弐-11 e9e4d4_少年
ふぅ、と一息つき、やけに上手く脱柵できたな…。と自分の運の良さを褒める。勤務体制がホワイトすぎて、夜しっかり寝られる生活だったので、いきなり夜通し歩いたのは流石にきつかった。ふっと意識が遠のきかける。危ない危ない。
白目をむきながら汚れた服とヘルメットを便器の陰にそっと隠す。
「ヘルメットの神様ごめんなさい…。」
「ごめんなさい…。」
こんな公衆の場所に軍のマークの入ったヘルメットを置くなんてどうかしてると思ったが、背に腹は代えられない。
ん…?ボクは確か『ヘルメットの神様ごめんなさい…。』と一言呟いたはずだ。しかし耳にはごめんなさいが2回届いたような気がする。慌てて個室を飛び出し、声の聞こえた右隣の個室の鍵を確認する。色は赤、だれか中にいる。耳を澄ます。
「ごめんなさい…ごめんなさい……。許して…。」
蚊の鳴くような声の謝罪とすすり泣きが聞こえる。このまま立ち去れば顔も見られない。万が一軍の関係者だった場合まずいことになる。
ボクの中で天使と悪魔が闘う。
「おい、さっさと他の場所に移動しようぜ!こんなところで失敗したら今日の努力が台無しだぜ!」
「後で飛行機に乗るんだから結局合うかもしれないだろ?こんなにしくしく泣いているのにほっとけるのか?」
「あああぁあ~!!黙らっしゃい!」
「ひっ…すいません…。」
しまった…。脳内の二人に向かって言おうと思ったのだがついうっかり発声してしまった。こうなってしまってはもう天使の言うことを聞くしかない。
「あ、あの~すいません、今のは、違うんです。」
「……す゛い゛ま゛せ゛ん゛…ぐすっ……ずびっ、じゅるっ…。」
「……あの、すいません。もう音も聞こえませんし、出てきても、だい、大丈夫だと思いますよ?」
「……。」
むしろ放っといて下さいと言われた方が今すぐこの場から逃げられるのでいいのではないだろうか?どんどんどんとドアを叩く。
「あの~もう大丈夫ですよ~?出てきてくださ~い。」
「……。」
「ボク、もう行きますよ?」
「……。」
勝った。沈黙は肯定、すなわちボクは立ち去ると宣言し、この人はそれに同意したとみなせる。そそくさと退散しようとしたその時、ボクの後ろでドアがかちゃりと開く音がした。
「あ、あの~。」
ボクはコソ泥のようなステップを踏んでいたが、動画の一時停止ボタンを押されたかと思う程、ぴったりと歩みを止めた。歯車で動く人形のようにぎぎぎと首を回し、後ろを見る。大粒の涙を流し、ぶるぶると怯えていたのはボクよりいくらか若い少年だった。
「すっ、すみません。えと、その、さっきのは、ちがくてですね。」
「あぅ…。ごめんなさい…ごめんなさい…。」
めそめそ泣いていてこちらの話はてんで聞いていない。少年に歩み寄ると、びくっと肩を震わせ、半歩下がる。こちらに敵意はないということを示すように両手を上げ、静かに語りかける。
「たぶん、コンタギオンはもう倒されましたよ。もう大丈夫です、行きましょう。」
「あの、俺を追ってきたんですよね…?」
「は…?」
一瞬まだボクが軍の任務をしているのかと思った。否、ボクは今、脱走者である。
「えっ、その、俺が、持ち込み禁止のものを持ち込んだから…。」
「追われているって、もしかして、キミが持ち込んだものから発生したのか!?」
「ごめんなさい…。ごめんなさい……。でも、あの、軍の方じゃないんですか?」
ばれたか?いや、制服は置いてきたし、なに一つボクが軍の人間であるということを証明するものはないはずだが…。
違う。ボクは今、脱柵してきたという状況だから、軍の人間を証明するものはないはずだとびびったんだ。そして、この少年も自分のせいでコンタギオンが発生したという状況だから、ボクが隊員として追いかけてきたと思ったのだ。
「ボクは、軍とはなにも関係ないよ。でも、やってしまったことはしょうがない、謝りに行こう。」
「やっぱり行かなきゃだめですかね…。」
自分は逃げているくせに、謝りに行こうだなんて、酷い話だ。ボクはこの男の子に謝りに行かせることで、ボクの罪の意識を軽くしようとしているんだ。
少年は諦めた様子で肩を落とし、歩き始める。後ろについて歩きながら、なんて残酷なことを言ってしまったんだと後悔する。
もしかしたら、ものすごく悪質な少年かもしれない。その場合、ボクの罪意識は少し晴れるだろうという浅はかな考えが頭をよぎる。探りを入れることにした。
「それで、一体どんなものを持ち込んだんだ?」
ボクがそう尋ねると、少年は立ち止まり、まためそめそと泣き始めた。
「うっ…ひぐっ…蚕……。」
「カイコ!?」
この化学繊維全盛の時代に、天然の繊維を生み出す生命体が生きていたとは。しかも蚕は野生の環境では生き抜くことができないはずだ。
「それって、すごく貴重なものだよな。」
「そうなんです。うぐっ…田舎のおばあちゃんに…ひぐっ…もう一度シルクの服を着せてあげたかったんです…。天然繊維は…ぐすっ…うっ…肌に合わないって……。それで…それで、居住区Ⅰにはまだ蚕を育てているところがあるって聞いて…。」
「そうだったのか。」
おそらく蚕は飛行機搭乗前の消毒に耐えられない。基本的に生体は徹底的な消毒作業が行われるが、アルコールなんぞぶっかけたら蚕は一瞬でダメになるだろう。だから黙って持ち込んだが、病原体もひっ付けてきたというわけか。
というかこの蚕は正規ルートで入手したものなんだろうか。ウイルスに感染してたということは普通の養蚕所ではなく、研究所のようなところから入手したものではないだろうか。そもそもそんな普通ではなさそうな蚕で、しかも少年が隠して空港に持ち込める程度と考えると、そこまで個体数も多くないだろうから、おばあさんの服が1着出来るのだろうか。
しかし、あのコンタギオンはもともと人間に悪さをする病原体ではないということだ。恐らく蚕に特異的に感染する病原体で、蚕自体の数が多くないし外にはいないから、普段の戦闘では見たことのない形状をしていたということか。病原体のサイズのときは人間に害はなくても、コンタギオンになってしまえば、その大きさと凶暴さ、そして食欲が害となるのだ。




