好きだからに決まっている
庭を突っ切って池の前に到着したコレットは、素早く靴を脱いで握りしめる。
「女神、出て来-い!」
叫びながら池に向かって放り投げると、靴は綺麗に放物線を描いて水面に沈んだ。
すると、ほどなくして頭の上に靴をのせた美しい女性が姿を現す。
白い瞳と金の髪の文字通り人外の美貌の女神は、頭上の靴を取ると困ったようにため息をついた。
「だから、出て来いというのは……」
「パン投げつけさせて」
ずい、と目の前に会場から持ち出したパンを突き出すと、女神の白い瞳に困惑の色が宿る。
「え、そのまま? 確かパンくずと言っていましたよね?」
「じゃあ、二分割するから」
「そういう問題ですか?」
そういう問題だ。
すべての元凶はこの女神なのだから、少しくらい意趣返しをしても罰は当たらないと思う。
「良縁に恵まれますようにって願掛けするの。大きい方が御利益ありそうでしょう?」
「それなら、私に直接願えばいいじゃありませんか」
得意気に胸を張っているところを見ると、女神は自分がしたことの意味を理解していないのだろう。
人間ではないので、そのあたりの機微をわかれというのも難しいのかもしれない。
「それは嫌」
「何故ですか」
ちょっとショックを受けている様も美しいが、これに関しては譲ることはできない。
「何とも思っていない人が関心を向けるくらい、女神の力は強力だから」
シナモンの香りが苦手なエリクが、コレットのためにとシナモンクッキーを用意させ、勧められたらそのまま食べる。
本当に好意があっての行動ならまだしも、偽物の感情なのだから恐ろしい。
「好きな人に好きだと言ってもらえたら、嬉しいでしょうね。でも、それで結ばれてもきっと後悔する。自分に向けられた気持ちは本物なのか、ずっと疑い続けることになる」
そんなもの、お互いに不幸でしかない。
暫くの間はエリクのことが好きだろう。
もしかしたら一生忘れないのかもしれない。
それでもエリクの気持ちを殺して偽物で塗り替えるより、ずっといい。
「私の願いは、エリク様が自由に生きること」
だから、これは失恋なんかじゃない。
ただ元に戻るだけなのだ。
にこりと微笑むコレットをじっと見ていた女神の視線が、ふと横に逸れる。
つられてコレットも目を向ければ、遠くから黒髪の少年がこちらに向かって走っているのが見えた。
月の光を弾く黒髪だけで誰だかわかってしまうのは、エリクが美しすぎるからか。
それともコレットの個人的な感情のせいなのか。
どちらにしても、もう女神の魔法は切れたのだから王子と一介の伯爵令嬢でしかない。
言葉を交わす理由もないだろう。
「良縁に恵まれますように! ……それじゃあ、私は行くから」
エリクが一体何故こちらに向かっているのかはわからないが、今は会いたくない。
さっさと立ち去ろうと思ったのだが、踵を返した時にはもう目の前に美貌の王子が立っていた。
少しだけ呼吸が荒いエリクは、それでもじっとコレットを見つめて視線を逸らさない。
さっきまであれだけ頭をプルプルさせていたくせに、寝違えた首はそんなに急に治るものだろうか。
「……話がある」
「私はありません。女神とお話してはいかがですか」
もう完全に無関係である以上、これまでのような口調では不敬になる。
だから敬語で話したけれど、一気に距離が遠のいた感じだ。
苦情は直接女神に伝えてほしいという意味で言ったのだが、エリクは少し眉を顰めると、小さく息を吐く。
「わかった。じゃあ、そちらを先に済ませよう。……女神。大切な人に贈る靴が欲しい」
「私は便利屋じゃないわよ。尊い女神なのよ」
以前はコレットにあんなにガラスの靴を押し付けようとしたくせに、欲しいと言うとくれないのか。
いや、コレットが諸々を拒否したせいで少し意地になっていた可能性も考えられる。
この女神は美しいし凄い力を持っているが、何というか子供のような部分があるのだ。
だが、断られたエリクはまったく動じていない。
「わかっている。だが美しく尊くありがたい女神の祝福が込められた靴なら、間違いなく幸せになれるだろう?」
すると、エリクの言葉を聞いた女神の表情がみるみる緩んでいく。
「まあ、そうよね。私、尊いから。仕方がないわねえ」
もはや女神の顔は、火に近付けられたマシュマロと同じようにとろけている。
仮にも神だというのに、チョロすぎやしないだろうか。
御機嫌の女神の手にはあっという間にガラスの靴が現れ、それを受け取ったエリクは嬉しそうに微笑んでいる。
