていくこともあるだろう。
そうなったら長秀が死んでしまう事もあるかもしれない。
家族の幸せを願う俺としては、どうしてもそこが気がかりな為、覚悟のほどを問うてみることにした。
「戦場はそんな甘いもんじゃなか。 一度戦場に出りゃ死と隣り合わせじゃ。 さっきまで仲良う話してたやつが、次会うた時に骸になっとるなんてこともざらじゃ。 それでもお前はやれるのか?」
「覚悟の上じゃ」
そう言って顔を上げた長秀の目に、曇りは一つもなかった。
この目を見ては嫌とは言えない。 流石後の大和大納言だ、覚悟の決まり方が違う。
「兵庫、清右衛門、半三、左近。 お主らにも心配をかけたな」
俺は家族の後ろに控えていた兵庫たちにも声をかけた。
「いえ滅相も… ですが殿がご無事で何よりです… しかし我らも殿と共に戦うと誓った身であります故、死地に向かうのでしたら我らも共に…」
兵庫がそう言って平伏すると、三人も兵庫に続いた。
これで俺が死にでもしたら、家臣らの立つ瀬がないのもあるが、確かに今回は俺一人で無茶をし過ぎたな。
「そうだな、次はお主らも頼ろう。 しかし死ぬのは許さん。 生きてまた共にここに帰ってくるのだぞ?」
「「「「はっ!」」」」
そう言って四人は再び平伏した。
「良い家臣を持ったな」
「ええ、自慢の家臣らです」
親父の言葉に俺はそう返した。
歴史を知る者は俺一人だが、なにも俺一人で全部やらねばならないわけではない。
これからはもっと家族や家臣に頼ろうと、心に決めるのだった。
翌日 木下屋敷
「藤吉!!! 良かった目が覚めたのか!!!! 心配したんだぞ!!!!」
「ぐおおぉぉ!? お主は馬鹿か!? 俺は怪我人なんだぞ!? はよ離れんか!!! 半三はおるか!? この馬鹿者を引きはがせ!!!!」
翌日織田家からの使者として、利家がやってきた。
やってきたのはいいのだが、部屋に入るなり、大泣きしながら俺に縋り付いてきた。 お前は妹と同レベルなのか…
しかし旭と違って、こいつはデカい上に馬鹿力だ、早く引きはがさねば冗談抜きで命が危うい。
俺と並ぶ剛力の持ち主の正成を呼び、なんとか引きはがした。
全く、治りが遅くなったらどうしてくれるのだ…
「すまぬ!! 藤吉の顔を見てついな… これが殿からの文じゃ 論功行賞はお主が寝とる間にやってもうたで、その内容を記したもんじゃな」
落ち着きを取り戻した利家は、そういって懐から書状を取り出した。
細かい所は、俺が記憶していた所と違いはなかった。
違ったことは、林美作守を討ったのが俺であることと、角田新五を討ったのが利家、大脇虎蔵を討ったのが成政であったことだ。
そして一番違ったのは上中村の領主で、林家と共に織田家を裏切った、大秋十郎左衛門と中川弥兵衛がそれぞれ良勝と一忠に討たれたことだ。
信長側の被害も、黒田半平が討ち死にした以外は大きく変わっていないようだった。
ちなみに木下隊に死んだ者は居なかった。 最も、重傷者は居たようだが、少なくとも生きて帰ることは出来たので良かったとは言えよう。
しかし大秋と中川の二人が討たれたことで、上中村を治めていた人物がいなくなってしまったわけだが、一体どうするのだろうか?
