49 稲生の戦い 下
弘治二年(1556) 八月二十四日 正午頃
尾張国春日井郡 名塚砦 林隊
「者共、かかれ!!!」
稲生原で信長軍と、柴田隊の間で戦端が開かれていた頃。 南方では通具率いる千の兵が、名塚砦を攻撃していた。
「ここを落とされては、清州の奥深くまで侵攻されてしまう! なんとしてでも守り抜くのだ!!!」
名塚砦を守備する盛重も、三百の兵と共に奮戦していた。
通具は数日の間で築かれた砦など、すぐ落とせると踏んでいたのだが、盛重が率いる兵は士気が高く、通具の攻勢を何度も跳ね除けていた。
「あのような砦一つに何を手こずっておるのだ!!!」
通具は戦況が全く動かないことに、苛立ちを隠すことが出来なかった。
「稲生原の戦況はどうなっておる!?」
「既に敵の先陣は大崩れであり、お味方が優勢であります!!」
「それは拙い… このままでは稲生原に居る権六に、手柄をすべて取られてしまう!」
自身は清州を裏切って、末森についた身であり、此度の戦で手柄を挙げねば、自分の立場がなくなってしまう!
そう焦った通具は只管に考えを巡らせた。
暫く唸っていた通具だったが、一つの考えが頭に浮かんだ。
そして悪辣な笑みを浮かべながら、傍らに控えていた橋本十蔵に問いかけた。
「のう、十蔵? 戦と言うものは総大将が討たれれば、そこで終いになる。 その事に間違いはないな?」
「はぁ、そうでありますな… しかし何故この話を? …まさか!?」
一体何を聞かれているのか分からないと言った様子で、頭を捻る十蔵だったが、その考えに至ると驚愕の色を浮かべた。
「そのまさかよ! 我らは今から、名塚砦に抑えを残し、敵本陣を叩く!!! いくら権六が前線を薙ぎ倒そうが、俺が総大将を討ったならば、俺こそが武功一等に間違いない!!!」
「し、しかし我らは殿より名塚攻略を命じられたはず! 主の預かり知らぬ所で、独断で動いてはなりませぬぞ!?」
「五月蠅い! 砦に半数の兵を残しておけばよかろう!! それに上総介の本陣は少数だ! 主力は権六の所へ回しているのだから、横槍を入れれば必ず首を挙げられるに違いない!!!」
通具の行動を諫める十蔵だったが、武功を挙げる事だけに、執心してしまった通具にその声は最早届くことはなかった。
「…では抑えの兵は某が差配致します。 残る兵たちにも指揮官は必要でしょう」
十蔵は通具への説得を諦めると、兵を分ける為に陣幕から出ていった。
「ふん、碌な武功も無しに生意気に 戦は勝ったものが正義なのだ」
十蔵が渋々といった様子で、陣幕から出ていったのが気に食わなかった通具は、床几にどかりと座って呟いた。
それから暫くし、林隊は兵を二手に分けると、通具はその半数を率い、稲生原へ進軍を開始した。
尾張国春日井郡 稲生原 信長本陣
「戦況はどうだ?」
「右備、佐久間右衛門殿、左備、丹羽五郎左衛門殿の加勢により、柴田勢を押しとどめることが能いました! このまま時が経てば、挟撃により柴田勢は敗走すると思われます!」
信長の問いかけに、恒興が自信満々と言った様子で答えた。
「そうか、後は大学が砦を守り抜けば、この戦に勝ったと言っても過言ではない。 名塚砦は付近の民を総動員して造らせたものじゃ。 早々の事では落ちんだろう」
安堵の息を吐いた信長の前に、いきなり伝令が飛び込んできた。
「申し上げます!!! 南方より新手! 兵数およそ五百!!!」
「旗印は!?」
膝をついていた恒興は、驚きを隠せないままに伝令へ詰め寄った。
「二つ引き両の紋!!! 林美作守と思われます!!!」
「名塚砦が抜かれたのか? …いや違う! 奴はさらに隊を二手に分け、ここにやってきたのだ!!」
