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an unbalanced party 〜聖女と四人の騎士

八人目の小人

作者: 村野夜市

恋をしている人というのは、美しいもんだ。

彼女を見て、僕はよくそう思っていた。


僕は八人兄弟の末っ子だった。

上にずらりと七人の兄さん。なかなかの壮観だ。

生まれたのは、どこか、ドワーフの郷だった場所。

そこには、今はもう郷はない。

オークの襲撃を受けて滅ぼされたからだ。


僕はまだとても小さかったから、そのときのことは覚えていない。

兄さんたちから聞かされた話で知っているだけだ。

兄さんたちは幼い僕を連れて、必死に逃げてくれた。

両親とはそのときに生き別れになった。

だから、僕は、自分の親の顔を知らない。

両親が今も生きているのかどうかは分からない。

ドワーフの寿命からすると、まだまだ元気で暮らしていてもおかしくはないけれど。

もしもどこかで会ったとしても、僕にはそれが実の親だとは分からないかもしれない。


オークの襲撃を受けたとき、郷の大人たちは、みんなして戦ったそうだ。

故郷や、暮らしや、仲間を守るために。

けど、オークの強さは桁外れで、じりじりと後退するしかなかった。

オークは傷つくことを恐れない。

もしかしたら、死ぬことすら恐れていないのかもしれない。


オークを動かしているのは、ただ、食べ物を手に入れたいという欲求だけ。

やつらに、郷の住人は見えていない。

ただ、そこに、食べ物があるから、獲りにいく。

住人は、やつらの目的を邪魔する、ただの障害物のようなものだ。

だからオークは郷を襲撃することに罪悪感すら抱かない。


故郷を壊され、暮らしを壊され、結局、最後に残った仲間を守って、郷の人々は逃げた。

最初は、結構な人数が一緒に行動していたらしい。

けれど、そもそも、ドワーフ族には、旅はむいていない。

僕らは何世代もひとところに留まり、山を掘って暮らす種族だから。

意見の食い違いから、それぞれの道に別れて、やがて、僕らは兄弟八人だけで、ある森に住み着いた。


そこでの暮らしは悪くはなかった。

近くには人間の街があって、そこの人間は亜人種に対してもそれほどひどい扱いはしなかった。

兄さんたちは、炭鉱で掘った石炭を、街に持って行って売った。

兄さんたちの掘ってくる石炭は、とても質がいいと言って、高く売れるらしかった。

そして、自分たちでは作れないものを、街の市場で買ってきた。

そうやって、僕らは兄弟で細々と暮らしていた。


末っ子の僕は、炭鉱も街も危ないと言われて、いつも家でひとり留守番だった。

けど僕は、ひとりで家にいて、いろいろするのが苦にならなかったから、それに不満はなかった。

家を居心地よく整え、食事を用意して、兄さんたちの帰りを待つ。

清潔な着替えや、ふかふかのベットを、兄さんたちは喜んでくれたし、なにより、僕の料理を、いつも美味しい美味しいと言って食べてくれた。

春も夏も秋も冬も。

僕らはそうやって暮らしていた。


ある夏のことだった。

蝉時雨のなか、家の裏で洗濯に精を出していると、僕らの家に近付いてくる人影があった。

念のため用心して、僕は物陰に隠れた。

亜人種のことをよく思わない人間も多いからだ。

無用な争いは避けるにこしたことはない。


それは若い人間の娘だった。

僕らの家には鍵はかけてなかったけど、人間は躊躇もなく家のなかに入って行った。

なかに恐ろしい魔女でもいたら、どうするつもりなんだ。

不用心なやつだ、と思った。


人間はなかの様子を見て、まあ、と両手を頬に添えて感嘆の声を上げた。


「こんな森のなかに、こんな素敵なお家があるなんて。

 びっくりや。」


ふっふっふ。そうでしょうそうでしょう。

自慢じゃないけど、ハウスキーピングは、カンペキだ。


ひらひらフリルのレースのカーテン。

清潔感のあるオフホワイトのリネンに白糸の花の刺繍。

小花柄で統一した各種カバーは、使う人ごとに色と柄が微妙に違っている。

細部までこだわりにこだわり抜いて、これぞまさしく、森の小人さんのお家!って感じに仕上げてありますから。


なんて、悦に入っている場合じゃない。

不法侵入ですよ、お嬢さん。


人間はテーブルの上の食器を眺めて首を傾げていた。


「もしかして、ご飯どきやったんかな?

