38 大良河原の戦い
皆さんお久しぶりです。
弘治二年(1556) 四月二十日
美濃国 方県郡 長良川南岸 斎藤利尚本陣
道三軍の残党を蹴散らした利尚は、本陣に戻って家臣と共に勝利を祝っていた。
普段なら戦勝を祝って盛り上がるのだが、時勢で敵味方に分かれただけで、これは同じ家の者で戦いであった。
その為、上げた首級は皆顔見知りであった。
その為大きく喜ぶことも出来ず、粛々と進んでいた。
「こちらが道三入道の首級になります。 ご確認をば…」
首実験を始めて暫くすると、道勝が道三の首を携えて帰陣してきた。
それまで床几に腰かけ、無言で首を検めていた利尚だったが、おもむろに立ち上がると、ふらふらとした足取りで道勝に近づいていった。
そして袋を開けて確認をするや否や、両目に大粒の涙を溢れさせた。
「父上… やむを得ぬこととは申せ、かような次第になりましたるは、某の不徳の致すところであります。 どうかお許しくだされ。 美濃はこの新九郎が引き継ぎまする故、ご安心をば…」
利尚は見上げるような巨躯を縮こませ、震える声でそういって静かに手を合わせた。
その姿を見た家臣も、顔を伏せ、美濃を征服した乱世の梟雄の死を悼むのであった。
「伝令!!!! 尾張からの援軍が大良の東蔵坊に着陣したとのこと、兵数凡そ二千、当主自らが率いている模様!殿!ご下知を!!」
静まり返っていた本陣に、斥候に出ていた兵からの伝令が飛んできた。
利尚は涙を拭うと大声で下知を飛ばした。
「やはり来たか… 我が領内に踏み込んだ今が好機!! 道三の死が織田方に伝わる前に急ぎ討伐するのだ! 者共出陣じゃ!!!」
同日
美濃国大良河原 東蔵坊 森隊
既に道三が討たれていることなど、知る由もない信長軍は、木曽川と飛騨川を越え、大良の寺砦である東蔵坊に着陣していた。
急な陣ぶれだった為、動員出来た兵数は僅か二千だった。
前線に出る指揮官が不足していた為、馬廻の半数が与力として譜代家臣につけられていた。
俺が森隊、利家が佐久間隊、成政が滝川隊、秀隆が丹羽隊、直政が坂井隊にそれぞれついている。
残り半数は本陣で信長の警護や各隊の伝令に動いているはずだ。
「藤吉郎殿が与力におるのは心強いのぅ、儂に何かあったらこの隊を頼むぞ!」
「戦の前にして、そんな滅多なことを言わんで下され…」
俺の隣で陽気に笑う可成を見ながら、俺はそう返答した。
武勇で鳴らした森隊は、全軍の中で最前列に位置しており、いつ戦端が開かれてもおかしくない。
しかし戦国を生きる男としては、可成の自信に裏打ちされた余裕が少し羨ましくも感じる。
俺はそう思いながら、前を向いたその時だった。
「敵襲!!!」
その叫び声は前線の兵のどよめきとほぼ同時に聞こえてきた。
「三左衛門殿!!」
俺は可成に指示を仰いだ。
「最前線ではあるものの敵襲が思ったより早いな… 伝令は急ぎ本陣や他隊に敵襲の報告を! 残った者はここで敵を食い止める!! 者共!この三左に続け!!!」
可成はそう叫ぶと、馬腹を蹴って前線へ繰り出した。
俺も鬨の声を上げながら、可成に追随し、戦場へ向かった。
美濃国大良河原 東蔵坊 前線 森隊
「ったくキリがないのぅ!! こりゃ斎藤勢は儂らが来るのを読んでおったな!」
可成は前線で槍を振るいながらそう叫んだ。
可成に近づく者は、悉くその槍の餌食となって戦場に骸を晒していた。流石『攻めの三左』と呼ばれる猛将だ。
「そのようですな!」
俺は可成に同意しつつ槍を振るった。
実際、信長の援軍は斎藤家に読まれていたのだろう。でなければこんなに早く敵の大群と出会う訳がない。