信長は床几を蹴倒しながら立ち上がると、中間から槍を受け取った。
「そんなまさか!? 名塚には三百の兵が居ります! 砦を抜くには、最低でも倍以上の兵力が要りまする! それをたった五百の兵で攻めようなどとは… 無謀にございます!!!」
恒興は予期せぬ敵の襲来に、狼狽していた。
「しっかとせい勝三郎!!! 美作の奴は、儂を討てば戦が終わるとでも思うてここへ来たんじゃろ! 今の儂らは造酒丞を含め、二百しかおらん! 気を抜けばやられかねんぞ!!! 後備の造酒丞へ本陣守備の伝令!!! そして前備の各隊にも本陣の危機を知らせよ!!!」
「「「はっ!」」」
信長の下知に従い、伝令が各隊へと駆けて行った。
「全く、まさか儂自らが前線で槍を振るう時が来ようとはな… 全軍!儂に続け!!! 織田家の家督を我が物とせん不届き物共を、この手で討ち滅ぼすのじゃ!!!」
「「「「「応!!!!!」」」」」
信長の檄の下、もう一つの戦の幕が上がった。
「かかれ!!!! 上総介の首は目の前だ!!! 目の前の首は捨て置け!!!」
通具は自ら槍を振り回しながら、本陣へと突き進んでいた。
大将を落とされては、総崩れになってしまう。 そうならぬよう、信長本陣の兵たちは、倍の兵力差がある林隊を相手にしながらも、果敢に打ちかかっていた。
しかし気持ちだけでは、人数の不利を覆すことは出来なかった。
林隊は少しずつ包囲を狭めていき、信長軍を一人、また一人と討ち取っていった。
馬廻りの精鋭たちを前線へ送っていたことも重なり、時が経つにつれ、信長軍は徐々に追い詰められていった。
実際、ここに居る馬廻りは恒興一人しかいない。
その恒興も既に信長の傍からから引きはがされており、最早信長の傍にいるのは、槍持ちの中間らのみになっていた。
そんな信長の前に、一人の武将が歩み出た。
「織田上総介殿とお見受け致す。 我が主の為、貴殿にはここで死んで頂く!!!!」
通具は眼前で槍を一周させてから構えた。 隙のない構えから相当の使い手であることが見て取れる。
「ふん、裏切り者めがよう言ったわ。 美作守、お主はこの上総介が討ち取る!!!!」
信長も左半身で槍を構えた。
「はぁぁ!!!!」
「おぉぉ!!!!」
本陣での乱戦で、総大将同士の一騎打ちという、前代未聞の出来事が勃発した。
両者とも一歩も譲らない戦いであったが、体格で勝る通具が徐々に優勢となっており、信長の身体には少しずつ傷が増えていた。
「くっ!!! 一騎打ちなどどうでもいい!!! 殿が危機に瀕しているのならば、助けるのが家臣の役目だ!!!」
信長の様子に居てもたってもいられなくなったのか、一人の若武者が通具の後ろから斬りかかった。
「半平!!! 来てはならん!!!」
そう叫んだ信長であったが、時すでに遅く、若武者の首と胴は通具の槍によって断ち切られていた。
自らを庇ったことにより、命を絶たれた若武者を見た信長は、思わず槍の動きを止めてしまった。
「俺の前で手を止めるとは、舐められたものだ!!!!」
通具は動きの止まった槍を掴むと、力任せに信長を引き付けた。
そして体勢を崩した信長に対し、渾身の力で当身を喰らわせた。
「くっ!」
信長はもんどりうって倒れ伏した。
応戦しようと脇差を抜くが、当身の際にずれた兜が信長の視界を塞いでいた。
通具は、信長の右手を蹴って脇差を跳ね飛ばすと、槍を構えた。
「殿ぉ!!!!!」
信長の姿を見て、駆け付けようとする恒興だったが、自らも戦っている最中で視線を送ることしか出来なかった。
「織田上総介!! 覚悟!!!」
今にも通具の槍が、信長を刺し貫かんとしていた時、前線の方から悲鳴のような声が聞こえた。