 お皿にスプーン・・・いや、綺麗に並んでんなあ。」


兄さんたち帰ってきたらいつも腹ペコだからね。

すぐに食事にできるように支度してあるんだよ。


「しっかし、どれもこれも、めっちゃ小そうて、可愛いらしなあ。

 もしかしてここは、子どもさんのお家?」


子どもだけでこんな森のなかに住んでるはずないでしょ、と思わず声に出して言いそうになったけど、とりあえず、なんとか踏みとどまる。


「椅子は・・・

 ひのふのみぃ・・・あれ?七つ?」


八つ!ちゃんと数えてください。


「しっかし、はあ~疲れたなあ。

 よっこいしょっと。

 あれ?この椅子、小さない?

 ・・・はみ出してるやん。」


・・・ノーコメント。にしておこう。


「ふんふんふん。

 あれ?

 なんか、ええ匂いするなあ~。

 そういや、お腹すいたなあ。

 ブブヅケでもあれへんかなあ?」


鼻歌を歌いながら厨房を覗いた人間は、とろ火で煮込み中のシチューに気づいた。


「あれ?めっちゃ、美味しそうやん?

 どれ、一口、お味見・・・

 うわ。なにこれ、うっま。

 うっそ、ありえへん。

 うますぎやろ。

 うっわ、とまらへんわ。

 うそ~。

 なにこれ、悪魔のシチュー?」


一口味見と言いつつ、全部食べてしまった。

あーあ。今夜の兄さんたちのご飯が・・・

しかし、なんだ、こいつ。

人間に見えたけど、オークの夕飯泥棒か?


人間は空っぽになった鍋を見て、ため息を吐いた。


「あー、悪いことしたなあ。

 けど、このシチューの美味しすぎるのが悪いんよ。」


美味しいのが悪いなんて言われたの、初めてだよ。


「お腹いっぱいになったら、眠たなってきたなあ。

 って、ちょうどええところに、ベットがあるやん。」


お、おい!

知らない家に不法侵入し、安全かどうかも分からないものを口に入れ、挙句、無防備に昼寝だと?

危機管理という言葉、知ってますか?お嬢さん。


「って、このベットも小さいなあ。

 足縮めんと、寝られへんやんか。

 しゃあないな。二つ並べ・・・ても足らん。

 三つ並べるか。」


折角、綺麗にメイキングしてあるのにぃ!

人間は勝手にベットを三つ並べると、そこに横になって眠ってしまった。


僕は大急ぎで、もうじき帰ってくるはずの兄さんたちを迎えに走った。

いや、べつに、初めて見た人間にびびってた、わけじゃない。

わけじゃないんだからね?


