ちょっとしたことで世界を滅ぼすお嬢様を、俺は今日も泣かせないために生きている
その花の名前を、誰も覚えようとはしない
この作品は、本編の前日譚となります。※甘くないので注意
本編
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本編の後日譚
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その花は、朝まで咲いていた。
淡い紫の花弁に、ほんの少しだけ銀色が混じった小さな花。
夜明けの冠。
東方の古い国では、想いを言葉にできない者が、大切な相手に贈る花だという。
花言葉は、言葉にできないほどの愛情。
私はその花を、かつて一度だけユリウス殿下に贈ったことがある。
水をやりすぎれば根が腐り、日差しが強すぎれば葉が焼ける。
風の通し方を間違えれば蕾が落ち、夜の冷え込みがきつければ、朝を待たずに萎れてしまう。
ひどく手のかかる花。
まるで、私みたいだと思った。
扱いづらくて。
気難しくて。
少しでも間違えれば、すぐに駄目になる。
それでも、私は毎日世話をした。
棘で指を傷つけながら、泥で袖を汚しながら、王妃教育の合間に温室へ通った。
侍女には、そんなことは園丁に任せればよろしいのに、と笑われた。
けれど、自分で育てたかった。
言葉にできないものを渡すのなら、せめてそこに、自分の時間だけは込めたかった。
何度も枯らした。
蕾のまま落ちたものもあった。
根腐れで駄目にした鉢もあった。
それでも、ようやく一輪だけ咲いた。
夜明け前の薄い光の中で、その花は静かに開いていた。
誰にも褒められず、誰にも見つけられず、それでも確かに咲いていた。
私はそれを、震える手で摘んだ。
その日に限って、いつもより丁寧に髪を結った。
表情が硬く見えないよう、鏡の前で何度も笑った。
怖く見えないだろうか。
偉そうに見えないだろうか。
ちゃんと、殿下の好む淑やかな令嬢に見えるだろうか。
ようやく差し出した時、ユリウス殿下は少しだけ目を丸くした。
『見慣れない花だな』
それから、こう続けた。
『グレイシアなら、もっと華やかな花を選ぶだろうが』
私はその時、笑った。
笑えたはずだ。
少なくとも、そう見えたはずだった。
指の傷も。
目元の隈も。
胸の中にあった、言葉にできないものも。
殿下には、何も見えていなかった。
胸の奥で何かが静かに折れた音を、誰にも聞かれないように。
私はただ、礼をした。
その花がどうなったのか、私は知らない。
花瓶に挿されたのか。
どこかの机に置かれたのか。
それとも、名も知られないまま捨てられたのか。
聞く勇気はなかった。
聞いてしまえば、本当に終わってしまう気がしたから。
◆◆◆◆◆
「リリアナ・ラ・バルティア。君との婚約を、今日この場をもって破棄させてもらう」
その声は、やけによく通った。
音楽が止まる。
笑い声が途切れる。
ホールにいた貴族たちの視線が、一斉に私へ向いた。
声の主は、この国の王太子、ユリウス・リ・グリセリア。
今日は体調が悪いからと、私のエスコートを断ったはずの婚約者だった。
なのに彼は、今、私の前にいる。
そしてその隣には、彼の腕にしなだれかかるようにして、グレイシア・ラ・ブライゼスが立っていた。
理解は、遅れてやってきた。
ああ。
嵌められたのだ。
私を目の敵にしている、あの女に。
グレイシアは、私を見ると小さく肩を震わせた。
怯えているような仕草。
けれど、その口元はかすかに上がっていた。
下手な芝居だと思った。
ただ、この場の多くは、その芝居を信じるのだろう。
私は、昔から誤解されやすかった。
黒い髪。
赤い瞳。
強すぎる魔力。
笑うのが下手で、言葉を選ぶのも下手で、素直に甘えることもできない。
幼い頃、王妃教育の教師に言われたことがある。
『泣く時は、人前ではなく自室でなさい』
『怒る時は、声ではなく沈黙で示しなさい』
『嬉しい時も、はしゃいではなりません。未来の王妃が軽く見られます』
