08 赤塚の戦い
天文二十一年(1552年) 遠江国 頭陀寺城内松下屋敷 自室 夜
初陣となった野盗討伐から1年が経過した。その間は大きな戦もなく、日々修練に明け暮れていた。その中で自分に得手不得手があることも少しずつ分かってきた。
まず得意なのは「槍術」「格闘術」「算術」だった。
槍術は修練の中で1番成長していると自分でも実感でき、加兵衛には8割方勝つことが出来る。槍術の名人である殿相手には、流石に負けることが多く3割勝てればよい方だ。
殿曰く「実戦を経験すれば、勝ち負けは逆になるだろう」と言われたので、今後も修練に励むとしよう。
「格闘術」は前世で習っていた経験。「算術」も基本的な加減乗除は出来るので2つとも苦労はしなかった。
反対に不得手なのは「弓術」だった。
弓自体は3人張りの強弓を難なく引くことが出来るのだが、如何せんノーコンだった。
修練では俵へ向かって矢を射るのだが、俺の放った矢は1本も俵へ刺さることがなかった。
余りの下手さに殿も加兵衛も匙を投げたほどだった。戦場では味方を撃ちかねないので、大人しく槍を持って前線で戦うことにしよう。
そして人並みにできるのが「刀術」「読み書き」だった。
前世では刀はもちろん、剣道も学校の授業で学んだ程度だったのでほぼ初心者だった。1年の修練で人並みには戦えるだろう、というレベルには到達したようで一安心といった所だ。
「読み書き」については最初苦労したが、「読み」自体は草書に囲まれていると自然と読めるようになっていた。「書き」については可もなく不可もなくといった所だ。
史実の秀吉が書いた文書は、平仮名が多く読みづらかったらしいので、それよりはマシかと勝手に納得している。ちなみに加兵衛は書家と見紛うほどの達筆だ。
未知数なのは「鉄砲」だ。松下家には火縄銃が1丁もなかったからだ。
火縄銃はまだ伝来して10年も経っておらず、非常に高価なのもあって一地方領主に過ぎない松下家にはとても買えるものではないだろう。
後この1年間に大きな戦こそなかったが、俺の立場は大きく変わった。
これまで俺は武家奉公人のような形で松下家に仕えていたのだが、正式に家臣として召し抱えられることとなったのだ。
主な仕事内容は加兵衛の近習で禄高は3貫になる。
そして召し抱えられることにあたって、諱をつけることを勧められた為、俺は「木下藤吉郎秀吉」と名を改めることにした。
俺が振り返りながら、そろそろ眠りに付こうとした矢先に伝令が飛び込んできた。
「伝令!尾張国鳴海城主 山口左馬助教継殿が織田方から太守様に服属!寄親、飯尾豊前守乗連様が尾張方面に抑えとして出陣されるとのこと。豊前守様より、寄子である当家にも出陣せよと命令が下りました!出陣は5日後!急ぎ陣触れを!」
俺は跳ね起きると、加兵衛の元へ伝令に走った。
頭陀寺城
「これより豊前守様と合流するため曳馬城へ向け進軍を開始する!者共出陣じゃ!!」
殿を筆頭とする騎馬武者20騎とそれに追随する兵卒100人。そして加兵衛が率いる足軽100人の総勢220人で出陣した。
俺は加兵衛の馬廻りとして近くにいる。もし合戦となったら俺は身を挺して加兵衛を守らねばならない、そう思いながら兜の緒を締めるのだった。
天文二十一年(1552年5月10日) 尾張国 笠寺城
「主戦はこちらへ寝返った左馬助殿とその息子九郎次郎殿が務め、豊前守様以下わしらは後詰めとして待機せよとの命じゃ。織田軍800に対して左馬助殿は1500だそうだ。赤塚の地で戦端が開かれたようだが、余程のことがない限りわしらが戦うことはないじゃろう。」
陣幕の中で殿がそう言い床几に腰かけた。徴兵された足軽たちは戦がないと知り安心し、それまで強張っていた表情がにわかに緩んでいた。
俺たちは遠江国を出ると、三河を超え尾張の笠寺城に布陣した。松下家の属する飯尾豊前守乗連様の他、葛山備中守長嘉殿、岡部丹波守元信殿、三浦左馬助義就殿、浅井小四郎政敏殿が布陣し、織田家を牽制している形だ。
俺は前世で好きな武将が織田信長だったこともあり、織田家や尾張、美濃出身の武将はよく知っているつもりだ。
だが今川方となると有名どころしか知らず、今布陣している中だと岡部元信と飯尾乗連しか知らなかった。
前世での記憶が正しければ、この戦いは「赤塚の戦い」と言われるもので、家督を継いだ信長が初めて行った戦だと言われている。
人数差があったが、馬廻り衆の奮起もあり引き分けに終わったと記憶している。恐らく俺たちは戦うことなく、引き返すことになるだろう。
前世の記憶は正しく、午の刻辺りで戦いは沈静化し、織田家も山口家も帰陣したようだ。
後詰めであった笠寺の部隊は丹波守殿、小四郎殿が残り、残りの3隊は領国に帰還することになった。
帰還してしばらくすると、山口左馬助教継殿は大高城、沓掛を調略で乗っ取ることに成功する。しかし織田家への内通を疑われ駿河国に呼び出されると、父子共々切腹することとなったそうだ。
山口家が領していた鳴海城には丹波守殿が城代として入り、南尾張は完全に今川家の領国となったのだった。
快進撃を続ける今川にじわじわと暗雲が迫っていることは、これからの歴史を知る俺しかいないことだろう。
そんなことを思っていたが、俺は自身の足元で起きていることに気が付いていなかった。
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