炭鉱への道を転がるようにして駆けて行くと、向こうから兄さんたちが一列になって歌いながら帰ってくるのに行き会った。

僕は兄さんたちにあの人間のことを告げ口した。

勝手に家に入ってきて、食べごろの素敵なシチューを全部平らげた挙句、綺麗に整えてあったベットを三つ並べて寝入ってしまったって。

息継ぎもせずに、ぜんぶ一息にしゃべった。


兄さんたちには僕の言っていることは半分くらいしか伝わっていなかったようだ。

だいたい、この森で人間を見ることはそんなになかったから、あまりに予想外だったんだろう。

とにかく、家に急ごうということで、倍速スピードで歌いながら帰ってきた。


で。

見つけた。

彼女を。


で。

なんだかんだあって。

僕らは彼女と友だちになった。


それからも彼女はなにかあると僕らの家に遊びにきた。

兄さんたちは毎日炭鉱に仕事に出かけていたから、彼女の相手をするのはもっぱら僕だった。


洗濯をする僕の隣で、彼女は、ダンナさまの話をする。

黒檀の色の髪に青い瞳、血の色の唇。

彫刻のような美男子でかつ、剣の腕はどこかの騎士様のよう。

それはもうそれはもう、ステキデカッコヨクテスーパーナダーリンなんだと。

その話を、何回も何回も、耳にタコが十匹できるくらい聞かされた。


なれそめはオークに襲われたのを助けられたことから。

一目惚れして、一人者だというから押しかけ女房したら、子どもがいて。

その子どもがなんとまあ、自分と同じ年だったもんだから、いろいろと問題が・・・。


「そいつってさあ、自分の娘と同じ年の人と結婚したんだよね?」


「ねえ?びっくりやで、もう。

 まさか、そんな大きな子やと思えへんもの。

 うちのダンナさま、若う見えるしぃ。

 奥さん、早うに亡くして、男手ひとつで娘育ててるとは聞いてたんやけどね。」


「あんた、それでよかったわけ?」


「奥さんはおらんのやし、別に不倫やないもん。

 ちゃんと教会で式も挙げてくれたし。」


「いやいやいや。そこじゃなくて。」


「ああ、娘ちゃん?

 あの子も悪い子やないのよ?

 むしろ、素直なええ子や。

 けど、わたしのこと、お母さんとはよう言わへんわ。

 まあ、そら、しゃあないやん。

 わたしも、そこは無理せんでええよ、て言うたんよ?

 そうそう。わたしのほうからな、そこは言うてあげなあかんでしょう?」


彼女はため息を吐いて、遠い目をする。


「あの子も、反抗期なお年頃やねんて・・・」


って、あんた、同い年だろっ!


「そんで、最近、ちょーっと、ぷちいえで?とか、してしもてなあ・・・」


「はあ?家出っ?

 そら、大ごとだろ?

 平仮名にするから聞き逃しかけたじゃないか。」


「ああ、でも、すぐに見つかったし。

 ほんま、ぷちやったんよ、ぷち。」


「ぷちでもなんでも、家出はダメでしょう?

 みんなに心配かけてさ。」


「まあ、しゃあないやん。

 あの子も複雑なんやて。」


「それで?怪我とか、してなかったの?」


むっつり返したら、彼女はちょっと黙って僕の顔をまじまじと見ていた。


「って、あんた、うちの娘ちゃんの怪我のことまで心配してくれんねんなあ。

 ほんま、グランちゃんはええ子や。」


ぐりぐりと頭を撫でようとする手から僕は必死に逃げる。


「グラニティス!

 ったくもう、なんべん言ったら覚えるんだ?」


「覚えてるよ?

 けど、言いにくいねんもん。

 ええやんかもう、グランちゃんで。」


僕らの言葉で、グラニティスというのは花崗岩のことだ。

とても強くて固い立派な岩だ。

僕の両親は僕に花崗岩のようなドワーフになってほしいと思ってこの名をつけたんだろう。

立派な名前だと思うし、気に入ってもいる。


「僕の親からもらった大事な名前を、いい加減に省略しないでほしいんだけど。」


「ええやん。グラン。可愛いらしいて。

 えっと、なんて意味やったっけ?」


覚えてないくせに、可愛いらしいというのはどこからくるんだ。


「どんぐり。」


「ああ!そう!どんぐり!

 って、あんたにぴったりやん!!」


彼女は僕を頭からつま先まで視線で二往復してから、うん、と嬉しそうにうなずいた。


「なにそれ、余計に傷つくんだけど。」


「なんで?褒めてんのに。」


・・・。

それって、あれでしょ?

背が低くて頭が大きくて等身が低いって、言いたいんでしょ?


「ドワーフなんだから、仕方ないだろ?」


「なに怒ってんのん?