だから私は、その通りにした。
泣く場所を、誰にも見えない部屋の奥へ移した。
怒りを、無表情の仮面で覆い隠した。
嬉しい時に伸ばしかけた手を、何度も膝の上へ戻した。
そうやって一つずつしまい込んでいけば、いつか誰かが褒めてくれると思っていた。
けれど、返ってきた言葉は違った。
冷たい女。
何を考えているかわからない女。
可愛げのない女。
王妃にふさわしくあろうとすれば可愛げがないと言われ、女の子らしくあろうとすれば公爵令嬢らしくないと言われる。
どちらへ進んでも、私の居場所はなかった。
それでも、構わないと思っていた。
全員に好かれる必要はない。
身近な人だけでも、私を理解してくれればそれでいい。
父は厳しかった。
けれど、それは愛情の裏返しなのだと思っていた。
侍女たちは私を恐れていた。
けれど、毎日のように顔を合わせているのだから、私が何もせずに人を傷つける女ではないことくらい、知っているはずだった。
殿下だって、いつかはわかってくれるはずだった。
婚約者として隣に立ち続ければ。
王妃になるために努力し続ければ。
私が何を考え、何を守ろうとしているのか、いつかは。
そう思っていた。
そう思わなければ、立っていられなかった。
深く息を吸う。
喉の奥に残っていた震えを、いつもの場所へ押し込める。
背筋を伸ばし、指先を揃え、未来の王妃として教え込まれた顔を作る。
こんな時でさえ、私はまだ、教えられた通りにしていた。
「……私たちの婚約は、王家とバルティア公爵家の間で正式に結ばれたもののはずです。王太子殿下の一存で破棄できるものではございません。正式に抗議いたします」
声は震えなかった。
震えさせなかった。
リリアナ・ラ・バルティアは、ここで泣いてはいけない。
どれほど屈辱的な場に立たされても、膝を折ることは許されない。
私が崩れれば、バルティアの名も、父の立場も、これまで積み上げてきたものも、すべて笑いものになる。
だから私は、背筋を伸ばした。
ただ、それだけだった。
「あれほどの醜い所業をしておいて、抜け抜けとよく言う」
ユリウス殿下は、心底軽蔑したような目で私を見た。
その目を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
十年以上、隣にいた。
式典でも、舞踏会でも、王妃教育の場でも、私は彼の隣に立ってきた。
それなのに、この人は今、初めて見る怪物を見るような目で私を見ていた。
「身に覚えがございません。醜い所業とは、どういったことを指すのでしょうか」
「はぁ。ここまで愚かだとは思ってもみなかった。いいだろう、これを読みたまえ」
彼は丸めた羊皮紙をこちらへ放り投げた。
床に落ちたそれを、拾う。
開いた指先が、強張った。
そこには、身に覚えのない罪が並んでいた。
国境を守るアインラッド辺境伯家の令嬢を呼びつけ、その約束を一方的に破ったこと。
ブライゼス伯爵家の令嬢であるグレイシアの魔力を嘲笑し、ありもしない男女関係を捏造したこと。
複数の男と関係を持ち、王家の名誉を傷つけたこと。
どれも事実ではない。
けれど、そこには王室調査局の押印があった。
王室調査局。
第三者機関として一定の権威を持つ組織。
そして、その長官は、ブライゼス派閥の者だったはずだ。
「こんなもの、捏造です」
「君の家の者からも一定の証言は得られていると聞いている」
その瞬間、初めて息が止まった。
家の者。
それは誰だろう。
私に毎朝紅茶を運んでいた侍女だろうか。
私の予定を管理していた執事だろうか。
夜遅くまで灯りのついた部屋を、心配そうに覗いていた古参の使用人だろうか。
私を怖がっていた。
距離を置いていた。
けれど、少なくとも、私が何をしてきたかは知っているはずだった。
王妃教育で眠れなかった夜も。
殿下の失態を陰で処理した日も。
グレイシアの不用意な言動を、何度も穏便に収めようとしたことも。
知っているはずだった。
知っていて、それでも証言したのか。