思わず振り返った通具は、驚愕の余り目を見開いた。
「間に合えぇ!!!!」
そこには十文字槍を携えた武将が馬に乗ったまま突進してきていた。
「ぐおぉぉぉ!!!!」
通具は咄嗟に槍を盾にしたが、騎馬武者の勢いは凄まじく、槍は半ばから折れ、通具も吹き飛ばされた。
「がはっ!!!!」
折れた槍が馬の脚を折ったことで、騎馬武者は地面に投げ出された。 そしてそのまま近くにいた信長の上に覆いかぶさった。
「ご、ご無事でしょうか 殿」
自らの上に覆いかぶさった騎馬武者は、傷だらけのその身を起こしつつ、声をかけてきた。
「藤吉郎!!! 済まぬ!助かった!!!」
甲冑の所々には罅が入り、血で汚れていたが、それは此度の戦で遊軍を命じた木下藤吉郎であった。
「ふふ… 馬廻りとして当然のことであります。 しかしまだ戦いは終わっておりませぬ、殿は某からお離れを!」
俺はそう言うと、通具がいる方を見た。
「くっ、まさか包囲を破られるとは… しかし飛んで火にいる夏の虫とはこの事よ! たった一騎で何が出来る!!!」
通具は口の端から血を流しつつ叫んだ。
「何が出来るか… そんなもの馬廻りとしてやることはただ一つ!!! この命を懸けて殿をお守り致す事のみ!!!! 逆賊林美作守!!! いざ尋常に勝負!!!!」
落馬した際に鳴神を落としていた為、俺は刀を抜くと通具に向かって咆えた。
「小癪なぁ!!!!」
通具は折れた槍を構えると、猛然と秀吉に向けて突きかかった。
数々の一騎打ちが行われたこの戦いで、最後の一騎打ちの火蓋が切って落とされた。
稲生原 信長本陣 木下秀吉
「おぉぉぉ!!!!」
折れたとはいえ、未だリーチで勝る通具は果敢に攻めかかった。
対する俺は、防戦に徹して隙を伺い続けていた。
しかし先程無茶をし過ぎたせいで、体力の限界に近く、捌ききれない攻撃もあった。
「いい加減にくたばれ!!!! なっ!?」
疲れと苛立ちから、通具が大振りになった隙をつき、俺は一気に肉薄した。
「ふん、懐に入られると長物は弱い!! そんなことも知らんのか!?」
俺はそう叫びつつ逆袈裟で通具を斬り上げた。
「ぬぅん!!」
通具は咄嗟に上体を逸らして避けると、槍を捨てて刀を抜いた。
俺の放った斬撃は、通具の甲冑の表面を浅く削っただけであり、 辺りには金属が削れる音と、焼け焦げたような匂いが生じた。
「はぁ!!!」
今度はお互いに刀を使っての剣戟となった。
先程とは打って変わって、刀術を修めた俺が優勢で、通具を追い詰めていた。
「ふん!!!」
純粋な刀術では勝てないと踏んだ通具は、刀を投げつけた。
そして組討ちへ移る為、俺の襟首に向かって手を伸ばした。
「なっ!?」
投げつけられた刀を驚きつつも弾いたが、その事に気を取られ、襟首を掴まれてしまった。
このままでは刀を振れない為、刀を手放すと、通具を引きはがそうと両手で腕を捻り上げた。
「「ぐぬぅぅ……!!」」
後はお互いの腕力を持って敵を無力化するしかない。 お互い全身に力をこめ、引きはがそうとする。
通具は喉輪で俺の上体を逸らそうとした。 俺もそれに素早く反応し、その手を掴んで肘を極めると、外掛けで引き倒した。
堪らず通具は仰向けに倒れ伏した。
俺は馬乗りになる為に、その身を躍らせるが、通具に脇腹を蹴られ思わず蹈鞴を踏んだ。
先程の落馬のせいで全身が痛いが、特に脇腹の傷が深刻かもしれない…
「「ぬぉぉぉぉ!!!!」」
一瞬間が空いたが、俺たちは再び互いを引き倒そうと組み合った。
通具はまた喉輪を、俺はその腕を抑え込みつつ、通具の顔面へ右手を伸ばした。
「ぐぬおぉぉ!?」
