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人物設定 秀吉年表

永禄元年までの設定と秀吉の年表です。 年表は章が更新されるときに、一緒に更新する予定です。


60 浮野の戦い下 までを読んでいない方は、ネタバレになりますので「必ず」読んでから見て下さい!

 

 木下藤吉郎秀吉 1537~


 元々令和の時代を生きていた現代人だったが、太陽神のうっかりミスにより死去する。

 歴史小説や某歴史SLGを好んでいた為、一般人よりは歴史の知識がある。


 太陽神の加護によりイケメン化し、恵まれた肉体を得ることとなった。

 (現在 身の丈6尺(182㎝) 目方22貫(82,5㎏)

 史実と同じところは、右手の親指が2本あることのみ。


 武勇に秀で、特に槍術は達人級である。

 最初の主君である松下長則に槍術の基礎を学び、宝蔵院胤栄や柳生宗厳と共に槍術、刀術を極めた。

 弓術は不得手としていたが、大島光義の教えを下にして修練を重ねたことで、人並みの腕となった。



<武器>

『十文字槍』

 銘「鳴神」 関兼貞作

 全長 1間半(2m70㎝) 穂長 1尺5寸(45㎝) 左右7寸(21㎝)

 板目肌に尖り互の目交じりの直刃 拵は黒漆樫の柄に、金細工の胴金


 祖父兼貞の手によって打たれた名槍

 十文字槍術は我流(後に宝蔵院胤栄と共に形にする)


『刀』

 銘「兼元」 孫六兼元作

 全長 三尺三寸(1m) 刃渡 二尺三寸(70㎝)

 板目肌に三本杉 朱漆石目塗の打刀拵


 吉助(後の竹中半兵衛重治)の命を救った礼に岩手遠江守重元から拝領する。


『名馬』

 名:「雷雲」青毛の木曽馬

 体高四尺九寸(147㎝) 目方百三十貫(480㎏)


 稲生の戦い後に恩賞として信長から拝領する。

 甲斐の黒駒の血が入っており、他の木曽馬より一回り以上大きい。

 気難しい性格をしており、背に乗れるのは秀吉のみ(世話役の弥助すら乗れない)



<年表>



 天文六年(1537年)(0歳)


 尾張国愛知郡 愛知郷中中村で生誕する。 幼名:日吉丸

 父 弥右衛門 母 仲 




 天文十一年(1542年)(5歳)


 父弥右衛門が第一次小豆坂の戦いで負傷。竹阿弥と名を改め、光明寺に入る。




 天文十二年(1543年)(6歳)


 三種の農具(備中鍬、円匙、鶴嘴)を制作し、木下家の農業効率を大いに向上させる。




 天文二十年(1551年)(14歳)


 木下家が大地主へ成長する。

 自身の成長度合いが史実と乖離していることに気づく。

 (イケメン化 身の丈:5尺5寸(167㎝) 目方:17貫(64㎏))


 元服し、名を『木下藤吉郎』と改める。


 遠江国で今川家陪臣 頭陀寺城主 松下左兵衛長則に仕官する。


 主君長則に槍を教わり、嫡男である加兵衛と共に修練に励む。


 初陣で野盗2人を討ち取る。




 天文二十二年(1552年)(15歳)


 武家奉公人から近習として正式に召し抱えられる。

 (松下加兵衛之綱付き 近習 禄高三貫)

 家臣になるにあたって名を『木下藤吉郎秀吉』と変える。


 五月

 赤塚の戦いに従軍

 (後詰め部隊であり、戦闘はしなかった)



 天文二十三年(1553年)(16歳)


 松下家を辞する。(餞別として武具一式と路銀、感状を受け取る)


 一時中中村に帰郷後、武者修行の旅に出る。


 武者修行の旅として、「美濃国」「近江国」「伊賀国」「大和国」を周る。


<美濃国>

 祖父である関兼貞に十文字槍『鳴神』の製作を依頼し、以降愛槍とする。


 明智十兵衛光秀、各務兵庫助盛正、勘次郎親子、仙石治兵衛久盛、大島甚六

 光義、岩手遠江守重元、吉助親子と誼を通ずる。


 各務一族を登用する。

 嫡男である各務勘次郎を近習とする。(後の各務兵庫助元正)


 岩手遠江守重元から刀『兼元』を拝領し、以降佩刀とする。


<近江国>

 通過するのみ


<伊賀国>

 迷い込んだ伊賀国で千賀地党と誼を通ずる。

 千賀地半蔵保長の五男 千賀地弥太郎を登用し近習とする。(後の服部半蔵正成)


