44 林兄弟
弘治二年(1556) 五月二十六日
尾張国愛知郡 那古野城 客間
「わざわざ殿自らいらっしゃるとは、用向きでしたら某が清州に参る所でしたが…」
一人で客間に入ってきた秀貞は、信長に座礼をすると恭しげに話し始めた。
下四郡統一時の宴会でチラッと見かけたが、近くで見たのは初めてだ。
見た目は頭髪が少し寂しいくらいで、ごく普通の初老男性といった所だろうか。
しかし身体つきは同世代の武将と比べると、貧相に見える。きっと内政を担当することが多い為、筋肉量が少ないのかもしれない。
「して本日は何用でこちらに?」
何もないような様子で語りかける秀貞だが、恐らく心中は穏やかではないことだろう。
ただの世間話に来たのか?いやそんなことは無い。 それとも謀反が明るみになったのか? ではなぜここに来た?
こんな感じに混乱することが簡単に想像できる。
「うむ、単刀直入に言う。 其の方、勘十郎に内通しておるな?」
信長の言葉を聞き、一瞬時が止まったような気がした。
おいおい、いきなりかよ… 長近の顔を見る限り、彼もそう思っているだろう。
「な、なにをおっしゃっているのかが…」
秀貞に至っては、可哀そうなことに顔面蒼白で、そう言葉を絞り出すのがやっとだ。
「調べはついておる、先日鷹狩り中に襲ってきた者が吐いたのよ。 勘十郎の命で襲った、林家も末森についたとな」
「…それをお聞きになって、殿はこの佐渡をどうされるのですか?」
秀貞はどんな沙汰を言い渡されるか、怯える様子で信長に聞いた。
「どうするも何もない。 お主から勘十郎へ、謀反をやめるよう説得をしてほしいのだ」
しかし信長から帰ってきた言葉は、秀貞の予想だにしていない一言だった。
驚きすぎて秀貞はポカンとしている。隣を見ると長近も同様だった。
「東には大国である今川、上尾張には先日も敵対行動をとった伊勢守、更に義父上が亡くなったことで、美濃斎藤家も再び敵に回ることとなった。 そして清州で保護している武衛様も、近頃どうも様子がおかしい。 周囲を敵で囲まれた今、兄弟で争っている場合ではないのだ、お主にも分かるだろう? 勘十郎を改心させた暁には、お主にさらなる所領を与えることを約束しよう。 弟の美作に城を宛がうことも可能だ。 重臣たるお主になら、それが能うと信じておるのだ。頼めるか佐渡よ」
信長は秀貞を真っ直ぐに見つめ、そう言い放った。
もし信長にこんなことを言われたなら、俺は一生信長様について行くことを誓うだろう。
現に秀貞も気持ちがかなり揺れ動いているようだ。
「も、もし某が勘十郎様をお止めしたとして、その後の勘十郎様の処遇は如何致しますか?」
「赦すに決まっておろうが、弟の過ちは赦すのが兄であろう。 佐渡も弟を持つ兄故、気持ちは分かるのではないか?」
そう言って信長は歯を見せて笑った。
秀貞はその言葉を聞き、ハッとしたかと思うと下を向き考え始めた。
秀貞は信長の話す姿を見て、今は亡き信秀との会話を思い返していた。
『なぜ殿は世継ぎに三郎様をお選びになったのですか? 家臣や城下では織田の若様はうつけだと専らの噂になっております! 土田殿の御子であれば、弟の勘十郎様の方が良き主になると家臣の中でも噂されておりますが…』
『儂には戦場や政を通し、その中で多くの人間を見る事で“人を見る目”が養われた。 その儂の目をもってしても、倅の、三郎の将器は量りきれなんだ。 きっと奴は儂らの考えもつかぬほどの名将になるだろう、それに儂は賭けたのよ』
まだお主には分からんかもしれんがな、最後にそう言って信秀は歯を見せて笑った。
奇しくもその笑みは、先ほどの信長の表情と重なっていた。
あの時大殿が言っていた意味がようやく分かった… これが大殿の感じられた将器の片鱗か…
秀貞の気持ちは最早信長方へと傾いていた。 しかし家中は反信長でまとまっているためそうもいかない。
今も隣室にいる弟が、襲撃の為刀を抜いて待っている… 儂の命がなくとも出てくるやもしれん…
儂は…儂は一体どうしたらいいのだ!?
秀貞は己の気持ちと、家中の意見の狭間で板挟みになっていた。
そんな秀貞を救ったのは意外な人物だった。
「佐渡守殿、やはりこの城は静かで良いですな。 某が当家に出仕した時もこの城でした。」
「木下殿でしたか? 一体何を言いたいのですかな?」
「しかし少々静かすぎる、まるで城中の人間が息を殺しているようだ… おや?佐渡守殿、顔色がよろしくありませんね? なにか心当たりでも?」
「い、いや特には…」
「ではそこの美作守殿は如何でしょうか?」
俺は客間と隣室とを隔てる襖に向かって話しかけた。
「「なっ!?」」
驚いてそう叫んだのは長近と秀貞だ。 尤も叫んだ理由は違うのだが…
信長が驚いていない所を見ると、もしかしたら最初から気づいていたのかもしれない。
「そんなに殺気を出していては、見つけてくれと言っているようなものです。 折角お隠れになるのでしたら、もう少し上手くやりませぬと…」
俺はニヤリと笑いながらそう続けた。
さあ?どう出る林兄弟?
