22 大和での出会い
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天文二十二年(1553年) 大和国興福寺 宝蔵院
詰め寄ってくる胤栄の様子は、必死すぎて最早恐怖を感じるほどだったがそれもそうだろう。
十文字槍の性能は素槍の完全上位互換と言っても過言ではないからだ。しかし完全無欠でもない。
欠点を上げるならば、その扱いにくさだろう。素槍よりも重量があり、使い方が多様であるが故に使用者の判断力が試される所もある。逆を言えば十全に扱えれば欠点は無きに等しい。
熟練者が使えば、十文字槍は比類なき力を発揮する。胤栄はそのことに気づいた為興奮したのだろう。
そう思う俺をよそに、尚も胤栄は鼻息荒く話しかけてきた。
「これは十文字槍と言うのですね!これは藤吉郎様が考案したもので?」
「この槍は某が発案した物になり申す。日ノ本は広い為、何処かで同じ物を用いる者が居ないとは言えませぬが…」
「何時、如何様に思いつかれたので?」
「某が遠江である武家に仕官していた頃になりますな。 夜半過ぎに遠津淡海の畔で修練に励んでいた際、ふと水面に目をやれば三日月が浮かんでおりました。 その三日月と某の槍が水面で重なった所を見て、これは!と思った次第にございます」
「ほう。水面に三日月とは雅な物ですな」
実際そんな出来事はない。現代の通説である胤栄と猿沢池の伝説を改変しただけだ。
胤栄はそんなこととは知る由もない故、俺の話に聞き惚れているようだ。なんだか申し訳ない気がするな…。
「胤栄殿。某と共にこの槍の型や技を共に考えてくれませぬか? 前例がない故、某や供の2人だけでは身に余りましてな 南都に其の人有りと言われる胤栄殿のご助力があれば心強いのですが…」
「それは願ってもないことでありますな。拙僧の浅知恵でよろしければ貸しますぞ」
習うことは出来ずとも、後に考案する人物であるからには良いアイデアもあるだろう。
こうして俺たちは宝蔵院に宿泊しながら、十文字槍術を考えていくのだった。
天文二十三年(1554年) 大和国興福寺 宝蔵院
俺たちが宝蔵院に来てから約1年が経った。
胤栄と共に十文字槍の構えや型などの基本を作り上げることが出来た。
技を作っていくにつれ分かったのは、十文字槍はかなり受けや意識外からの奇襲に特化していることに気が付いた。
鎌状の刃で相手の槍を引き落とす、突き上げる、巻き落とすことが出来る。そして隙を見つけて懐に入り込むのが型の基本だ。
他にも相手の槍に十文字槍を沿わせ小手を切ることや、突きを避けられても鎌の部分で首などを切ることも出来る。
もちろんこれは1対1の型だけでの話であり、大人数が入り乱れる戦場では型通りにいかないこともあるだろう。
しかし基本の技を知っておくことで実戦での立ち回りで効果的に動けるに違いない。
基礎が出来なければ応用など出来るはずがない。後は戦の場で使いながら技や型に組み込んでいくしかないだろう。
胤栄との修行で得た成果は槍術の発展だけではなかった。
胤栄は僧と言う理由もあってかかなり顔が広かった。それにより時折、宝蔵院に知己の武術家が訪れることがある。
この1年間で俺も何人かの剣豪、武術家と知り合うことになった。しかも何名かは後世にも名を残すレベルの人物かいた。
最初に知り合ったのが『柳生新次郎宗厳』だ。
柳生新陰流の開祖であり、徳川家の兵法指南を務めた柳生宗矩の父に当たる人物だ。剃髪後の号である柳生石舟斎の名がよく知られている。
老人のイメージが強い宗義だが、この時は26の若者だった。齢は若いが富田流、新当流を学んだ剣豪である。
まだ上泉信綱には会っていないようで、新陰流は学んでいなかった。
胤栄と宗厳は同好の士というような間柄で、頻繁に宝蔵院に出入りしているようだった。