「のう又左よ。 この書状にはお主らの褒美は書いてあるが、俺のは書いていないんじゃの?」
「おう! お主への褒美は直接殿が言い渡すと言っておったな! 一番手柄であることは間違いない故、まずは傷を治し、その後に登城せよと仰せじゃった」
「そうか。 ならば楽しみにしなかんな」
「今回は一番手柄を譲ったが、次はそうもいかんぞ? 俺と競うために、藤吉には早よ良うなってもらわなかん」
「ほざけ、今度も俺が一番手柄を取ったるわ」
そう軽口を叩きあうなどして、談笑した後、利家は城へ帰っていった。
殿か… 殿と聞いて思い出すのは、倒れる寸前の時のことだ。
髪を下ろした殿が、お市様と重なった… 確かに信長は美形であり、お市様も童女ながら、将来は絶世の美女になるに違いないと思える顔立ちをしていた。
確かに兄妹で顔が似ることもあるが、方や童女で方や成人男性… 果たしてあそこまで重なるのだろうか?
俺は療養に半月費やしたが、その間どうしてもこの違和感を拭い去ることは出来なかった。
弘治二年(1556) 九月二十日
尾張国春日井郡 清州城
完調とは言い難いが、馬に乗れるほどには回復したので、清州へ登城することにした。
城に向かうと、信長の私室近くの部屋に通された。
部屋から見える中庭には柿の木があり、熟れた実をつけていた。
庭を見ながら、俺は違和感について、聞くか聞かざるべきかを逡巡していた。
「思ったより早よ来たな」
中庭を見ていると、後ろから信長の声がした。 いつ聞いても凛とした高音である。
考えを巡らせていたせいで、接近に気が付いていなかった為、慌てて平伏した。
信長は俺の後ろを通り抜け、円座に座ると脇息に身を預けた。
「まだ万全ではありませぬが、早く殿にお会いしたく…」
「ふん、ぬかしおるわ。 褒美が早よ知りたかったんじゃろ? これが宛行状じゃ」
「頂戴仕ります。 …なんと!?」
その書状には目を疑うことが書かれていた。
「そこに記してある通り、お主には中中村の郡代を正式に任ずる他、旧大秋城一帯の管理も任す。 廃城にするも、城代を置くもお主の好きにするが良い」
信長は俺の驚く顔が面白くてたまらないといった様子で笑っていた。 まるで考えていたいたずらが成功した子どものようだ。
「大秋十郎左衛門の奴が死んだでな。 お主の領地は良く米が育つと聞く故任せてみようと思ってな。 あとこれは此度の戦における感状じゃ。 儂自らが書いた故、家宝にするが良い」
「殿自らが!? ありがたき幸せに存じます!!!」
まさかの信長直筆の感状!!!
こんなもの後世に伝わっているのか!? 伝わっていたら間違いなく重要文化財ものだろう… 屋敷に戻ったら厳重に保管せねば!!!
上中村の裁量権なども嬉しいが、信長ファンの俺にはこれが一番の褒美だ。
泣きそうだが絶対にこれは汚せない!!!
「まさか、ほんな喜ぶとは… 最後の馬についてだが、馬は後でお主に屋敷に届けさせる故、楽しみに待つがよい」
俺の喜びように若干引き気味な信長だったが、咳払いをして話し始めた。
「端々に至るまで殿の御心遣いに感謝申し上げます」
俺は感状をそっと床に置くと、深々と頭を下げた。
「では下がって良いぞ。 これからもしかと励むがよい」
信長はそう言ってあごをしゃくった。
気が浮ついており、気が付いていなかったが、俺は今ここに信長と二人きりである。
そう思った瞬間、あの違和感が今一度頭をよぎった。
一度そうと思ってしまったら、最早そうとしか思えない。 拭い去りたくても拭い切れないあの疑惑…
感状を貰ったことで心が揺らぐが、今聞かねばいつ聞く?
「殿… 最後にお聞きしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
「ん?なんじゃ? よいぞ、言ってみい」
信長はまだ何かあったか?と言いたげな顔で俺を見ている。
無茶をしないと家臣の前で誓ったばかりだが、俺はどうも無茶をする性分らしい…
俺は意を決して信長に問いかけた。
「殿は、殿は本当に男なのですか?」
俺がそう言い放った途端、信長の表情が凍り付いた。




