32 天道
天文二十四年(1555年) 四月初旬
尾張国春日井郡 清州城
「殿! 孫三郎殿が共の者を連れていらっしゃいました!」
小者の報告を聞いて、信友は胸をなでおろした。
「お主の事を疑っていたわけではないが、孫三郎が来てようやく安心できたわ。 大膳、大儀であった」
「はっ。 これで大和守家は安泰かと思われます」
口ではそう言う大膳だったが、胸中では、この期に及んで自身に疑りを入れる信友に対する憤りと、信光が裏切ることなく清州城に来たことに対する安心感が混ざり合っていた。
「孫三郎殿はどちらに案内すればよろしいですか? 新しい屋敷を用意する予定でしたが、未だ完成しておりませぬ」
「武衛屋敷を取り壊した上で作り直しておるからな。 完成するまでは南櫓に入ってもらう事にしよう」
「ではそのように案内してまいります」
清州城 南櫓 織田孫三郎信光
「無理を言って申し訳なかった。 織田孫三郎信光、只今参上致しました」
信光はそう言って平伏した。
「いやぁ孫三郎殿! 首を長くして待っておりましたぞ 孫三郎殿が居れば百人力ですな! 共に当家を盛り立てていきましょうぞ」
信友はそう言って上機嫌だった。 大膳も信光の事を疑う様子はなく、深く頷いていた。
これは大和守家に取り入るのもそう難しい事ではないな。 信光は腹の中でそう思うのだった。
翌日
尾張国愛知郡 那古野城 御殿
「叔父上から文があった。 どうやら大和守は叔父上の事を味方だと信じ切っているようだ。 叔父上曰く、この分なら今月中に襲撃が出来るらしい。 叔父上には槍自慢を同伴させると言った為、その役を任じる。 大和守家を乗っ取る重要な役じゃ。 やれるな三左よ?」
信長は信光から届いた文を持ち、可成に問いかけた。
「はっ!心得ましてございます。 しかし一つご注進したいことが」
「なんじゃ、申してみよ」
「某は当家に仕えてから、数々の戦に参加して参りました。 その為、既に大和守家に面が割れているやもしれませぬ。 長期間潜むのは、敵方に露見する恐れがあると思われます」
「うむ、一理あるのぅ。 では如何する?」
「殿の近習である木下藤吉郎殿をお貸し願いたい。 あの者なら当家に仕えて日が浅く、面が割れていないと思われます。 槍の腕も申し分ない故適任かと存じます」
「うむ、奴ならいいじゃろう。 藤吉郎ともう一人つけよう。 又左は目立ちすぎる上、敵陣に潜り込むなど出来るまいな… 露見せぬように寡黙な奴がよかろうな」
信長は暫く考えた後に、あいつがおったなと言わんばかりに手を叩いた。
「藤吉郎に新助よ。 叔父上の近習として清州城に潜り込み、叔父上の指示で合図を出せ。 叔父上の方で大手門を開け放ち、三左衛門らが攻め込む故、お主らは大和守らが逃げぬよう搦手を塞ぐのじゃ 。 決して城内の者を外に逃がすでないぞ? それと潜むのであったら早い方が良かろう。 急ぎ身支度をし、清州へ向かうのじゃ」
「「はっ 仰せの通りに」」
日課の鍛錬をしていると、勝三郎に新助と共に御殿へ来るよう言われた。
御殿に行くと信長が待っており、直々に間者として潜むよう命令を受けたのだった。
しかも今すぐ行けというのだから、まあせっかちな信長様らしい…
俺は実家へと戻り、鳴神と兼元を携えた後、清州へと向かうのだった。
天文二十四年(1555年) 四月二十日 早朝
尾張国春日井郡 清州城 南櫓
俺たちが清州城に来て二週間が経ったある日の朝、孫三郎殿に呼び出された。
「儂の手の者が掴んだ情報によると、明日の辰の刻、大和守の家臣共が領内の巡察へ向かうらしい。 丁度良いことに大和守も大膳も清州城に残るそうだ。 これはまたとない好機だ、城外の三左衛門へ使者を出せ」
「御意!」
俺は信光の小者に使者として見送った後に装備を整え、新助と共に搦手へと回るのだった。
同日 清州城近郊 森三左衛門可成
「三左衛門! 城から使者が参ったぞ! 書状によれば今日の辰の刻から城内が手薄になるらしい。 いつ攻める?」
義父である林新右衛門通安がそう叫んだ。 いよいよこの時がやってきた。
「半刻後でよいでしょう。 義父上は大手門の守備を、某は殿からの言伝もあります故、孫三郎殿と共に大和守の元へ行きまする。」
「畏まった! いやぁ久しぶりの戦じゃ、腕がなるのう!」
此度の襲撃は決して失敗が許されない。 初陣に臨む若武者のように昂る義父を見ながら、可成は気を引き締めるのだった。
同日 辰の初刻
尾張国春日井郡 清州城 御殿
「なんじゃ? なにか騒がしいのぅ… 喧嘩でも起こったか?」
信友は欠伸を噛み殺しながら、執務を行っていた。
暫くすると何者かが廊下を走ってくる音がした。 その次の瞬間、信友には到底信じることの出来ない一言がもたらされた。
「孫三郎殿ご謀反!! 孫三郎殿に引き入れられた兵が、多数城内になだれ込んでおります! 家臣一同で足止め致します故、大和守様はどうかお逃げください!」
