壱-1 7cfc00_希望
扉を開けると、ボクの目には白と黒の美しいコントラストが飛び込んできた。
頭の頂上で雑にまとめられているものの、手入れの行き届いた艶やかで不自然なほどに黒い髪。吸血鬼なら迷わずかぶりきたくなる真っ白な首筋。草花があしらわれた真っ黒のレースから覗くのは二つの白くふっくらとやわらかそうな丘。
ふっくらとやわらかそうな丘…?
「いやん」
少しおどけたその一言を聞いてボクは我に返った。目の前の女性は下着しか身に付けていないではないか。
「しししし失礼しましたァ!!!!」
勢いよく扉を閉め、ドアの上部に貼り付けられたプレートを見て部屋の番号を確かめる。確かに818号室だ。たった今この瞬間からここは女子更衣室になったのか?ボクの配属先はどこに行ったのだ?
などと考えていると818号室のドアはもう一度内側から開かれ、中から先ほどと同じ声がした。
「ごめんごめん、そういえば今日新人さんが来るって話だったね。キミ、A隊の新人でしょ、さぁ入って。」
促されてボクは部屋に入った。軍の居室とは思えない散らかりようだ。四角いローテーブルと二人掛けのソファーには大量の書類が山積みになっている。床には先ほど脱いだのであろうスエットが落ちている。状況把握に精一杯でドアの前で立ち尽くしていると
「あ~適当なとこに座ってくれていいよ、この辺の書類は割とどうでもいいから。」
「こらルキ、それは今日の入隊式で読むんだろ。」
突然左の方から男の声がしてボクは驚き、振り向いた。そこには180センチ、いや185センチはあるだろう高身長の、軍服を着た男が立っていた。手にはトーストが乗った皿を持っている。そういえば最初にドアを開けたときからいいにおいがしていた。
「ごめんね新人くん、とりあえず荷物置こうか。」
「ハ…ハイ…。」
ボクはあっけにとられて気の抜けた返事をした。細身で髪や軍服が一寸の狂いもなく整ったその男は手の皿をローテーブルに置き、ボクに向けてこっちに来るよう手で合図をした。
床に散らかった服や電気のコードを踏まないように男の後をついていく。部屋の奥には左右にドアがあり、右の部屋に案内された。
がちゃり、と男がドアを開けると、今度こそボクが思い描いていた軍の居室のような部屋にたどり着いた。きっちりシーツが敷かれたベッド、事務机がひとつ、上着を入れるような縦長のロッカーがひとつ。これ以外にはなにもない。
「この部屋は自由に使っていいからね、とにかく荷物置いて、キミ、朝ごはん食べた?」
「エッ、ハッ、ありがとうございます!あさご…朝食は済ませました!」
「そうか~じゃあ早速説明するね。」
男はそう言ってボクの荷物を半ば強引におろし、先ほどの部屋に戻ったかと思うと書類を手に戻ってきた。
「まず…キミは、苗字はなんと読むんだろう…」
「ハッ、アイと読みます!」
「アイというのか、珍しい名前だね。では饗ミズチ君で合っているかな?」
「ハイッ!」
そう言って男は書類のページをめくる。ふむ…と小さな声を出しながら書類を眺めていると、ボクが怪訝そうな顔で男を見ているのに気づき、
「あ、ごめん、自己紹介がまだだったね。ボクはサトイというんだ、よろしくね。あっちの女の子がオキルキ。」
「オ…?」
「オキルキという名前だよ。オキが苗字、熾烈な争いとかの熾一文字でオキと読むんだ。」
と、部屋の住民について説明をした。
オキルキの方がよっぽど珍しい名前ではないだろうか。オキ…熾…どこかで聞いたことがあるような…気のせいか、と考えながらボクはハイ!と返事をしかけたのだが、制止されてしまった。
「アイくん、そんなにかしこまらなくてもいいよ。ここはフレンドリーな部隊だからね。」
「ハッ…ハイ…。」
そんなことを言われても初対面の大男にフレンドリーになれる人間の方が少ないのではないだろうか。ところで他の隊員はどこにいるのだろう、ボクの配属されたAクラス大隊
に付属の小隊は別の部屋にいるのだろうか。分からないことばかりだ。戸惑いに暮れていると手前の部屋からオキさんの声がした。
「ちーちゃん!服どこに置いたの!」
その声を聞いたサトイさんは胸元のポケットから懐中時計を取り出し、
「もう時間だ。とりあえず僕らは入隊式に行くから。詳しい説明は式の後でね。」
と言い、部屋を後にした。オキさんはサトイさんのことをちーちゃんと呼ぶのか。確かにフレンドリーな間柄だ。しかしここは脅威と闘う軍隊なのにあんな感じでいいのだろうか。
ボクも居室を出たが、ふたりはどうやら他の部屋にいるらしく、先ほどの部屋にはいなかった。とにかく今は入隊式のことを考えよう。なんせボクはAクラス大隊を代表して入隊宣誓を読み上げる役に抜擢されたのだ。
遡ること20年ほど前、とある肺炎を引き起こすウイルスが世界中に蔓延した。そのころはウイルスを含めた病原体は人間の目には見えない大きさだった。しかし肺炎ウイルスと人類の闘いの中で、ウイルスは自らの躯体を大きくするという手段に乗り出した。もう少し正確に言うと、突然変異体として現れた少し大きなウイルスが生き残り、さらにその子供となるウイルスの中で大きなウイルスが生き残り、これを繰り返すうちにどんどん大きくなっていったのである。
次第に躯体を大きくする手段は様々な病原体に広まり、ボクが物心ついたころには菌やウイルスは巨大なものであるという認識が一般的だった。
巨大な病原体の中でもウイルスはその複製の為にヒトを丸ごと使用する。数十年前の小さなウイルスは人間の中でもごく一部の細胞を悪用して自己を複製していたらしいが、今のウイルスはそうはいかない。
ウイルスは人に噛みつくなりなんなりして、自分の遺伝情報を人間に注入する。そして人間は形を変え、ウイルスとなる。つまり吸血鬼のようなものだ。ウイルスに喰われた人間はウイルスになるのだ。
ウイルスから身を守るため、人間は居住区を作って集まり、その外側に対策を施した。ウイルスの巨大化が始まってから3~4年は消毒薬などで対応していたらしいが、とうとう人間の大きさを超えるウイルスが現れた頃には一般的な消毒薬は効かなくなっていた。
人類滅亡説なども囁かれていたが、どこかの誰かがウイルスが大きくなるのなら、ヒトに備わっているウイルスをやっつけるシステム、すなわち免疫も大きくすることが可能ではないか、と提唱した。すると一気に研究が加速し、我々人類は巨大化した病原体を撃退するための、免疫を応用した方法を開発したのだ。
巨大化したウイルスはコンタギオンと名付けられ、それを討伐する軍隊が敷かれた。その軍隊、LEUKにボクは今日入隊するのだ。
LEUKは厳しい学術試験と身体検査をクリアした者だけが入隊できる。そのLEUKに入っただけでなく、入隊式で宣誓するほど優秀な成績だったということが分かり、昨日は実家で盛大なお祝いをしてもらった。
ボクはLEUK本部のある居住区Ⅰ、昔で言う関東から一番遠い居住区Ⅵの出身だ。居住区Ⅵからはほとんど入隊する人はおらず、地元ではちょっとしたニュースになるほどだ。
朝一番の飛行機に載り、宣誓の文章をぶつぶつ呟きながら居住区Ⅰの中心地、LEUK本部までやってきた。とうとうボクの新生活が始まる――。