第三十九話 葵の事情
「葵、黒津家から縁談が届いている」
父さまからその言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になる。
縁談の相手は、黒津頼人。幼少のころから大嫌いだった。
自信家で傲慢で高圧的でプライドが高い。人間の嫌な部分を集めたような男。
そんなヤツと結婚など死んでもお断りだ。
「父さま、その縁談断れないのでしょうか?」
「むう……黒津家は我ら星川家の本家筋にあたるからな……理由もなく断るのは難しい」
もちろんそんなことは聞くまでもなくわかっている。
黒津家は単に本家筋というだけではない。宗主家の直系五家の一つであり、頼人はその後継者筆頭候補。実力才能ともに稀代の器ともてはやされており、意向に逆らうようなことをすれば、何をされるかわかったものではない。
もちろん婚姻に関しては当人同士の意向が尊重されるはずなのだが、頼人は自分が欲しいと思ったものはどんな汚いことをしてでも手に入れてきた男だ。事あるごとに私にたいしてあれほど執着してきたことを考えれば、はいそうですかとあっさりと引き下がるとはとても思えない……。
大切な家族に迷惑をかけるわけにはいかない以上、このまま受け入れるしかないのだろうか……。
「あなた、宗主家のご嫡子がそろそろ成人を迎えるはずでしたわよね?」
「む……そうか……その手があったか」
母さまの言葉に父さまが表情を明るくする。
宗主家のご嫡子? そんな話は初めて聞きますが……。
「あの……宗主家って、あの天津家のことでしょうか?」
「ああ、一族内でもその存在は公にはされていないのだが、葵と同じ歳の男子がいる」
私の情報網にもかからないなんて驚きです。
「成人と同時に世界中の一族に公開されることになっているのでしたわよねアナタ? 葵にその気があるなら、そういう道もありますよ」
そうか……たしかに母さまの言う通り、あの黒津家の本家にあたる天津家ならば頼人といえど下手な行動には出られないはず。
もちろん宗主家のご嫡子とやらが、頼人以上の傲慢野郎の可能性ももちろんありますが、アイツから逃れられるならばそのチャンスに賭けてみるのも良いかもしれません。
「どうだ葵? 競争は激しいが、お前なら可能性は十分ある。やってみるか?」
宗主家が相手となると、縁談を組むことが出来ない。嫡子本人に気に入られて初めて妻になれるのだ。幸い人数に制限はないとのことなので、私にも可能性はあるかもしれない。
何よりも、一足先に情報を得られたのは僥倖だ。間違いなく大きなアドバンテージになる。人数に制限が無いとはいえ、物理的に限界がある以上、実質早いもの勝ちとなるのは明らかだろうから。
母譲りの容姿と幼少より鍛え上げた家事全般のスキル。何よりも諜報系の能力に秀でた星川家の情報収集能力を持ってすれば、ターゲットの好意を得ることなど容易いこと。
「父さま、私、やってみたいです。ですが……」
「葵、私たちのことなら大丈夫ですよ。あの男のことは私も好んではおりません。自分の人生なのですから、納得がゆくまで頑張りなさい」
「母さま……ありがとう」
「そうと決まれば先手必勝、私にとっておきの伝手があるから、なんとか葵が接点を持てるように相談してみるよ」
「父さま……よろしくお願いいたします」
そして……正樹おじさまのご紹介で、無事ご嫡子さまの家政婦として雇われるチャンスが。
「葵ちゃん、出来れば家政婦じゃなくて、メイドの方が良いと思うよ」
正樹おじさまの情報によれば、ターゲットはメイド好きらしい。なるほど勉強になります。
情報収集は完璧。ターゲットは天津命。現在確認できている許嫁は一人。
噂では数百年ぶりの『稀人』なんだとか。
もしそれが本当なら大変なことになる。早めに接触できて幸運でしたね。
◇◇◇
「天津命さま、星川葵でございます。よろしくお願いいたします」
第一印象……うん、優しそうな人。
穏やかでわかりやすくて、頼人とは正反対。
良かった。この方ならお仕え出来そう。
ですが……本当にこの方がかの宗主家のご嫡子さまなのでしょうか?