「三左衛門殿!!! 騎馬武者が見えました! 恐らく単騎だと思われますが…?」
両軍が入り乱れる中で、俺は母衣を背負った一人の騎馬武者を見つけた。
その騎馬武者は刀も抜かず、一心不乱にこちらへ突っ込んできている。
俺は始め一騎駆けをする武者かと思ったが、抜刀せず突っ込んでくる様子に違和感を覚えた。
「者共!!! その騎馬武者に手を出すでない!!! その者は使者じゃ!通せ!!! 斎藤勢に決して討たせるでないぞ!!!」
俺がそう思ったのと同時に、戦場に可成の声が響き渡った。
その声を聞いた森隊の兵は、道を開けると同時に、騎馬武者の後ろについてきた斎藤勢に襲い掛かった。
森隊の援護を受けた騎馬武者は、礼なのか右手を高々と掲げるとそのまま走り去っていった。
美濃国大良河原 東蔵坊 信長本陣
「勝三郎 首尾はどうだ?」
床几に座っている信長は、傍にいる恒興にそう聞いた。
「はっ! 殿の御下知通りに譜代、馬廻以下二千 すべて配置につき申した。 先程先鋒の森隊から伝令が届き、戦端が開かれたとのこと。」
「利尚め…既にこちらにも兵を向けておったか… 儂らは精鋭と言えども少数急ぎ、陣を進めるぞ!」
信長がそう言った時、俄かに本陣にどよめきが奔った。
「何やら兵が騒がしいですな…? まさか奇襲か!?」
そう言って警戒した恒興が陣幕に手を書けようとした瞬間、思いもよらない人物が転がり込んできた。
「道三入道が五男… 斎藤新五利治と申します!! 父道三が率いる軍は、 既に壊滅状態であります!! ち…父上が、父上が婿殿にこれをと!!」
道三の息子と言った男は、血で汚れた書状を恒興に渡すと、その場で崩れ落ちた。
戦場を駆ける際苛烈な攻めを受けたのであろう。その者の甲冑は自らの血で汚れ、欠けている箇所すらあった。そして背負っていた母衣には針鼠のように矢が突き刺さっていた。
「なんだと!? 舅殿は無事なのか!?」
信長は座っていた床几を蹴飛ばすほどの勢いで立ち上がった。
「…某が離れるまでは 健在でしたが、今父上がどうしているかは… しかし父上を守る者は最早数名… 恐らくは既に… 無念であります…」
利治は地面に崩れ落ちたままそう言うと、その双眸に涙を溢れさせた。
「そうか…間に合わなんだったか…」
利治の様子を見て、すべてを理解した信長は歯を食いしばりながら視線を下げた。
「尾張から伝令!! 織田伊勢守が岩倉で挙兵!! 我が領内に攻め寄せるやもしれませぬ!!」
道三の死を知り、静かになっていた本陣にまた一つ凶報が舞い込んできた。
「殿!! これは一大事ですぞ!! 前方には美濃斎藤家そして後方には岩倉織田家。 このままでは我が軍は挟み撃ちですぞ!?」
次々に齎された凶報に、思わず狼狽する恒興。
見上げた先の信長の表情も普段の自信に満ち溢れた顔でなく、苦虫を嚙み潰したように歪んだ顔となっていた。
「こうなったらしゃ~ないわ!! 撤退じゃ!! 急ぎ陣を解いたうえで尾張に転進し、伊勢守の牽制じゃ! はようせんと清州が火の海になるぞ!!」
そう叫ぶと信長は陣幕から飛び出し、馬に跨った。
「は!畏まりました! して殿は如何されましょう? 我ら馬廻役、ご命令とあらば斎藤勢の前に立ちはだかり、織田の勇名をこの地に轟かせて見せましょうぞ!!」
陣幕の外にいた四名の馬廻役は、恒興の声に合わせて信長の前に膝をつき、命を待った。
しかし信長の口から出た答えは、彼らの想像の遥か上を行く者の名だった。
美濃国大良河原 東蔵坊 前線 森隊
「三左衛門殿! 先程の騎馬武者 本当に通しても良かったのでしょうか?」