なるほど。
記憶がなくなるわけではないから、エリクはガラスの靴の出所を知っている。
確かに綺麗だし、女神に賜ったとなれば縁起もいいので、ナタリーに贈るのだろう。
……何だか少しモヤっとする。
いやいや、もう無関係なのだからエリクが誰に何を贈ろうとどうでもいい。
コレットは自分に言い聞かせると、気を紛らわすために手にしたパンを軽く振る。
動きに合わせて美味しそうなバターの香りが振りまかれると、ほんの少し心が安らいだ。
食べ物の力は偉大である。
そういえば女神の魔法が消えかかってからは、ほとんどエリクの笑顔を見ていない。
これが見納めかもしれないので、せっかくだから目に焼き付けておこう。
「このガラスの靴については感謝する。……だが、今までのことに関しては別の話だ」
エリクの眩い笑顔から何か黒いものが立ち上り始めたようにみえるが……これは幻覚だろうか。
「エリク殿下!」
美しいのに何だか怖い笑みに驚いていると、遠くから声と共に亜麻色の髪の女性が手を振ってこちらに向かっているのが見える。
ナタリー・エルノー公爵令嬢は、以前エリクに『名を許した覚えはない』と言われていた。
それが名前を呼んでこうも親し気に手を振っているということは、やはり仲が進展したのか。
貴族令嬢らしくさっぱり速度の出ない走り方でエリクのそばに来たかと思うと、ナタリーは花が綻ぶような笑みを浮かべた。
何故かそれと同時にエリクの表情は曇るし、女神なんて汚物でも見たかのような酷い顔だ。
いや、それどころか女神は堂々とナタリーに対して舌を出している。
いくら女神とはいえ、その態度はどうなのだろう。
尊いとか言っておきながら、自分の価値を下げているのでやめた方がいいと思う。
するとコレットの視線に気付いたらしい女神は、一転してにこりと微笑んだ。
「大丈夫です。心が穢れてドロドロの人には、私の姿も声も届きません。何せ、尊い女神ですからね!」
楽しそうにウィンクされたが、ナタリーがいかほどドロドロなのかの方が正直気になる。
エリクの方は女神が見えているので、変態ではあってもドロドロではないらしい。
こうなると変態自体が女神の魔法の影響だった可能性もあるが、王子を変態にする祝福だなんて呪いのようなものだし、もはや女神というよりも邪神のような気がしてきた。
そして将来の王妃がドロドロで大丈夫なのか、少し心配だが……まあ、コレットが悩むようなことではないか。
「ちょっとあなた、その花飾りはどういうことです。エリク殿下の飾りを真似したのですか? 不敬ですわよ」
まさか話しかけられるとは思わなかったが、そこに気が付くとは。
ここで正直に言ってもエリクに迷惑な上にナタリーの気分を害するだけだろう。
「うわあ、凄い偶然にびっくり。では、私はここで……」
適当にあしらって立ち去ろうとすると、その手をエリクが掴む。
正確には、パンを握る手首を掴まれた。
ガラスの靴を小脇に抱えて、パンを持つ女の手首を掴む王子。
字面は酷いが、エリクの顔面がすべてを帳消しにするので絵面は良いのが恐ろしい。
「俺がコレットに贈ったドレスだから、何も問題ない。それよりも、一体何の用だ?」
台詞の前半で射殺しそうな視線をコレットに向けながら眉間に皺を寄せ、後半で頬を染めてエリクを見上げるナタリーの、顔面の筋肉の運動速度がとんでもない。
これは貴族令嬢としての嗜みの範囲なのか、あるいはナタリーが卓越した技能の持ち主なのか。
何にしてもコレットにはとても真似できそうにないし、素直に感心してしまう。
「エリク殿下と、一緒にダンスを踊りたいと……」
ナタリーの視線はちらちらとエリクが抱えたガラスの靴に向かっている。
恐らく、自分への贈り物だと気付いたのだろう。
ちょうだいと言わないあたりはさすが貴族令嬢だが、ほぼそれと同じだけの威力の眼差しなのであまり意味がない気もする。
何にしても、目の前でガラスの靴付きのプロポーズを見るのはきつい。
だが立ち去ろうにもエリクが手首を掴んだままなので動けずにいた。
「ダンスはお断りだ。俺はコレットと話があるし、踊るならコレットがいい」
「何故」
図らずもナタリーとコレットの声が重なる。
するとエリクは固く閉じた蕾さえも花開くような、柔らかい笑みを浮かべた。
「そんなもの――コレットが好きだからに決まっている」
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