43 迫る凶刃
弘治二年(1556) 五月二十六日
尾張国愛知郡 那古野城付近
一度清州城で合流した後、俺たちはたった三騎で那古野城へ向かった。
もちろん内訳は信長、長近、俺だ。
領内とはいえ不穏分子を孕んだ中で、たった二人の護衛と共に移動するのは何というか信長らしい。
「殿、先触れも無しで本当によろしかったのでしょうか?」
那古野までの道中で俺は信長にそう切り出した。
「よい、先触れなどをしては佐渡に態勢を整えられてしまう。 それに儂らは交渉に行くだけであって、戦をしに行くわけではない」
「殿がそのおつもりでも、あちらがそうとは限らないでしょう。 我らもお守りいたしますが、もしものことがあれば…」
そう言いかけた長近だったが、その言葉を信長が遮った。
「阿呆、いくら儂が思い切ったことをするとは言え、むざむざ殺られに行くわけがなかろうが。 佐渡は小心者な所はあるが、義理高く律儀な男だ。 あ奴は名を汚すことや道義に外れる事を最も嫌う、交渉の場で主筋を討つなどせんわ」
「そうでありますか…」
言葉上は納得した様子の長近だったが、顔には懐疑的な表情が残っていた。
「それと佐渡が勘十郎に付いたのは、この性格に起因するだろうな。 型にはまらぬ儂と礼儀正しい勘十郎。 全く、いかにも佐渡の考えそうなことじゃ…」
そう話す信長の顔には、なんとなく物悲しさを感じた。
その表情に気づいた長近は、信長の心中を察し口を噤んだ。
林佐渡守秀貞。 元は尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪だったが、父親の林道安と共に信秀に仕え、政治や外交によって重臣へ上り詰めた武将だ。
幼少の信長に家老として仕え、元服に際しては介添え役を務めるなど、後見人的な存在であった。
稲生の戦いで敵方になった後も、信長に許され、引き続き家老として仕え続けているのを見ると、秀貞の行政手腕はかなりの物だったと考えられる。
その後信長の天下取りに際して、秀貞は影となり支え続けていた。得た所領は少ないが、宿老と言う身分は変わらず、信長主催の茶会には必ず参列したり、信長も安土城の天守の見物に招いたりするなど、関係は良好だった。
しかし天正八年に突如として追放されることとなった。追放理由は諸説あるが、真相は明らかになっていない。
そんな秀貞だが、幼少の信長に仕えたことを思うと、うつけ時代の信長の行動に傅役の平手政秀と同様に頭を悩ませていたことと考えられる。
秀貞は信長にとっては深い間柄であり、そんな人物が裏切ったと言うのだから、信長の表情にも頷ける。
「そろそろ那古野に着くぞ。 ここからは敵陣深くへと切り込むことになる、五郎八、藤吉郎もそう心得よ」
「はっ、殿は我らが命を賭して守り通す所存に、どうかご安心くだされ」
「大良河原で見せたお主の武、期待しておるぞ。 最も出番がない方が良いのだがな」
信長は俺の言葉に軽口を言って笑っていた。
「殿、では某が行って参ります」
長近はそう言うと城門へと駆けて行った。
取次役であろう門番の表情がチラッと見えたが、相当慌てているように見えた。
先触れも無しなのだから当たり前と言えば当たり前だ。
暫く城門前で待たされるかと思ったが、意外と早く城内に招かれた。
流石に主君をいつまでも外で待たせるわけにはいかないからな。
城に入ると、俺たちは広間ではなく、中庭に隣接した客間に通された。
しばらくすると侍女らしき女性が、茶と饅頭を持ってきた。
ご丁寧に護衛である俺らにも渡してきたが、ここは最早敵城であり、何が入っているか分からない故、手を付けるわけにもいかない。
肝心の護衛対象は警戒することなく口に運んでいるが… まあ、気にしないでおこう…
「どうした?お主らは食べんのか? いらんなら儂が食うぞ」
言うが早いか、俺たちの饅頭は信長の口に吸い込まれていった。
たしか信長は甘いもの好きだったな… 献上用に何か甘い物でも開発しようかな?
