第百二十八話 東宮司 椿姫 ~追憶~
「椿姫さまは……その……なぜ当主を交代しなかったんですか?」
100年近く、候補が現れなかったということはないだろう。その気になれば代替わり出来たはずだ。
『そうですね……罪を償うため……でしょうか』
一体何があったのか。俺には聞くことは出来なかった。
遠くを見つめる椿姫さまは少し寂しげでとても悲しい瞳をしていたから。
◇◇◇
『……というわけで、海津キアラを通して面会願いが来ております』
千歳からの定期報告。
天津命……とてもよく覚えている。十六年前のあの日のことを。
なんて桁違いの神気……これは……『稀人』……時代が変わるのですね。
何度も天津家の出生には立ち会ってきたけれど、女神さまからの神託が降りてきたのは初めてだった。
この世のバランスを変えかねないほどの危うい存在。
それはつまり……世界がそれほどの危機を迎えていることの証左。
そして……それは私が一番よくわかっていたこと。
もう何年経ったのだろうか。気が遠くなるほどの長い時間……私はもう限界かもしれない。見た目は変わらなくとも肉体も精神もボロボロ。
わかっている。とうに交代すべきときは来ているのだと。
でもそれは今ではない。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
私は……まだ……折れるわけにはいかない。
この子が……命が成人して当主となるまでは……たとえこの身体が朽ち果てようとも耐えてみせる……。
だから……生きなさい命。どうか健やかに……私のすべてをかけてこの世界を守るから。
『わかりました。会いましょう。千歳、よろしく頼みますね』
『かしこまりました、椿姫さま』
命がやってきた。妹たちを連れて。
ああ……やはり運命なのでしょうか。あの子たちが導かれるようにこの場所へ……。
「あれ? なんか触っていないのに崩れちゃいましたけど……?」
十六年ぶりに再会した命は私の想像をはるかに超えて成長していた。
触れることなく闇を浄化するまばゆいばかりの神気。
閉ざしたはずの心の奥まで届く光……ああ……意識が遠くなる。
………………
記憶が蘇る……悔やんでも悔やみきれないあの記憶が……。
80年前のあの日……あの時私は……
「なあ椿姫、なんで当主を交代しないんだ? 俺は早くお前と一緒になりたいんだけどな」
東宮司家当主は激務だ。通常は一年、長くても三年以内で交代することになっている。私はすでに五年目、許嫁である宗主家次期当主天津尊さまがそう言ってくるのも当然だった。
「ごめんなさい尊さま。英梨花はまだ準備が出来ていないのです。あと一年だけお待ちください」
もちろん尊さまには他にも許嫁が何人もいらっしゃるのは知っているけれど、私が正式に嫁ぐまでは他の方とも結婚されないと決めていらっしゃるとか。わざわざこんな山奥まで足を運んでくださるのも申し訳なく、さらに一年待てなど、到底受け入れてもらえないものと思っていた。
婚約破棄もいたしかたない。そう覚悟していたのだが。
「そうか、わかった。椿姫は本当に優しいな。よし、こうなったら一年でも十年でも待ってやるさ」
「くすくす、尊さまったら……さすがにそこまでは待たせたりしません」
尊さまは私の我がままを笑って許してくださった。その底抜けに明るい笑顔にどれほど私の心が癒されたことか。本当は涙が出るほど嬉しかった。
それが最後の別れと知っていたならば……私はどうしていただろうか?
それでもきっと同じだったかもしれない、私は決して投げ出したりできない。
その直後、大戦が勃発。日本は天津家を中心に海外のネットワークを生かして衝突を回避すべく働きかけていた。
尊さまも世界中を飛び回り、和平交渉が結実するはずだった。
だが……日本は戦争に突入。
不自然なまでの力が働いたことは間違いなかったが、一度動き始めた歯車を止めることは天津の力をもってしても困難だった。
『闇の力の活性化』
予兆はあった。今に始まったことではない。定期的にやってくるもの。
人が暮らすこの世界では負のエネルギーは大地に染み込み循環している。その流れは洪水のように時に氾濫し世界を争いと死の大地へと変える。破壊と再生それは抗いがたいものかもしれない。
溢れだした闇の力は、人々の心にも影響を及ぼし大きな戦争や病が蔓延する。
私が守っている場所はその一つに過ぎない。
全世界を守ることは出来ない。でもせめて身の回りの人々だけでも守りたい。それは太古の神々の願い。そして私の祈りでもある。
「英梨花……それ……は……本当の話……なのですか?」
「……はい、残念ながら……宗主家からの正式な報告です」
尊さまがもはや助けられないほどの重症……今晩が山だという。
「椿姫さま、行ってください!!!」
「……駄目です。今私がここを離れるわけには……」
「私とて次期当主として修行してきた身なのですよ。大丈夫です、数日程度ならば耐えて見せます」
英梨花……
「さあ、迷っている時間は無いですよ。それともそんな後悔を抱えたままの気持ちでこの先務めが果たせるのですか? 椿姫さまはいつも言っていたじゃないですか。一番大切な人を守れないで結界を守れるはずがないと」
……たしかにその通りですね。私が守るべき世界の中心にいるのは尊さま。彼の居ない世界など考えたくもない。
「英梨花……少しの間離れます。その間頼めますか?」
「お任せください。さあ、早く」
結界を飛び出す。はやる気持ちを抑えながら。
私なら……生きてさえいてくれれば。お願い……間に合って。




