第三話 桜宮撫子
天使だ……天使がいる。
心臓が鼓動を早める。そこだけぱぁっと明るくなったように見えるのは気のせいだろうか?
あまりの事態に頭が上手く働かない。まるで自分の身体じゃないみたいに。
さっきまではいつも通りの日常だった。
いや、今日は部活も無いし、宿題や課題も無いというラッキーデーではあったけれども。
早く家に帰って、描きかけになっているイラストの続きを……。
そう思っていたのだが……。
うーん……これは夢かはたまた現実か。深呼吸をしてもう一度状況を冷静に確認する。
なるほど、もしかして掃き溜めに鶴とは、こういうことを言うのだろうか?
愁いを帯びた眼差しで一人佇む美少女。
見間違いようも無い。
校内一有名で、憧れのアイドル。
桜宮撫子さん。
腰まである艶のある黒髪をトレードマークである桜色の大きなリボンでシンプルに束ねている。
普通の女子が大きなリボンを付けていたら多分リボンに負けてしまうと思うが、彼女の場合は、リボンが体の一部じゃないのか? と思うほど似合っている。
実際、彼女に憧れて真似をする女子が後を絶たず、校内のリボン率は異常に高い。その恩恵か、近くの手芸店ではリボン売り場を新たに設置したという噂まで聞いているほど。
言うまでもないことだが、斉藤商店にもリボンコーナーはある。
さらに彼女は地元で有名な神社の娘で、忙しい時期は巫女さんとなって手伝ったりもしている。
あの可憐な容姿で巫女さん……しかもコスプレではなく本物。
一体、どれだけの属性を詰め込んでいるんだとツッコミたい。
そんな巫女姿を見るためだけに県外からもやってくるファンも大勢いるとかいないとか。少なからず神社の売り上げに貢献しているのは間違いなさそうだ。
俺も彼女の神社には欠かさず参拝しているが、あくまで神事であって、別に彼女目当てで通っているわけではない。断じてない。
だが、脳内とはいえ、桜宮さんを彼女と呼ぶのはなんか照れるな……。
人を寄せ付けない圧倒的なオーラと気品。異世界転生してきたどこかのお姫さまだと言われても違和感がない立ち居振る舞い。
一部の幼馴染を除いて、クラスメイトは皆、桜宮さんと呼んでいる。
もちろん俺もだが、元々口数の少ない桜宮さんとお話する機会などほとんどないのが現実だ。いや、見栄を張った。実はまだ一度も話したことがない。教室で後姿を眺めているだけだ。
そんな高嶺の花の彼女が、なぜか俺の家の前にいる。
今日は美術部の活動が無い日で良かった……寄り道もせずに真っ直ぐ帰ってきた自分を褒めてやりたい。少しでもタイミングがずれたら会えなかったかもしれないのだから。
心臓の音がやけにうるさい。
落ち着け、俺は何も悪いことはしていない。
ただ自分の家に帰ってきただけじゃないか。
そうだ……自然に、自然体で良いんだ。
言い聞かせるほどに表情が硬くなり痙攣してくるのがわかる。
仕方ないんだ。だって桜宮さんと二人きりで話したことなんて一度もないんだから。
だが、こんなチャンスを逃すわけにはいかない。むしろ話しかけない方が不自然まである。
ありがとうございます、神さま。
これからは心を入れ替えて、誠心誠意参拝させていただきます。
俺は桜宮さんに声をかけるため、一歩踏み出す。
ごくごく自然な帰宅中の体を装って。