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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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ちょっとしたことで世界を滅ぼすお嬢様を、俺は今日も泣かせないために生きている

その花の名前を、誰も覚えようとはしない

作者: A
掲載日:2022/02/13

この作品は、本編の前日譚となります。※甘くないので注意


本編

https://ncode.syosetu.com/n0877hm/


本編の後日譚

https://ncode.syosetu.com/n2600hm/






 その花は、朝まで咲いていた。


 淡い紫の花弁に、ほんの少しだけ銀色が混じった小さな花。

 夜明けの冠。


 東方の古い国では、想いを言葉にできない者が、大切な相手に贈る花だという。


 花言葉は、言葉にできないほどの愛情。


 私はその花を、かつて一度だけユリウス殿下に贈ったことがある。


 水をやりすぎれば根が腐り、日差しが強すぎれば葉が焼ける。

 風の通し方を間違えれば蕾が落ち、夜の冷え込みがきつければ、朝を待たずに萎れてしまう。


 ひどく手のかかる花。

 まるで、私みたいだと思った。


 扱いづらくて。

 気難しくて。

 少しでも間違えれば、すぐに駄目になる。


 それでも、私は毎日世話をした。


 棘で指を傷つけながら、泥で袖を汚しながら、王妃教育の合間に温室へ通った。

 侍女には、そんなことは園丁に任せればよろしいのに、と笑われた。


 けれど、自分で育てたかった。

 言葉にできないものを渡すのなら、せめてそこに、自分の時間だけは込めたかった。


 何度も枯らした。

 蕾のまま落ちたものもあった。

 根腐れで駄目にした鉢もあった。


 それでも、ようやく一輪だけ咲いた。


 夜明け前の薄い光の中で、その花は静かに開いていた。

 誰にも褒められず、誰にも見つけられず、それでも確かに咲いていた。


 私はそれを、震える手で摘んだ。


 その日に限って、いつもより丁寧に髪を結った。

 表情が硬く見えないよう、鏡の前で何度も笑った。

 怖く見えないだろうか。

 偉そうに見えないだろうか。

 ちゃんと、殿下の好む淑やかな令嬢に見えるだろうか。


 ようやく差し出した時、ユリウス殿下は少しだけ目を丸くした。


『見慣れない花だな』


 それから、こう続けた。


『グレイシアなら、もっと華やかな花を選ぶだろうが』


 私はその時、笑った。


 笑えたはずだ。

 少なくとも、そう見えたはずだった。


 指の傷も。

 目元の隈も。

 胸の中にあった、言葉にできないものも。

 殿下には、何も見えていなかった。


 胸の奥で何かが静かに折れた音を、誰にも聞かれないように。

 私はただ、礼をした。


 その花がどうなったのか、私は知らない。


 花瓶に挿されたのか。

 どこかの机に置かれたのか。

 それとも、名も知られないまま捨てられたのか。


 聞く勇気はなかった。


 聞いてしまえば、本当に終わってしまう気がしたから。






◆◆◆◆◆







「リリアナ・ラ・バルティア。君との婚約を、今日この場をもって破棄させてもらう」


 その声は、やけによく通った。


 音楽が止まる。

 笑い声が途切れる。

 ホールにいた貴族たちの視線が、一斉に私へ向いた。


 声の主は、この国の王太子、ユリウス・リ・グリセリア。

 今日は体調が悪いからと、私のエスコートを断ったはずの婚約者だった。


 なのに彼は、今、私の前にいる。

 そしてその隣には、彼の腕にしなだれかかるようにして、グレイシア・ラ・ブライゼスが立っていた。


 理解は、遅れてやってきた。


 ああ。

 嵌められたのだ。


 私を目の敵にしている、あの女に。


 グレイシアは、私を見ると小さく肩を震わせた。

 怯えているような仕草。

 けれど、その口元はかすかに上がっていた。


 下手な芝居だと思った。

 ただ、この場の多くは、その芝居を信じるのだろう。


 私は、昔から誤解されやすかった。


 黒い髪。

 赤い瞳。

 強すぎる魔力。

 笑うのが下手で、言葉を選ぶのも下手で、素直に甘えることもできない。


 幼い頃、王妃教育の教師に言われたことがある。


『泣く時は、人前ではなく自室でなさい』