あるいは、誰も本当の私など見ていなかったのか。
「お父様が不在の隙を狙ったのでしょう。再調査を」
「そうやって公爵家の力でもみ消すつもりか?」
言葉が止まった。
違う。
これは、説明の問題ではない。
彼は信じる気がないのだ。
私の言葉を。
私の積み重ねを。
十年以上、婚約者として隣にいた私自身を。
「リリアナ。君のそういうところが、私はずっと恐ろしかった」
「……恐ろしい?」
「強すぎる力を持ち、誰にも本心を見せず、常に人を見下している。そんな君が王妃になれば、この国はどうなるかわからない」
私は、思わず彼を見つめた。
人を見下している。
そう見えていたのか。
ただ、王太子として立ってほしかっただけなのに。
政務から逃げる彼を叱ったのも。
軽率な交友をたしなめたのも。
夜会で失言しかけた彼の言葉を遮ったのも。
嫌われる覚悟で忠言したのも。
いつか、この国を背負う人だからだと思っていたからなのに。
私は彼を支えているつもりだった。
でも彼にとって私は、隣に立つ婚約者ではなく、いつか自分を裁くかもしれない恐ろしい女だったのだ。
「グレイシアは違う。彼女は優しい。弱い者の痛みを知っている」
グレイシアが殿下の腕にすがる。
「殿下……私は、リリアナ様を責めたいわけではないのです。ただ、もう怖くて」
声だけ聞けば、可憐な少女のようだった。
私は、彼女の目を見ていた。
その奥にある嘲笑を、確かに見ていた。
けれど、誰もそれを見ない。
皆、私を見ている。
冷たい公爵令嬢を。
闇属性の魔力を持つ、不吉な女を。
王太子に捨てられた、哀れで恐ろしい悪女を。
私自身を見ている者など、一人もいない。
「アインラッド辺境伯令嬢との約束は、王妃教育の日程変更により延期になっただけです。書状も残っています」
「後からどうとでも作れる」
「グレイシア様の評判を落とした件も事実ではありません。むしろ私は、彼女が不用意に魔力測定の場へ出ないよう、何度も」
「自分の悪意を正当化するな」
駄目だ。
何を言っても、届かない。
私の言葉は、最初からこの人の中に入る場所を与えられていない。
仲良くなる努力もした。
彼の好きな詩を覚えた。
好む菓子を調べた。
話題にできるよう、興味のない狩猟の本まで読んだ。
笑い方も練習した。
鏡の前で、何度も。
不自然ではないか。
冷たく見えないか。
怖がらせないか。
けれど、私が笑うと、殿下はいつも困ったように目を逸らした。
だから私は、花を贈った。
言葉で伝えられないなら、花なら届くかもしれないと思った。
夜明けの冠。
言葉にできないほどの愛情。
その意味を、彼は知らなかった。
知ろうともしなかった。
私の中でしか咲かない花だったのだ。
時間を注ぎ、手を傷つけ、蕾が開くのを待ち続けても。
相手が見ようとしなければ、何も届かない。
「リリアナ。潔く罪を認めるならば、グレイシアの慈悲により、処分は最低限に抑えられるよう私から父上へ進言しよう」
「⋯⋯慈悲、ですか」
私は、小さく繰り返した。
グレイシアが目を伏せる。
「私は、リリアナ様にもやり直してほしいのです。だから、どうか罪を認めてください」
その瞬間、何かが完全に切れた。
糸のようなものだったのかもしれない。
花の茎のようなものだったのかもしれない。
ともかく、胸の奥でぎりぎりつながっていた何かが、音もなく切れた。
「もう、いい」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
ホールの空気が震える。
ユリウス殿下が眉をひそめた。
グレイシアが一歩後ずさる。
どうしてそんな顔をするのだろう。
私をここまで追い詰めたのは、あなたたちなのに。
「もう、たくさん」
頬を涙が伝った。
誰かが息を呑む音がした。
きっと、意外だったのだろう。
冷たい公爵令嬢が泣くことも。
恐ろしい悪女に涙があることも。
皆、今初めて知ったような顔をしている。
でも、これは殿下のための涙ではない。
こんな男のために流す涙など、一滴もない。