しばらくして敵が撤退していった為、俺は可成に先程の騎馬武者の件を聞いた。
「藤吉郎殿は奴の母衣や甲冑に刺さる矢を見たか? あれはすべて後ろから射られたものだった。 恐らく伝令の為敵中を駆け抜けた際に射られたものだろう。 それが向こうから来たのならば、十中八九山城守殿からの使者であろう」
可成は穂先についた血を、懐紙で拭いながらそう答えた。
「そうでありますか…」
納得が言った俺は、鳴神に砥石を当て切れ味を回復させたうえで、敵が撤退していった方を警戒した。
(藤吉郎殿にはああ言ったが… あの若者の顔、若き日の山城守殿の面影を感じた…)
そう心の中で考えていた可成の元に、本陣からの伝令が届いた。
「伝令!!! 既に山城守殿はお討死!! 加えて織田伊勢守信安が岩倉にて挙兵! 居城である清州へ向け進軍中とのこと!! 各隊は美濃から転進し伊勢守の牽制をせよと殿が仰せになりました!!!」
「なに!? 我が軍は挟み撃ちではないか!! 殿は誰が務めるのだ!?」
まさかの報告に思わず声を荒げる可成だったが、伝令が殿の名を言うと、更に驚愕の声を上げた。
「殿自らが殿を務めるとのことです!!!!」
~少し前 信長本陣~
「殿!!! どうかお考え直しを!!! 第一、大将自らが殿など聞いた事がありませぬ!!!」
そう言って食って掛からんほどの勢いで信長へ詰め寄る恒興。
信長の乳兄弟であり、幼い時からの付き合いである恒興でなければ、手討ちにされても致し方ないほどの剣幕だ。
しかし当の信長は涼しい顔で
「此度の戦は儂の一存で決まったもんじゃ。 であればこの責は儂が負うべきじゃろう?」
と言ってのけた。
こうなった信長は梃子でも動かないことを知っている恒興は大きくため息を吐いた。
「分かり申した!!! しかし我ら馬廻役は殿のお側を離れませぬ!!! それと殿以外にも何名か殿にお選びください。 そうすれば一隊に掛かる重圧は減りましょうぞ」
「うむ。では本陣に近い者で適任なのは誰が居る?」
「山口取手助殿と土方彦三郎殿が近く、殿に耐えうる力量もお持ちかと存じます」
「あい分かった。 それと勝三郎、他にも参加させたい隊が居る故、そこにも伝令を出せ」
信長は隊の名を恒興に伝えると、戦に赴く為、兜の緒を固く締めなおした。
美濃国大良河原 東蔵坊 前線 森隊
「殿を守るは馬廻と取手助殿と彦三郎殿か… 殿に策があると信じて儂らは引くぞ! 森隊に告ぐ!!これより撤た…」
可成がそう声を上げようとした時、茂みの中に白刃が煌めいたのを見つけた。
「三左衛門殿!!! 茂みに伏兵です!!!」
俺はそう叫びながら鳴神を茂みに突き入れた。 人体を貫く感触が手に加わり、敵兵のくぐもった声が聞こえた。
そして茂みの中から二十人程の男たちが姿を現した。少数で敵陣深くに入り込んだ男たちであり、その一人一人が歴戦の猛者たる雰囲気を漂わせていた。
「狼狽えるな!! 敵は少数!! 列を崩すではない!!!」
そう叫んだ可成の前にいかにも豪傑と言った出で立ちの男が立ちはだかった。
「名のある大将とお見受けする! 某は美濃斎藤家家臣、千石又一と申す! いざ槍合わせ願う!!!」
そう名乗った男は、そう言って槍を可成に突き出した。
「三左衛門殿!!!」
俺は先程の茂みから出てきた者と、槍を合わせながら叫んだ。
「者共手出しは無用!! こ奴ら各々が相当の手練れ!! 気を抜くではないぞ!!!」
可成は又一の槍を受け止めると檄を飛ばした。
「応!!!!!」
ここに森隊の撤退戦が始まった。