『怒る時は、声ではなく沈黙で示しなさい』

『嬉しい時も、はしゃいではなりません。未来の王妃が軽く見られます』


 だから私は、その通りにした。


 泣く場所を、誰にも見えない部屋の奥へ移した。

 怒りを、無表情の仮面で覆い隠した。

 嬉しい時に伸ばしかけた手を、何度も膝の上へ戻した。


 そうやって一つずつしまい込んでいけば、いつか誰かが褒めてくれると思っていた。


 けれど、返ってきた言葉は違った。


 冷たい女。

 何を考えているかわからない女。

 可愛げのない女。


 王妃にふさわしくあろうとすれば可愛げがないと言われ、女の子らしくあろうとすれば公爵令嬢らしくないと言われる。

 どちらへ進んでも、私の居場所はなかった。


 それでも、構わないと思っていた。


 全員に好かれる必要はない。

 身近な人だけでも、私を理解してくれればそれでいい。


 父は厳しかった。

 けれど、それは愛情の裏返しなのだと思っていた。


 侍女たちは私を恐れていた。

 けれど、毎日のように顔を合わせているのだから、私が何もせずに人を傷つける女ではないことくらい、知っているはずだった。


 殿下だって、いつかはわかってくれるはずだった。


 婚約者として隣に立ち続ければ。

 王妃になるために努力し続ければ。

 私が何を考え、何を守ろうとしているのか、いつかは。


 そう思っていた。

 そう思わなければ、立っていられなかった。


 深く息を吸う。


 喉の奥に残っていた震えを、いつもの場所へ押し込める。

 背筋を伸ばし、指先を揃え、未来の王妃として教え込まれた顔を作る。


 こんな時でさえ、私はまだ、教えられた通りにしていた。


「……私たちの婚約は、王家とバルティア公爵家の間で正式に結ばれたもののはずです。王太子殿下の一存で破棄できるものではございません。正式に抗議いたします」


 声は震えなかった。

 震えさせなかった。


 リリアナ・ラ・バルティアは、ここで泣いてはいけない。

 どれほど屈辱的な場に立たされても、膝を折ることは許されない。

 私が崩れれば、バルティアの名も、父の立場も、これまで積み上げてきたものも、すべて笑いものになる。


 だから私は、背筋を伸ばした。

 ただ、それだけだった。


「あれほどの醜い所業をしておいて、抜け抜けとよく言う」


 ユリウス殿下は、心底軽蔑したような目で私を見た。

 その目を見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 十年以上、隣にいた。

 式典でも、舞踏会でも、王妃教育の場でも、私は彼の隣に立ってきた。


 それなのに、この人は今、初めて見る怪物を見るような目で私を見ていた。


「身に覚えがございません。醜い所業とは、どういったことを指すのでしょうか」

「はぁ。ここまで愚かだとは思ってもみなかった。いいだろう、これを読みたまえ」


 彼は丸めた羊皮紙をこちらへ放り投げた。


 床に落ちたそれを、拾う。

 開いた指先が、強張った。


 そこには、身に覚えのない罪が並んでいた。


 国境を守るアインラッド辺境伯家の令嬢を呼びつけ、その約束を一方的に破ったこと。

 ブライゼス伯爵家の令嬢であるグレイシアの魔力を嘲笑し、ありもしない男女関係を捏造したこと。

 複数の男と関係を持ち、王家の名誉を傷つけたこと。


 どれも事実ではない。

 けれど、そこには王室調査局の押印があった。


 王室調査局。


 第三者機関として一定の権威を持つ組織。

 そして、その長官は、ブライゼス派閥の者だったはずだ。


「こんなもの、捏造です」

「君の家の者からも一定の証言は得られていると聞いている」


 その瞬間、初めて息が止まった。


 家の者。

 それは誰だろう。


 私に毎朝紅茶を運んでいた侍女だろうか。

 私の予定を管理していた執事だろうか。

 夜遅くまで灯りのついた部屋を、心配そうに覗いていた古参の使用人だろうか。


 私を怖がっていた。

 距離を置いていた。

 けれど、少なくとも、私が何をしてきたかは知っているはずだった。


 王妃教育で眠れなかった夜も。

 殿下の失態を陰で処理した日も。

 グレイシアの不用意な言動を、何度も穏便に収めようとしたことも。


 知っているはずだった。

 知っていて、それでも証言したのか。

 あるいは、誰も本当の私など見ていなかったのか。


「お父様が不在の隙を狙ったのでしょう。再調査を」

「そうやって公爵家の力でもみ消すつもりか?」


 言葉が止まった。


 違う。