「け、検討致す故、と、とりあえず今日の所はお帰り下さい!!!」
沈黙を破ったのは秀貞の叫びだった。
場には剣呑な雰囲気が漂っていたが、秀貞の言う通りにして俺たちは城を後にした。
那古野城 秀貞私室
「兄上!!!なぜあの時合図をくださらなかったので!? …まさか彼方につかれると申されるか!?」
通具は私室に入るや否や、掴みかからんばかりの剣幕で捲し立てた。
「それはない! …たとえ儂がそうしたくとも、それでは家中が纏まらんだろう」
最初はそう叫んだ秀貞だったが、自分の気持ちに嘘はつけないようで尻すぼみになっていた。
「兄上絆されたか!! それに奴だ!あの大柄な若造!生意気に挑発してきよった! 今からでも遅くない、追って奴を成敗致す!!!」
そういきり立って部屋を飛び出そうとしたので、秀貞は慌てて止めに入った。
「待て!行くでない!! やるのならば戦場でだ!!」
「兄上は俺があんな若造に負けるとでも言いたいのか!?」
完全に頭に血が上っている通具は、思わず秀貞の胸倉を掴んだ。
「そうではない!!! ここで挑発に乗っては、奴の思い通りになることがお主には分からんのか!? ここで殿を攻めては向こうに大義名分を与えることになってしまうことになる! 戦をするには大義名分が必要だ、主筋を討つのならそれ相応の物がいる。それをしなかった者の末路はお主も知っておるはずだろう!?」
しかし負けじと秀貞も叫んだ。
秀貞の言葉で、大和守家の末路を思い出した通具は、胸倉から手を放し、奥歯を嚙み締めた。
「儂らはああなってはならん、その事を肝に銘じる事だな… それと儂は隠居することにする、家督はお主に譲ろう」
「何故!? それに譲るのなら新五郎では!?」
「倅はまだ若年、林家を継ぐにはまだ早い。 お主には子が居らんから、養子にしてお主の後を継がすが良い」
「分かった、では林家は俺が継ぐ。 そして兄上の隠居と末森織田家につくという旨を明日清州に伝える、それでよろしいか?」
「ああ、儂は城下に館でも構えるとするか。 後の事は頼んだぞ」
「兄者も息災でな」
家督を継げると分かり、少し機嫌が良くなった通具は部屋を後にした。
「これで良いのだ…殿と大殿が被って見えてしまった今、儂はもう殿に槍を向けることは出来ん… それに木下藤吉郎… 刺客が居ると気づいて尚あの行動とは、相当武芸に自信があるに違いない。 確か大和守家との戦でも敵将を討ち取っていたはずだ、戦場で相見えたのなら、武芸で鳴らした弟といえども敗れるやもしれんな… そうした時の身の振り方でも考えておくか…」
秀貞はそう呟くと一人残った私室で考えを巡らせるのだった。
尾張国春日井郡 清州城付近
清須へと戻る道中、俺たちは街道から少し離れた所で小休止を取っていた。
「どうやら追手はないようですな」
周囲を確認していた長近がそう言って戻ってきた。
散々煽ったのだから、追手を差し向けられていてもおかしくはない。
「では、何故あのような事をしたのか、申し開きがあれば言ってみよ」
信長は地面の上で平伏している俺に向かって話しかけた。
「恐らく林家中は末森に味方すると決まっているようなものと考えます。 しかし佐渡守殿の顔には迷いが見られました故、その迷いを大きくできればと思った次第であります。 それと隣室の美作守殿が、いつ出てくるかが予測できないこともあり申した。 不意を突かれて後手に回っては危険だと判断し、先に手を打った次第であります。
もし挑発に乗って美作守殿が出てきたとしても、殿が仰ったように、道理を離れることを嫌う佐渡守殿が、戦場でもない所で主筋を討つようなことを許すはずがないと確信しておりました。 美作守殿が出てきた時でも、某であればお二人を守り、城を脱することは能うと考えておりました」
俺はそう言って、腰から脇差を抜くと前に置いた。
「ほう、藤吉郎殿の脇差は少し大振りですな」
脇差を見た長近がそう呟いた。
「家の者に打たせた特別な物になります。 刀にかなり厚みを持たせてある為、普通の脇差より重く、切れ味も鈍いですが、破壊力に優れております。 某が試したところ、数打ちの刀であれば鍔元から折り取ることも能いました」
「ほう、お主は勝算のある策ならば、主を危険に晒しても良いと申すのだな」
信長は平服している俺の傍まで歩み出るとそう言った。
これは拙いかもしれない… 少々軽率な行いだったか…
でも今更後悔した所でもう遅い、手討ちにされようが、すべて自らが招いた結末だ、大人しく受け入れよう…
首元に刀が振り下ろされることを想像する俺だったが、そうはならなかった。
俺の肩には信長の手が置かれ、驚いた俺は思わず見上げた。
俺の目の前には、笑顔の信長が居た。 こんなに近くで信長の顔を見たのは初めてだ。
お香を使っているのだろうか?信長から発される良い匂いが俺の鼻腔擽った。
信長の整った顔が目の前に来たのに加え、良い匂いまで…
これは色々な意味で拙いかもしれない!!!!
恐らく俺の顔は今真っ赤になっていることだろう。
その顔が可笑しかったのか、信長は大笑いをした。
「ふん、愛い奴め。 少々気に食わんかったが良い!そのまま励むのだな」
一しきり笑った信長は目尻に浮かんだ涙を拭きながらそう言うと、踵を返して馬に乗った。
「城へ戻るぞついてこい!!!」
言うが早いか、信長は馬を走らせ、俺たちは急いで後を追うのであった。
美作守が言った新五郎は、秀貞の嫡子である林光時の事です。資料に乏しく、情報が得られなかった為、仮名は秀貞のものを使っています。
史実では稲生の戦いに参加しなかった秀貞ですが、本作では隠居してしまいました。
これから林兄弟はどういう運命をたどるのでしょうか?