寡黙な剣士という見た目だったが、俺の佩刀を見せると胤栄程ではないが、目の色を変えて詰め寄ってきた。
後に剣豪として名を馳せ、流派も興す宗厳に刀を習わないわけにはいかないと思い、十文字槍の訓練と並行して刀術も学ぶことにした。
宗厳も、「流派が広がるのは良いことだ」と快く引き受けてくれた。
免許皆伝というレベルまでは届かなかったが、筋は良いと言われ、大抵の相手になら勝てるとのお墨付きを頂くことが出来た。
次に知り合ったのは『島左近清興』だ。
知り合った当初は元服前で『新吉』と名乗っていた。
島左近と言えば、筒井家を辞し牢人している所を、三成が自身の俸禄を半分与えるとの条件で登用したエピソードが有名だ。
後世では三成に過ぎたるものとして、佐和山城と並んでうたわれた名将であり、最期は関ヶ原で討ち死にと遂げたとも、京に逃れて天寿を全うしたとの説も残る謎多き武将でもある。
左近と知り合った理由は、勘次郎や弥太郎の修練相手が欲しく、2人と年が近く腕が立つ者がいないかと胤栄と宗厳に聞いた所、2人ともが「椿井城の島豊前守の息子が良い」と言ったからだ。
椿井城は宝蔵院からそこまで遠くなかった為、勘次郎と弥太郎を伴って赴くことにした。
同じ筒井家臣である新次郎殿の紹介もあり、特に苦労することなく会うことが出来たので助かった。
豊前守はごく普通の風体だったが、新吉は後の猛将なだけあってガッチリとした身体つきをしていた。
身の丈は勘次郎と弥太郎の間で、大体5尺5寸ぐらいだろう。
年長者らしく、勘次郎と弥太郎がヒートアップした時の調整役と化している。口数は多くないが、優しい性格のようだ。
齢は勘次郎たちの2年上で、俺の弟である小竹と同年だった。
何度か椿井城へ赴き修練をする中で、新吉も俺たちに興味を持ったのか、俺たちと共に行きたいと言い出した。
元服を間近に控えており、父である豊前守は乗り気ではなかったが、俺が豊前守に気に入られたのと、新吉の熱心な説得により、元服後に俺の共廻りに加わることとなった。
豊前守に気に入られた理由は、どうやら俺の見た目らしい。
俺が豊前守を見ると、豊前守は顔を赤らめたり、話し方がしどろもどろになったりすることがある。
なぜそうなるかの意味は大体分かるが、俺にそっち系の趣味はないから諦めてほしい。
兎にも角にもこれで3匹目の鬼ゲットである。最早鬼コレクターと言っても過言ではないだろう。
「大変世話になり申した。以前申した通り、そろそろ国元に戻ろうと思いまする」
当初の予定である槍術の修練はある程度出来たので、以前から胤栄には帰る旨を伝えていた。
皆で見送りがしたいと胤栄が言ったため、吉日を待ち今日出立することにした。
「いえ、こちらこそ良き学びになり申した。また大和に来られた際は宝蔵院へお立ち寄りくだされ。藤吉郎様ならいつでも歓迎いたします」
「皆息災でな。免許皆伝を授けられぬのが残念じゃが、貴殿らは一流の剣豪じゃ」
「藤吉郎殿、倅をお頼み申す。それと儂も貴殿の事は何時でも待っている故…」
上から胤栄殿、新次郎殿、豊前守殿だ。やはり豊前守殿とは目が合わない。
「槍術の名を宝蔵院流槍術とされると言われましたが、本当によろしいのですか?」
「ええ。この宝蔵院で胤栄殿と共に考えた槍術故その名で良いでしょう」
「ではそうさせて頂きます。藤吉郎様の名と共に広めていきたいと存じます」
「お頼み申す。では勘次郎、弥太郎、左近。尾張に戻るとしよう」
こうして俺たちは、1年の間過ごした宝蔵院を後にした。
3人目の鬼がログインしました。
左近の出身地は諸説ありますが、本作では筒井家臣で椿井城主である島豊前守清国を父としています。
1550年に僅か2歳で家督を継いだ筒井順慶を、松倉右近と共に盛り立てたとの記録もありますが、その時左近は10歳で妥当ではないと感じたため、元服前の左近は椿井城にいたことになっています。