咄嗟に頭を振った通具だったが、俺の二本目の親指が、通具の左目を貫いた。
怯んだ通具をそのまま引き倒して馬乗りになると、俺は右腰から鎧通しを抜くと、通具の首へと押し当てた。
通具も刺されまいと必死に抵抗をするが、俺が体重をかけられる分、少しずつ首に切っ先が食い込んでいった。
食い込むにつれ、俺の顔に通具の首から噴き出した血が掛かった。
後ろの方では通具を助けようと、俺を狙うものの声がするが、どうも恒興たちに食い止められているらしい。
暫く、抵抗していた通具だったが、ついに力尽きたようで、鎧通しが深々と突き刺さった。
抵抗が無くなったのを確認すると、俺は腰刀で通具の首をとり、高々と掲げた。
「林美作守通具!!! 木下藤吉郎秀吉が討ち取ったり!!!!」
「「「「おおぉぉぉぉ!!!!!」」」」
信長軍の歓声が戦場に木霊した。
稲生原 信長本陣 織田信長
秀吉は今にも倒れそうな様子で、通具の首を掲げていた。
総大将が討たれたことで、林隊の兵の士気は地に落ち、逃げ出す者さえ居た。
「貴様ぁ!! よくも美作守様を!!!!」
通具の首を取り返そうと、未だ猛る兵もいたが、信長はその兵を前にして叫んだ。
「聞け逆臣共よ!!! この上総介信長こそが、父弾正忠信秀より正統に家督を譲られた、織田弾正忠家当主ぞ!!! 我が弟の大義無き謀反に加担し、俺に歯向かうなど武士の風上にも置けん!!! その所業は三代先まで誹りを受けることと思え!!!!」
信長の大音声は、稲生原の地を駆け巡り、前線の柴田勢まで届いていた。
稲生原激戦地 柴田隊
「ふふ、殿の声は相変わらずの大きさだな… まさか本陣からここまで聞こえるとはな で権六よ、お主は如何する?」
頬から血を流しつつ、可成は勝家に語りかけた。
「…そうだ、上総介様は亡き大殿が、正式に家督をお認めになった当主… 儂を、家老にまで取り立てて下さった大恩ある御方の後継者に、儂は何故槍を向けているのだ?」
勝家は思わず槍を落とすと、膝をついた。
勝家の様子と、信長の声を聞いた柴田勢や、通具が討ち取られた林勢でも、同じような動揺が広がり、戦意を喪失した者が次第に逃げていった。
こうして稲生の戦いは、信長率いる清州織田家の勝利で幕を閉じた。
稲生原 信長本陣 木下秀吉
俺は信長の大音声を背に受けながら立っていたが、そろそろ限界を感じていた。
もう足に力が入らず、地面に倒れ伏すところだったが、そうはならなかった。
「しっかりせい藤吉郎!!!」
信長が倒れ行く俺の身体を抱きとめると、そう必死に声をかけた。
「と、との ご無事で何よりで…」
俺が後一秒遅れていたら、信長は生きていなかったかもしれない。 信長を守りきれたことに安堵しつつ、俺は声を絞り出した。
「全く、無茶をし過ぎだ!!!」
俺を覗き込む信長の目には涙が浮かんでいた。
「い、いつ何時とあろうとも と、殿の御身を守るのが、馬廻りの任と…」
「だからと言って、前線から! それも馬に乗ったまま突っ込んでくるものがあるか! このうつけが!!! もう話すでないわ、この大うつけ!!!!」
俺の言葉を遮るように、信長は涙を流しながら叫んだ。
今までずれていた兜が、叫んだことで完全に脱げ、普段茶筅髷にしている長髪が露になった。
こう見ると信長は、濡れ羽色の艶やかな髪をしているんだな…
「と、殿に そのお言葉を かけられるとは ゆ、夢にも 思いませな ん だ……」
「藤吉郎!!! 返事をせい!!! 藤吉郎!!!!!!」
俺は薄れゆく意識の中、なぜか信長の顔とお市の顔が重なったように見えた。
戦闘描写難しい… ちゃんと伝わっていますかね?