私は今、自分のために泣いている。
誰も、私のために悲しんでくれないから。
誰も、私の言葉を聞かないから。
誰も、私がどれだけ努力してきたかを見ようとしないから。
「全部、いらない」
足元から、黒い魔力が溢れた。
悲鳴が上がる。
誰かが後ずさる。
衛兵たちが慌てて杖を構える。
殿下が顔を青ざめさせた。
「な、なんだ、これは。リリアナ、やめろ。命令だ」
命令。
その言葉に、私は笑ってしまった。
最後まで、この人は何もわかっていない。
彼が私の名を呼ぶ時は、いつも命令する時だけだった。
笑え。
黙れ。
弁えろ。
罪を認めろ。
やめろ。
ただ一度も、私を呼ぶために呼んだことなどなかった。
黒い靄が、周囲に広がっていく。
床を這い、壁を伝い、燭台の炎を呑み込む。
ホールに満ちていた光が、ひとつずつ消えていく。
衛兵が魔術を放った。
白い光の矢が、いくつも私へ向かってくる。
けれど、それらは黒い靄に触れた瞬間、音もなく消えた。
まるで初めから存在しなかったみたいに。
「殿下! 助けてください!」
グレイシアが叫ぶ。
その声も、すぐに遠くなった。
人々の悲鳴。
割れる硝子。
倒れる椅子。
全部、遠い。
黒い羽が、背後で開いた。
自分の力が解き放たれていくのを感じていた。
ずっと抑えてきた。
怖がられないように。
危険視されないように。
王妃にふさわしくあれるように。
けれど、もういい。
抑えて、耐えて、努力して、それで何が残ったのだろう。
信じてもらえない婚約。
踏みにじられる言葉。
誰にも届かない花。
そんなもののために、私は自分を殺してきたのか。
「いらない」
靄が広がる。
ホールを越え、庭を越え、王城を包む。
光が黒く塗りつぶされていく。
誰も、私の名前を呼ばなかった。
リリアナ、と。
親しみを込めて。
「全部、いらない」
声が震えていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
たぶん、寂しかったのだ。
ずっと。
私は誰かに、ただ見てほしかった。
公爵家の娘としてではなく。
王太子の婚約者としてでもなく。
闇属性の強大な魔力を持つ危険な女としてでもなく。
私を。
リリアナ・ラ・バルティアという、一人の女を。
ただ、見てほしかった。
その願いすら、誰にも届かなかった。
だから、もういい。
私は目を閉じた。
その直前。
ホールの隅で、一人の使用人がこちらへ踏み出そうとしているのが見えた。
黒髪の、地味な、見慣れない青年。
この国の者にしては少し変わった顔立ちをしている。
高位貴族でも、騎士でも、魔術師でもない。
ただの使用人。
私が気まぐれに拾った、名もろくに知らない男。
たしか、リヨンと呼ばれていた。
彼は震えていた。
顔色も悪かった。
足だって、今にも竦みそうだった。
それなのに、彼は私を見ていた。
罪を見ているのではなく。
力を見ているのでもなく。
恐ろしい怪物を見ているのでもなく。
私の涙を見ていた。
その視線が、なぜか少しだけ痛かった。
やめて。
そんな目で見ないで。
今さら、私を見つけないで。
そう思った。
けれど同時に、ほんの少しだけ、思ってしまった。
どうして。
どうして、あなたなの。
十年隣にいた人ではなく。
私のために用意された婚約者でもなく。
私の努力を知っているはずの人々でもなく。
どうして、たまたま出会っただけの、名前も覚えていないような使用人だけが、そんな目で私を見るの。
そう思った瞬間、黒い靄がすべてを呑み込んだ。
物も。
人も。
光も。
祈りも。
私の嗚咽さえも。
全部、黒に沈んでいく。
最後に残ったのは、朝まで咲いていた小さな花の記憶だけだった。
言葉にできないほどの愛情。
誰にも届かなかった、私の花。
もし、次があるのなら。
そんなものは、もういらない。
もう誰にも期待しない。
もう誰にも、私を見てほしいなんて思わない。
そう決めたはずなのに。
暗闇の底で、なぜかあの使用人の視線だけが、いつまでも消えなかった。