良くも悪くも頼りないといいますか、まるで鍛えられていない原石のような……。
ですが、父さまも言っておられました。守り支えるのが我ら一族の役目であり誇り。
何としても気に入られて、お側に置いてもらわなければ。
◇◇◇
「…………葵」
「はい、それでは学食へまいりましょう」
「あ、ああ……」
ふふ、やはりメイド作戦は効果的でしたね。ちょっと強引でしたけれど、名前呼びで心の距離感もぐっと縮まるはず。
あとは……隙を見てさりげなく手でも繋いでみましょうか。ふふっ。
ゾクッ――
伸ばしかけた手をとめ、ナイフを握る。
「葵……こんなところで何をしている?」
肩まである黒髪、服の上からでもわかる鍛え上げられた肉体。温度のない冷酷な眼差し。
知らない人間が見れば、いわゆるイケメンなのだろう。見た目だけは。
「黒津頼人……何の用ですか?」
くっ、なぜあいつがここに……?
「相変わらずつれない。未来の旦那さまに向かってその口の利き方は感心しないな」
誰が未来の旦那様だ。嫌悪感で鳥肌が立つ。本当にこの男が嫌いだ。
「葵、この人知り合いなのか?」
まずい……頼人は武闘派一族である黒津家の中でも実力だけは飛びぬけている。無いとは思うが、万一天津さまに敵意を向けた場合、私では止められない。なんとかこの場だけでも穏便にすまさなければ……。
「おい葵、その男は誰だ? 他人の許嫁にずいぶん馴れ馴れしいじゃないか?」
くっ……名前呼び作戦が裏目に出ましたか。
「こ、この方は関係ありません。私に用があるのなら別の場所で聞きます」
「ふん、俺の葵に手を出したんだ。相応の報いは受けてもらう。どけ、葵」
くっ、最悪です。こうなったら本当のことを話すしか……
「俺は天津命、お前が誰かは知らないが、葵が困っているじゃないか」
はうっ!? 自分で言わせたとはいえ、名前呼びはドキッとしますね……。とはいえ、そんなことに浸っている場合ではありませんが。
「天津……だと!? まさか……お前、宗主家の?」
結果的には正体がわかって良かった。いくら頼人でも、宗主家相手に無茶は出来ないはず。
「ん? よくわからないけどそうらしいな。お前も関係者なのか?」
「……チッ、宗主家の名に免じて見逃してやる。来い、葵」
頼人のことだ。このままついてゆけば最悪軟禁状態にされるかもしれない。悔しい……あと少しだったのに……。
でも……お優しい天津さまにお怪我がなくて本当に良かった。
「待てよ」
天津さまが私の手を掴んで引きとめる。なんで……?
「……なんだ? 怪我したいのか?」
イラついたように表情を消す頼人。まずい……明らかに不機嫌になっている。
「葵とは雇用契約を結んでいるんだ。今は勤務時間中。出直してくれ」
「屁理屈を……どうやら痛い目に遭いたいようだな……その手を離せ!!」
ヒュッ――
頼人の手刀が私の手を掴んでいる天津さまの右手を襲う。手を離さなければ本気で斬り落とすつもりだ。
咄嗟に手を出すが、素手で鉄板を切り裂く威力の前では盾にもならない。
ガシッ――
「なっ!?」
「えっ!?」
つ、掴んだ? 私の手だけでなく、頼人の手も!?
ありえない……一体何が……?
「とにかく俺と葵はこれから行くところがあるんだ。今は引いてくれ頼むよ」
「……ふん、わかった。また出直すとしよう。だが、葵、逃げられると思うなよ? お前は俺のものだ」
最悪な捨て台詞を残して頼人は姿を消す。
「大丈夫か、葵?」
「な、なんであんな無茶な真似を……」
「だって葵……震えていたから」
心配そうに私の顔をのぞきこむ天津さまにドキドキが止まらない。
繋いだままの手が熱を持って恥ずかしい。
どうしよう……もしかして私……。