<大和国>

 興福寺の塔頭である宝蔵院へ向かい、胤栄と誼を通ずる。


 柳生宗厳と誼を通じ、「新当流」と「中条流」の手解きを受ける。




 天文二十三年(1554年)(17歳)


<大和国>

 胤栄と共に十文字槍術(宝蔵院流槍術)を創始する。


 島左近清興を登用し、近習とする。


<尾張国>

 中中村へ帰郷

 故郷がさらに発展しており、立派な屋敷が建っていた。

 中村一郡 千貫(二千石)


 生駒屋敷で蜂須賀小六利政と誼を通ずる。


 織田上総介信長に見出され、家臣となる。

 (織田上総介信長付き 近習 禄高二十五貫)


 前田又左衛門利家、池田勝三郎恒興、毛利新助良勝、服部小平太一忠と誼を通じ、共に修練に励む。


 一月

 村木砦の戦いに従軍 武功を上げ禄高が五十貫となる。


 七月

 安食の戦いに従軍 

 清州衆 古川新左衛門友貞を討ち取り、二貫文を拝領する。


 森三左衛門可成と誼を通ずる。




 天文二十四年(1555年)(18歳)


 四月

 清州城の戦いに従軍し、大和守家家老 坂井大膳を討ち取る。


 五月

 清州城の戦いの功で馬廻役に命じられる。

  (織田上総介信長付き 馬廻役 禄高百五十貫)



 弘治二年(1556年)(19歳)


 四月

 長良川の戦いに援軍として向かう。

 大良河原の戦いで森三左衛門可成隊の与力として参戦し、負傷した可成を逃がすため別動隊の大将として最前線で奮戦する。


 姉である智が婚姻

 夫となった木下弥助吉房を登用する。


 鍛冶師として加藤正左衛門清忠を、大工頭として福島与左衛門正信を雇い入れる。


 父、竹阿弥が寺奉公を辞し、秀吉が木下家の家督を相続する。


 木下家臣団を編成



 五月

 信長の護衛として金森五郎八長近と共に那古野城へ赴く。

 林佐渡守秀貞を挑発し、その豪胆さを信長に褒められる。


 父親が信長を裏切ったことで動揺した利家を叱咤激励する。



 八月

 稲生の戦いが勃発

 秀吉は麾下の兵(総勢二十五名)を連れて遊軍として参戦する。


 激戦区であった森隊に加勢して奮戦するが、史実と異なる陣立てに疑問を感じ、単身で本陣へ戻る。


 林隊の猛攻に晒されていた本陣へ特攻し、窮地に陥っていた信長を救出する。

 深手を負いつつも一騎打ちで敵大将の林美作守通具を討ち取る。


 信長の秘密に気が付く。


 九月

 戦での傷が癒えた後、清州に出仕。 

 信長から中中村の郡代と大秋城一帯(上中村半郡)と信長直筆の感状を賜る。

 尾張中村一郡半の主となる。二千貫(四千石)

 

 信長の秘密を聞く。

 命を狙われるも、信長への忠義を示し許される。


 信長に喰われる


 名馬『雷雲』を信長から賜る。


 十月

 木下家の伸長に伴い新たに家臣を登用する。


 元土岐家臣 古田主膳正重定 嫡男古田左介(後の古田織部助重然)

 美濃衆 青木勘兵衛重矩 嫡男青木勘七一矩 次男青木半右衛門(矩貞)

 を登用する。

 

 織田家からも与力として

 桑山彦次郎重勝と斎藤新五利治が派遣される


 末日 信長の妊娠が発覚


 

 弘治三年(1557年)(20歳)


 七月

 木下屋敷を城郭化する。

 

 木下城(現代の中村公園の位置)

 外堀含め東西百十間(200m)に二重櫓(未完成)や二の丸、三の丸、枡形虎口などを要する尾張随一の堅城。


 信長が男児を出産、奇妙丸と名付ける。


 織田家が津島で風流踊りを実施。

 秀吉は弁慶役で参加する。


 

 弘治四年(1558年)


 三月

 木下城の二重櫓が完成。

 木下家の総兵力が八十名を超える。



 永禄元年(1558年)


 七月

 岩倉織田家との間で浮野の戦いが勃発する。

 遊撃隊の命を受けた秀吉は、兵七十五を連れ出陣する。


 岩倉織田家 家老 山内但馬守盛豊と交戦。

 秀吉が先陣を切って突貫。 一騎打ちの末に盛豊を討ち取る。

 

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