信長から視線を戻し、部屋を見渡すと綺麗に手入れをされた中庭が目に入った。
見た所によると兵は伏せられていないように見える。
しかし中庭と反対の戸、即ち城内に続く戸は閉め切られていた。
そちらには兵が伏せられている可能性もあると考え、俺と長近は互いに目配せをして警戒に当たった。
さて、説得は上手くいくのだろうか? そう考えながら俺たちは秀貞の入室を待つことにした。
尾張国愛知郡 那古野城 林佐渡守秀貞
「殿!!清州から大殿が参られました!!!」
「なんだと!? 殿が!?」
門番からの報を受けた秀貞は思わず大声で叫んだ。
「兄上? 如何されました?」
「と、殿がここに参られたそうだ…」
「なんと!? 先触れは?」
「それがあったらこんなに驚いとらん!! 全く、昔から想像もつかない事をしでかすお人ではあったが、実、常識に欠ける…」
「如何致しますので?」
「如何もなにも会うしかあるまい… 一先ず客間に通し、茶を出すなどして時を稼ぐとしよう」
秀貞は門番に信長を客間へ通すように命令すると、信長がここに来た理由を考えた。
しかし持ち前の頭脳でここまで出世した秀貞には、既に答えは出ていた。
だが、それを認めたくはない、何か他の理由がないのか? いやそうであって欲しい!と思う秀貞であったが現実は無常だった。
「……まさか信勝様への内通が露見したのではないでしょうか!?」
しかしそんな兄の心を知ってか知らず、通具はそれを口に出した。
「それしかあるまい… これは拙いことになった、一体何を要求されるのか…」
諦めた秀貞はため息を一つついた。
「兄上、もしやこれは絶好の機会なのではないでしょうか? 恐らく殿、いや信長は小勢でここにやってきたはず、大勢で囲み護衛を討ち果たした後、腹を斬らせては如何です?」
「馬鹿を言うな!!! 殿は我らが主筋ぞ、そんなことは出来ぬ!!!」
「何を言われるか!我らは勘十郎様を主と決めたではありませぬか!! まさか!この那古野を賜って心が揺らいだとでも言いなさるか!?」
「そ、そうではない! し、しかし最近になって思うのだ、上総介様はうつけではないのかもしれんと… 我らが参陣しなかった村木での戦いぶり、清須を落とした手腕、敗戦ではあったが大良河原での撤退戦も鮮やかだったと聞く。 果たしてこの戦ぶりを勘十郎様であったら成し得たのだろうか?」
「兄上!ここまで来て何を迷われる!!! 品行方正で堅実たる勘十郎様の方が織田弾正忠家を率いるに相応しい。そう仰ったの兄上ですぞ!? 万松寺での一件をお忘れになられましたか!?」
万松寺での一件とは、信長が父信秀の葬儀に遅参した上、抹香を位牌に投げつけその場を後にしたことである。
林兄弟はそれを眼前で目の当たりにし、信長が当主では織田家は滅びると考え、信勝に接近を始めたのだった。
「…分かった、しかし上総介様には儂が会う。 お主は兵を引き連れて隣部屋で伏せよ、儂が其方の名を呼んだら斬りかかれ」
「おお!ご決断為されたか。 急ぎ腕利きを集めまする!」
「分かっているとは思うが、決して音を立てるではないぞ!!!」
「心得ております!」
そう言い残すと通具は足音を鳴らして去っていった。
今音を立てるなと言ったばかりなのにと、少々愚鈍な弟に秀貞はため息をついた。
「これも乱世の常… 殿、お許しくだされ…」
一人残った部屋で秀貞はそう呟くと、着物の襟を正し、信長が待つ客間へと向かうのであった。
遅筆な筆者、まさかの連投です。
林兄弟が万松寺抹香事件で信勝側に接近したのは、筆者の創作です。史実ではいつごろから接近したのでしょうね?