 可愛いらしい言うてんのに。」


「・・・・・・。」


彼女にお年頃の男子の心の繊細さなんかは、分かりっこない。

僕はため息を吐いた。


「もういい。

 それより、そっち手伝え。」


「ああ、はいはい。

 干すねんな?

 けど、手伝ってほしいときには、手伝え、やないやろ?

 ほら、言い直してみ?」


「手伝って、ください。」


言い直させながらも、彼女は洗い終わったシーツの向こう端を持って、干すのを手伝ってくれた。


逆光になったその立ち姿を、僕はこっそり盗み見る。

金の髪がきらきらしていて、とても綺麗だ。

すっきりと長い手足も、形のいい小さな頭も。

みんな僕にはないもの。

恋する人を思って輝くその青い瞳も。

多分、きっと、僕には永遠に、関わりのないもの・・・


「なあ、グランちゃん?」


「なに。」


「今度、うちの娘ちゃん、ここに連れてくるから。

 友だちに、なってやってくれんやろか?」


「ダメだと言っても連れてくるんでしょ?」


「グランちゃんが、本気で嫌や言うんやったら、連れてけえへん。」


「・・・べつに、いいけど。」


「そう言うてくれる、思うたわ。」


ダメだって言っておけばよかったって、後から随分悔やんだけれど。

そもそも、僕に彼女の頼みを断ることなんて、できっこなかった。


彼女の娘さんは、彼女の言うとおり、悪い人間じゃなかった。

素直で単純で、優しくて優柔不断で、明るいおバカさんだった。

黒檀の色の髪に青い瞳、血の色の唇。

娘さんの容姿は、多分、父親にそっくりだ。

彼女とはタイプは違うけど、それはそれで、美人なんだろうと思った。

娘さんもまた、恋をしていた。

相手は、ぷち家出、のときに知り合ったという隣の荘の領主の息子だった。


しかし、隣の荘の領主に関しては、あまりいい噂を聞かなかった。

なんでも、近隣の街や荘に対して、言いがかりをつけてはあれこれと無茶な要求をするらしい。

隣の荘は領地も広く、土地も肥えていて、住む人間も多い。

なまじっか力があるもんだから、余計に厄介な感じだった。


「だって、恋ってのは、障害があるほど、燃え上がるものでしょう?

 それに、彼に嫁げば、すっごい玉の輿だもの。

 ああ、玉の輿。すべての女子の憧れよね?」


両手をもみ絞り、うっとりとあらぬ方を向いて訴える娘さんに、僕はなんだか不安しかなかった。

それは彼女も同感らしかった。


「いや、あの男は、あかんって。やめときって。

 玉の輿なんていっときのことやん。

 大事なんは、あんたの人生なんやで?」


「はあ?

 母親でもないあなたに、わたしの人生、とやかく言われたくないんだけど。」


「いやいやいや。

 母親やのうても、言いとなるわ。

 あんたはちょっとばかし、恋に目が眩んでるだけやねんて。

 もうちょっと男見る目磨いてから・・・」


「あなたにそんなこと言えるかしら?

 恋に目が眩んで、後妻に押しかけたら、こーんなおっきな娘がいて、びっくりしたくせに。」


「それとこれとは、話しが違う・・・

 て、あんた、それ、自分のお父さんのこと悪う言うてんのん?