「なんじゃとぉ!? 逃げると言うてもどこに行けばいいのじゃ!! 大膳! 大膳はどこだ!!」
予想外の出来事に信友はただ狼狽することしか出来なかった。
同時刻 清州城 厩舎
「まさか、孫三郎が裏切るとは! あの起請文はなんじゃったんじゃ! 全く、殿には付き合いきれん。 これに乗じて逃げるとするか…」
謀反にいち早く気づいた大膳は厩舎に向かっていた。 信友に愛想を尽かしていた大膳は、信友に襲撃を伝えることなく、一人で逃げ出そうとしていたのである。
しかし大膳の行く末に一人の男が立っていた。
「そんなに慌ててどこへ向かわれるのですか?」
「そんなもん逃げるに決まっとろうが! 早う馬を出せ!」
そう言って厩舎を覗いた大膳だったが、そこには普段居るはずの馬が一頭もいなかった。
巡察に出かけた家臣が乗っていったとしても、数頭は残っているはず…
嫌な予感がした大膳は、おもむろに男の方を振り返った。
「馬をお探しですか? 生憎今は出払っておりまして… 某がお連れしましょうか? 最もお連れする先は『この世ではない』のですが!!」
そう言って男は手に持っていた槍を、大膳へ向けて繰り出した。
迫りくる槍を前に大膳は叫び声をあげたが、その叫び声は誰にも届くことは無かった。
「坂井大膳討ち取ったり!!」
俺は大膳の首を取るとそう高らかに叫んだ。
清州城乗っ取りの際、坂井大膳は一人で逃げ出すということを知っていた俺は、搦手の守備を新助に任せて厩舎へと走った。
予想通り、大膳がやってきたのでそこを討ち取ったという訳だ。
抜け駆けと言われたらそうなのだが、いつも一番手柄を取られているのだし、これくらいは許してほしいものだ。
三左衛門殿の方は上手くやれているだろうか。 確か史実では自刃させたんだよな?
俺はそう考えながら、御殿の方角へ目を向けた。
同日 辰の正刻
尾張国春日井郡 清州城 御殿
御殿へと足を踏み入れた信光と可成は、すぐに信友を見つけることが出来た。
最早どこにも逃げ場はないと悟ったのか、信友は広間の中心で胡坐をかいていた。
「孫三郎! この裏切り者が!! 其方を信じた儂が愚かじゃったわ!!」
信光を見つけるや否や、信友はそう吠えた。 信じていたのに裏切られた格好なので激怒するのも無理はないだろう。
「お主に対して、我が殿から言伝を預かっておる。 しかと聞くが良い」
「今更逃げも隠れもせんわ 勝手にせい」
そう言って信友は目を瞑った。
「『自らの野望の為に武衛を殺害し、守護職を不当に奪い取り、尾張国に混乱を招いたその所業、万死に値する。 大和守信友よ、潔く腹を召すが良い』 これが我が主からの言伝じゃ」
「ふん、打ち首でないだけありがたいな。 誰か介錯をしてくれるものはいないか? そうだ大膳はどこにおる?」
「坂井大膳なら討ち取ったという報告を受けておる」
「そうか 奴は先に逝ったのか。 では三左衛門だったか? お主に頼みたい。 武名高いお主に斬られるなら本望よ」
「では某が介錯仕りましょう」
信友は脇差を取り出すと、着物をはだけさせ腹を出した。可成も介錯をするため、刀を抜いて後ろに回った。
このまま進めば、信友が切腹し、清州城乗っ取りは達成される。
誰しもがそう思って疑わなかったのだが、信光の一言で惨劇へと化してしまった。
「これで大和守家も終いよのぅ… 天道に背いた罰じゃ、仕方があるまいの」
信光が思わずそう呟いたのを信友は聞き逃さなかった。
「何を言う信光!! 神仏に捧げた起請文を簡単に反故にする貴様には言われたくないわ!!」
信友はそう言って信光に詰め寄った。
「これは謀略じゃ! 騙されるお主が悪かろう!!」
信光も負けじと言い返した。
先程まで粛々と進んでいたはずだったのに、どうしてこうなったのだと可成は思わず頭を抱えた。
次第にヒートアップする二人だったが、先に我慢の限界に来たのは信光だった。
「貴様! 先程から儂の諱を軽々しく呼びおって! 許せん!!」
激昂した信光は刀を抜き、信友へ斬りかかった。
まさか斬りかかるなどとは思わず、油断をしていた可成は信光を止めることが出来なかった。
「待たれよ!! 大和守は切腹に処すると!」
せめて声だけでもと思い、そう叫んだ可成だったが、時すでに遅く、白刃は信友の肩口からわき腹にかけてを深々と斬り裂いていた。
「ぐっ… ふふ、儂を斬ったな。 まあ良い、上位討ちをした儂には当然の報いじゃ… しかし信光よ、お主の元にも神仏の祟りが降りかかろうぞ、その事を夢、忘るるでない ぞ」
そう言って信友はこと切れた。
信光も気持ちが落ち着いたのか、取り返しのつかないことをしてしまったと言わんばかりに青い顔をしていた。
紆余曲折があれど、織田大和守信友の死をもって、清州城乗っ取りは幕を閉じた。