第三十一話 母と息子なら普通
「夕食の準備があるから先に上がるぞ」
そう言って撫子さんが湯船から上がる。ほんのり上気した肌と濡れた髪が色っぽいんだろうが、当然直視できるはずもなく、浴室は広く湯けむりもあるから安心して欲しい。
だが正直助かった。俺が先に上がるのは物理的に不可能だったから。
「撫子さん、俺にも手伝えることある?」
「そうだな……食器を準備してもらえると助かる。まだ時間がかかるからゆっくりしていて大丈夫だぞ」
浴室から撫子さんの気配が消えるのを確認してから大きく息を吐く。
あまり長風呂をするタイプじゃないので、正直もう出たいのだが、今出たら撫子さんが着替えているかもしれない。
まあ向こうはあまり気にしないかもしれないが、俺が気にする。
もう少し時間をつぶしてから出ることにしよう。
「……それにしても、撫子さん可愛いよなあ……」
思い出しただけでにやけそうになる。
「ふーん……私は?」
「桜花さんは可愛いだけじゃなくて、その上綺麗でセクシーですからね……って、うわあああっ!? お、おおおお桜花さん、なんでここに!? いつの間に!?」
「いつの間にって、さっき撫子と入れ違いで入ってきたんだけど? でも嬉しいな命くん。私のことをそんな風に想っていてくれたんだね。知ってはいたけれど直接本人から言われると照れるね」
くっ……俺が撫子さんを見れないことをわかっていて……それにしても、やはり俺の心の内がバレバレな件。
「命くん、早速で悪いんだけど、背中流してもらえるかな?」
……はっ!? いま何とおっしゃいました? セナカヲナガス? シロナガスクジラじゃなくて?
びっくりして思わず振り返ってしまったのが失敗だった。慌てて目を逸らしたけれど、ばっちり見えてしまった。
「あ、あの、つかぬことをお伺いしますが、それは誰の背中でしょうか?」
「ぷぷっ、誰って、私の他に誰がいるんだい? 浴室には悪い霊はいないよ?」
ですよね……っていうか、さらっと怖いことを言わないで欲しいんですけど。
「心配しなくても、週末にまとめて浄化するから問題なし」
いやいや、それまでは存在するんですよね!? 怖いんですけど!?
大丈夫だから放置しているんだろうけど、一人じゃ寝られなくなりますよ?
「それならいいですけど、あまり心を読まないで下さいねっ!?」
「それは無理だね。呼吸をするなと言うようなものだから」
桜花さんはにやにやしながら桶に腰掛け背を向ける。
「さあ、少年、存分に想いをぶつけるがいい」
「……背中流すだけですからね?」
なにやらノリノリの桜花さんだが、断れる雰囲気ではない。覚悟を決めて新しくおろしたスポンジに泡をたっぷりつけてもこもこにする。
「待って、スポンジは必要ないよ」
「え……でも、スポンジが無ければどうやって?」
「普通に手で洗ってくれれば良い」
直接……手で? 桜花さんのやわ肌を? いやいや……それはさすがに……。
「俺の手ガサガサしてますし、やっぱりスポンジの方が……」
「駄目だ、命くんのその大きくて歳の割にごつく節くれ立った手が良いんだよ。何を遠慮しているのかわからないが、私たちは母と息子なんだから普通のことだよね?」
褒められているのか微妙だが、どうやら手でないと駄目らしい。
いつの間にか母と息子になっているけれど、桜花さんはお母さんというよりは綺麗なお姉さんにしか思えないんだが……。
「じゃ、じゃあ失礼しますね……」
「うん、早く早く、ワクワク」
……口でワクワク言う人いたんですね。背中洗うだけですよ?
手にたっぷり泡をつけて、触れるか触れないか、泡を使って優しく丁寧に洗ってゆく。
「ふぅ……上手いじゃないか命くん。実に気持ちが良いよ」
「そ、そうですか? 良かったです」
ふふっ、雑念を払うために目の前の泡に集中していたからな。喜んでもらえて良かったよ。
「よしっ、背中はもう十分だよ、次は前も頼む」
完全に油断していた。
突然出現した桃源郷に俺の意識は釘づけとなる。
「ふえっ!? ま、あまま前えええっ!?」
「遠慮はいらない、撫子をあまり待たせるのもマズいし、早く頼む」
た、たしかに撫子さんを待たせるのはマズイ……よな。
あれ……なんか思考がうまく働かない……?
『命くんっ!? 大丈夫……命くん……』
桜花さんが遠くで何か言っているのが聞こえる……。
そこから先のことは憶えていない。