 これは、説明の問題ではない。


 彼は信じる気がないのだ。

 私の言葉を。

 私の積み重ねを。

 十年以上、婚約者として隣にいた私自身を。


「リリアナ。君のそういうところが、私はずっと恐ろしかった」

「……恐ろしい?」

「強すぎる力を持ち、誰にも本心を見せず、常に人を見下している。そんな君が王妃になれば、この国はどうなるかわからない」


 私は、思わず彼を見つめた。


 人を見下している。

 そう見えていたのか。

 ただ、王太子として立ってほしかっただけなのに。


 政務から逃げる彼を叱ったのも。

 軽率な交友をたしなめたのも。

 夜会で失言しかけた彼の言葉を遮ったのも。

 嫌われる覚悟で忠言したのも。


 いつか、この国を背負う人だからだと思っていたからなのに。


 私は彼を支えているつもりだった。

 でも彼にとって私は、隣に立つ婚約者ではなく、いつか自分を裁くかもしれない恐ろしい女だったのだ。


「グレイシアは違う。彼女は優しい。弱い者の痛みを知っている」


 グレイシアが殿下の腕にすがる。


「殿下……私は、リリアナ様を責めたいわけではないのです。ただ、もう怖くて」


 声だけ聞けば、可憐な少女のようだった。


 私は、彼女の目を見ていた。

 その奥にある嘲笑を、確かに見ていた。


 けれど、誰もそれを見ない。

 皆、私を見ている。


 冷たい公爵令嬢を。

 闇属性の魔力を持つ、不吉な女を。

 王太子に捨てられた、哀れで恐ろしい悪女を。


 私自身を見ている者など、一人もいない。


「アインラッド辺境伯令嬢との約束は、王妃教育の日程変更により延期になっただけです。書状も残っています」

「後からどうとでも作れる」

「グレイシア様の評判を落とした件も事実ではありません。むしろ私は、彼女が不用意に魔力測定の場へ出ないよう、何度も」

「自分の悪意を正当化するな」


 駄目だ。

 何を言っても、届かない。

 私の言葉は、最初からこの人の中に入る場所を与えられていない。


 仲良くなる努力もした。


 彼の好きな詩を覚えた。

 好む菓子を調べた。

 話題にできるよう、興味のない狩猟の本まで読んだ。


 笑い方も練習した。


 鏡の前で、何度も。

 不自然ではないか。

 冷たく見えないか。

 怖がらせないか。


 けれど、私が笑うと、殿下はいつも困ったように目を逸らした。


 だから私は、花を贈った。

 言葉で伝えられないなら、花なら届くかもしれないと思った。


 夜明けの冠。

 言葉にできないほどの愛情。


 その意味を、彼は知らなかった。

 知ろうともしなかった。


 私の中でしか咲かない花だったのだ。

 時間を注ぎ、手を傷つけ、蕾が開くのを待ち続けても。


 相手が見ようとしなければ、何も届かない。


「リリアナ。潔く罪を認めるならば、グレイシアの慈悲により、処分は最低限に抑えられるよう私から父上へ進言しよう」

「⋯⋯慈悲、ですか」


 私は、小さく繰り返した。

 グレイシアが目を伏せる。


「私は、リリアナ様にもやり直してほしいのです。だから、どうか罪を認めてください」


 その瞬間、何かが完全に切れた。


 糸のようなものだったのかもしれない。

 花の茎のようなものだったのかもしれない。


 ともかく、胸の奥でぎりぎりつながっていた何かが、音もなく切れた。


「もう、いい」


 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


 ホールの空気が震える。

 ユリウス殿下が眉をひそめた。

 グレイシアが一歩後ずさる。


 どうしてそんな顔をするのだろう。

 私をここまで追い詰めたのは、あなたたちなのに。


「もう、たくさん」


 頬を涙が伝った。


 誰かが息を呑む音がした。


 きっと、意外だったのだろう。


 冷たい公爵令嬢が泣くことも。

 恐ろしい悪女に涙があることも。

 皆、今初めて知ったような顔をしている。


 でも、これは殿下のための涙ではない。

 こんな男のために流す涙など、一滴もない。


 私は今、自分のために泣いている。


 誰も、私のために悲しんでくれないから。

 誰も、私の言葉を聞かないから。

 誰も、私がどれだけ努力してきたかを見ようとしないから。


「全部、いらない」


 足元から、黒い魔力が溢れた。


 悲鳴が上がる。

 誰かが後ずさる。

 衛兵たちが慌てて杖を構える。


 殿下が顔を青ざめさせた。


「な、なんだ、これは。リリアナ、やめろ。命令だ」