 なんちゅう娘や、その性根、今のうちに叩き直しとかんと・・・」


「待った待った待った。」


あわやつかみ合いになりかけたふたりに、僕は慌てて割って入る。

しかし、これは、どっちの味方もしたくないぞ。


「まあ、よかったらお茶でも・・・」


とっておきの紅茶とアップルパイ。

うちの兄さんたちのデザートだけど、少しだけ分けてやろう。


「あ、おいし。」

「流石、グランちゃんやね。」


ふたり同時ににっこりする。

そうしてると、血が繋がってないのに、ふたりはそっくりだった。


「これ、おかわりも、いただけるのかしら?」

「グランちゃん、おかわり~」


厚かましいところまで、そっくりだ。


結局、兄さんたちのアップルパイをふたりでそっくり平らげて、そのまま帰って行った。

まったく、仲がいいんだか悪いんだか、イマイチよく分からない。


そんなこんな、ごたごたした日があって、それからしばらくして、彼女は娘さんをしばらくうちの家に預かってほしいと頼んできた。


「あの男がな、うちの娘ちゃんに正式に求婚にくる、て言うねん。

 とにかくな、婚約、てなことになったら大変やから、娘ちゃんは森の狼の襲われて死んだことにしよ、思うて。」


「・・・また、極端な・・・

 だいたい、この森、狼はいないよ?」


「そんなこと、森じゅう狼探して歩けへんかったら、バレへんって。

 それより、あの男はあかんねんて。

 あんたもそない思うやろ?」


「まあ、思う、けど・・・」


「お願いやから。

 とにかく、あいつと娘ちゃんを会わせとうないねん。

 後のことは後で考えるから、その間だけ、預かってほしいねん。」


随分無茶なとは思ったけれど、必死に頼み込まれて、兄さんたちも、彼女と彼女の娘さんのことは心配していたから、結局、預かろうということになった。


彼女はお使いという名目で娘さんを森の家に来させた。

僕は、娘さんの大好きなアップルパイに、彼女から預かった眠り薬を混ぜた。

このまま領主の息子が帰るまで眠らせておこうという魂胆だった。


けれど、それは失敗した。

領主の息子は、何故か僕らの家に娘さんがいることを知っていた。

そして、彼女の作った眠り薬を無効にする薬も持っていた。

目を覚ました娘さんは、大喜びで彼についていった。

僕らには引き留めることもできなかった。


兄さんたちは娘さんを心配して、隣の荘まで追いかけていった。

そしてそのまま帰ってこなかった。

僕は、兄さんたちも娘さんと一緒に幸せに暮らしているんだろうって思った。

それならそれでかまわないとも思った。

噂なんて、あてにならないかもしれない。

ただ僕は、ひとりになっても森の家に残って、ずっとここを守っていようと思っていた。


それから、ひと月くらい経ったころ、恐ろし気な噂話が聞こえて来た。

いわく、隣の荘の住人が、ある日突然、丸ごと行方が分からなくなった、と。


恐ろしい噂はそれで終わりじゃなかった。

その話には続きがあった。

いわく、行方不明になった住人たちは、みんなオークになってしまったんだ、と。


その話を聞いて、娘さんの父親、彼女のダーリンは、寝付いてしまった。

娘さんが強引に結婚したあと、ショックで体調を崩していたのが、一気に悪化したらしかった。


彼女は気も狂わんばかりになって、娘さんを探しに行くと言った。

けど、僕はもう少し状況が明らかになるのを待とうと、必死に彼女を引き留めた。

なにかあったのなら、兄さんたちはきっとここに報せてくるはずだ。

闇雲に探し回るより、その連絡を受けてから動いたほうがいい。


僕の言ったことに、彼女は一応、納得した。

そして、黙々と旅の準備を始めた。

僕はもちろん、彼女と一緒に行くつもりだった。

けれど、これは、長い旅になるだろうという予感があった。

だからこそ、準備はちゃんと整えてから、踏み出すべきだと思った。


隣の荘でなにか、ただならぬことが起こったというのは、間違いなさそうだった。

けれど、その詳細が伝わってこない。

噂話はどれもこれも、にわかには信じ難いようなことばかりだ。


しかし、そんな大勢がいっぺんにオークになるなんて、普通に考えてあり得ないだろうと思う。

オークになるのは、許されない罪を犯した者だ。

故意に人を殺すとか、強盗をするとか、放火をするとか、それくらい重い罪を犯した者だ。