 命令。

 その言葉に、私は笑ってしまった。


 最後まで、この人は何もわかっていない。

 彼が私の名を呼ぶ時は、いつも命令する時だけだった。


 笑え。

 黙れ。

 弁えろ。

 罪を認めろ。

 やめろ。


 ただ一度も、私を呼ぶために呼んだことなどなかった。


 黒い靄が、周囲に広がっていく。


 床を這い、壁を伝い、燭台の炎を呑み込む。

 ホールに満ちていた光が、ひとつずつ消えていく。


 衛兵が魔術を放った。

 白い光の矢が、いくつも私へ向かってくる。


 けれど、それらは黒い靄に触れた瞬間、音もなく消えた。

 まるで初めから存在しなかったみたいに。


「殿下! 助けてください!」


 グレイシアが叫ぶ。

 その声も、すぐに遠くなった。


 人々の悲鳴。

 割れる硝子。

 倒れる椅子。


 全部、遠い。


 黒い羽が、背後で開いた。

 自分の力が解き放たれていくのを感じていた。


 ずっと抑えてきた。

 怖がられないように。

 危険視されないように。

 王妃にふさわしくあれるように。


 けれど、もういい。

 抑えて、耐えて、努力して、それで何が残ったのだろう。


 信じてもらえない婚約。

 踏みにじられる言葉。

 誰にも届かない花。


 そんなもののために、私は自分を殺してきたのか。


「いらない」


 靄が広がる。

 ホールを越え、庭を越え、王城を包む。

 光が黒く塗りつぶされていく。


 誰も、私の名前を呼ばなかった。

 リリアナ、と。

 親しみを込めて。


「全部、いらない」


 声が震えていた。


 怒りではない。

 悲しみでもない。


 たぶん、寂しかったのだ。

 ずっと。


 私は誰かに、ただ見てほしかった。

 公爵家の娘としてではなく。

 王太子の婚約者としてでもなく。

 闇属性の強大な魔力を持つ危険な女としてでもなく。


 私を。

 リリアナ・ラ・バルティアという、一人の女を。

 ただ、見てほしかった。


 その願いすら、誰にも届かなかった。

 

 だから、もういい。

 私は目を閉じた。


 その直前。


 ホールの隅で、一人の使用人がこちらへ踏み出そうとしているのが見えた。


 黒髪の、地味な、見慣れない青年。

 この国の者にしては少し変わった顔立ちをしている。

 高位貴族でも、騎士でも、魔術師でもない。


 ただの使用人。

 私が気まぐれに拾った、名もろくに知らない男。


 たしか、リヨンと呼ばれていた。


 彼は震えていた。

 顔色も悪かった。

 足だって、今にも竦みそうだった。


 それなのに、彼は私を見ていた。


 罪を見ているのではなく。

 力を見ているのでもなく。

 恐ろしい怪物を見ているのでもなく。


 私の涙を見ていた。

 その視線が、なぜか少しだけ痛かった。


 やめて。

 そんな目で見ないで。

 今さら、私を見つけないで。

 そう思った。


 けれど同時に、ほんの少しだけ、思ってしまった。


 どうして。

 どうして、あなたなの。


 十年隣にいた人ではなく。

 私のために用意された婚約者でもなく。

 私の努力を知っているはずの人々でもなく。


 どうして、たまたま出会っただけの、名前も覚えていないような使用人だけが、そんな目で私を見るの。

 そう思った瞬間、黒い靄がすべてを呑み込んだ。


 物も。

 人も。

 光も。

 祈りも。

 私の嗚咽さえも。


 全部、黒に沈んでいく。


 最後に残ったのは、朝まで咲いていた小さな花の記憶だけだった。


 言葉にできないほどの愛情。

 誰にも届かなかった、私の花。


 もし、次があるのなら。

 そんなものは、もういらない。

 もう誰にも期待しない。

 もう誰にも、私を見てほしいなんて思わない。


 そう決めたはずなのに。


 暗闇の底で、なぜかあの使用人の視線だけが、いつまでも消えなかった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 最終的に従者君に救われるお嬢様の全ての始まりか いっそ従者君と結ばれた後に従者君以外にもこれまでの恐怖の記憶を思い出させて国を乗っ取ろう
[良い点] 自分もこのラスボスお嬢様好きです! 続編?過去編?が見れて嬉しいです! こういう悪役令嬢押し付けられ展開の中でずっと忠誠を誓ってくれるやつが現れちゃったら、それはもう(恋にもラスボスにも…
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