ひとつの荘の住人全員が、ある日突然同時に、そんな重い罪を犯すなんてことが、はたしてあるのだろうか。

なにより、あの優しい娘さんが、オークになるような罪なんか犯すはずがない。


そのうちに、隣の荘から逃げて来たという人たちを、街でちらほらと見かけるようになったと、彼女から聞いた。

けれど、彼らはみな、なぜかひどく怯えていて、自分たちから事情を語ろうとはしないそうだ。

元々、隣の荘とここの街とはあまり仲がよくなかった。

隣の荘には、あれこれと無理難題をふっかけては、困らせるようなことをされてきたからだ。

災難に遭って逃げてきたのは気の毒だと思いはしても、進んで力になってやりたいとは思わない。

街の人たちの冷たい態度に、隣の荘から逃げてきた人々は、身を縮めるようにして、暮らしているらしい。


待ちに待った兄さんたちからの手紙が届いたのは、それから三月ほども経った頃だった。

それは随分遠い場所から、あちこちの人の手を経て、ようやくここに届いたものだった。


どうやら、荘の住人が大勢一度にオークになってしまったというのは事実のようだった。

ただ、そのとき、そこでなにがあったのかは、兄さんたちにも分からなかったらしい。

兄さんたちは、ちょうどその当日、いったんここへ戻ろうとして、荘を出ていた。

ところが、その道中、荘から逃げて来たという人と出会い、大勢の人たちがいきなりオークに変化したという話しを聞かされたそうだ。

兄さんたちはあわてて引き返したけれど、荘の村は今さっきまで人が暮らしていたような様子なのに、人もオークも、もうどこにも姿はなかった。


娘さんもそのダンナも、行方を絶っていた。

オークになってしまったかどうかは分からない。

しかし、オークにならなかった、という証拠もどこにもなかった。


兄さんたちは、少ない手掛りを辿って、娘さんを捜して回った。

しかし、行方は杳として知れず、詳しい事情はやっぱり何も分からなかった。

そして、今も兄さんたちは、彼女の行方を追って、あちこちを探して回っているらしかった。


その手紙は彼女にも見せた。

彼女にとって、それは、残酷な報せだったけれど。

それでも、彼女は絶望はしなかった。

そして、僕らはいよいよ、旅立つことになった。


旅芸人をして旅費を稼ぎながら、僕らは娘さんを探して歩いた。

旅の仲間が増え、いろいろあって、またふたりに戻った。

出会いがあり、別れがあって、笑った日も、泣いた日も、超えて歩いた。


やがて、彼女は年老いて、道半ばで斃れた。

だから、僕は彼女の意志を継いで、娘さんを探すことにした。

僕は、彼女よりずっと寿命の長いドワーフだったから。


もしかしたら、娘さんは人間のままどこかへ逃げて、そのまま幸せな人生を送ったかもしれない。

子どもや孫に囲まれて、幸せに年をとったのかもしれない。

そうだといいと心から思う。

その事実を確かめられたら、どんなにいいだろう。

そのときは、誰にも何も告げずに、僕はただ黙って立ち去るつもりだ。


だけど、もし、人間のままなら、どうして彼女や父親に連絡をしてこないのかとも思う。

辛い目にあった娘さんを、彼女や父親は、きっと温かく迎え入れただろう。

それは娘さんだって、分かっていたはず。

なのに、そうしなかったのは・・・やっぱり・・・ということか・・・


オークになった人間は、もはや、死ぬことも、年をとることもないのだという。

ひたすらに、満たされない飢餓感を抱えながら、永遠に生かされ続けるのだという。


娘さんを見つけたらどうするのか、まだ決めていない。

彼女がどうするつもりだったのかも、結局、聞きそびれてしまった。

いや、もしかしたら、彼女だって、それは決めていなかったのかもしれない。


彼女は娘さんを守ろうとしていた。

けど、結局は、騙すようなことをして別れたのが最後になった。

そのことを、彼女はずっと悔やんでいたんだと思う。


せめて、そのことだけは、娘さんに伝えたい。

たとえ、娘さんがもう、人間だったころのことは何も分からなくなっていても。

不器用な彼女が、娘さんのことを心から愛していたことだけは、なんとしても伝えたい。


そうして、僕の旅の、第二ステージは始まった。


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