七十四話 ナイトメアクイーン
ベルゼーブ国境前駐屯地。
シトリーはルドガー達六名を駐留軍に引き渡しに来ていた。
「というわけなので……。この方達の身柄はそちらに預けて構いませんわね?」
「は! いや、しかし……」
笑顔のシトリーに怯えた様子を見せる兵士。
兵士はシトリーから信者達を制圧したのち、他のメンバーは魔神討伐に向かったと聞かされた。
教団の背後に魔神の存在があるという報告も事前に入っている。
信者も一応の被害者であり、情状酌量の余地があるというのも理解は出来た。
ただ、ここに居るゼラムル教団の信者達は不可思議な力で拘束されている。
信者達の目も虚ろ。目の前に居る女性の罠である可能性が否定出来なかったのだ。
「煮えきりませんわね~。何か問題でも? わたくし急いでいるんですのよ? 早く戻りませんと」
「こ、これは失礼しました! ゼラムル教団の者達はこちらで預からせて頂きます! 御協力ありがとうございます! どうかお気をつけて!」
可愛らしくむくれるシトリーに慌てて敬礼する兵士。
駐屯地にいる他の兵士も揃ってシトリーに対して敬礼する。
「それではよろしくお願い致しますわ~」
それを見たシトリーは微笑むと動力車に乗り込み、アクセル全開で走り去って行った。
兵士達は拘束の解かれた信者達を再拘束する事もなくその場に座り込む。
例え罠でも兵士達は従う他に手はなかった。
先程の大柄の男の連れなのは分かっている。
しかし国境の街からゼラムル教団の信者達を乗せ、猛スピードで駐屯地に向かって来た動力車。
あの女性は捕まって脅されたと思っていたのだ。
威嚇射撃も効果はなく、最悪は爆薬を積んだ自爆を狙っている恐れもあると判断した。
なので仕方なく射撃を開始したが、全て女性の周りから現れた黒い枝のような物で弾かれてしまう。
それを見て錯乱した兵士が、建物も吹き飛ばすような大口径の爆撃弾を飛ばしてしまった。
だが黒い枝が動力車をグルグルと覆い、それに直撃したにも関わらず全員無傷でここまで入られたのだ。
そしてこちらの攻撃を咎める事もなく笑顔で先程の説明に入った女性。
どう考えてもあの女性が魔神だと考えたのである。
「怖かった……」
信者の一人、ルドガーは震えながらそう呟いた。
先程の兵士、駐屯軍の指揮官は怯えて居たのが自分達だけじゃない事に少し安心する。
「とりあえず我々は休戦だ……。支給品に酒も入っていた。お互い疲れたろう? そちらの言い分も聞きたいしな。一杯やりながらこれまでの経緯も合わせて話そうじゃないか」
司令官はルドガーに手を差し伸べた。
もはや警戒しても仕方ないという結論。
命懸けで争った相手。だがもはや争う必要がないのなら……
歩み寄れるのならば……、それに越したことはないのだ。
誰も争いなど望んでいないのだから。
ーーーーーーーーーー
「はぁ……はぁ……、クソ! あの小娘がぁ……。なんで私が人間なんぞにぃ!」
沸き上がる怒りを抑え、街の中にある建物の影に潜み座り込むウェパル。
肩口から腰に掛けて身体の左半分が吹き飛び、残っている腕、足、顔の一部も抉れたようになくなっている。
完全に油断していた。
神器も持たない人間に追い詰められるなど、ウェパルは考えても見なかったのだ。
この状態でもウェパルは瀕死というわけではない。
だがここまで肉体が損傷しては復元に時間が掛かる。
動きも制限されるので、もう一度先程の攻撃を食らえば危ういかもしれなかった。
安全策を講じての撤退である。
「復元が終わったら真っ先に食い殺してやる……。もう油断なんかしないわ……。痛覚を遮断して……、ショック死も出来ず……、ゆっくりと食われる恐怖を味わわせてあげるわぁ……」
恍惚とした表情で心情を吐露するウェパル。
その時、通りを歩く人影が目についた。
表通りを堂々と歩くドレス姿の女。
ウェパルは怒りと悔しさが吹き飛ぶ程の衝撃を覚え唖然とした。
その姿を一目見て、一瞬で心を奪われたのだ。
「……なんて……美しいの……。ふふ……ふふふ……、あはははは!」
口が裂けるのではないかというほどの笑みを浮かべるウェパル。
目映いばかりの美しさ、目を疑うほどの美女が目の前に居る。
怒り狂っていた感情は消え失せ、一つの感情で支配された。
あれを自分の身体にすると。
もはやウェパルの思考にイリスの存在はない。すぐさまその女の元に駆け出そうとした。
「どなた様ですの?」
突然ウェパルの背後から声が掛かる。
ウェパルがゆっくりと振り向くと、そこにはたった今表通りを歩いていた女、シトリーが立っていた。
女から意識を離したのは立ち上がろうとしたほんの一瞬、幻覚でも見ているかのように現れたシトリー。
身体の至るところが千切れているウェパルを見ても驚く事もなく、シトリーは呑気に語り掛ける。
ウェパルはすぐに後悔した。
こんな格好の人間がこんな所に居るわけがないのだ。
何を置いても真っ先に逃げるべきだった。
ウェパル程の魔神が目の当たりにするまで、気づかなかった事こそが異常とも言える。
シトリーが人間ではない事を、ウェパルはすぐに看破したのだ。
恐ろしい程の魔力を持ち、おそらくはヴァンパイアかサキュバスと考察する。
どちらにせよ、その根源が魔力で出来ている上位魔神なのは変わらない。
ならば身体を乗っ取るなど不可能だった。
サキュバスならばハジュンに並ぶ程の上位夢魔。
ヴァンパイアなら、ウェパルがかつて仕えていたヴァンパイアクイーンを越える存在だと認識する。
アドラメレクやハジュンが用意した援軍であれば良いと、ウェパルは切に願っていた。
「あ、貴女……何者? ゼラムル教団の魔神かしら? それとも……」
「申し遅れましたわ。わたくしの名はシトリー。ゼラムル教団の方々とは敵対関係になりますわね」
探りを入れたウェパルに緊張感もなく笑顔で答えるシトリー。
疑いの目も向けず素直に答えるシトリーに疑念を抱くウェパル。
だがそれよりも、ウェパルの耳には聞き捨てならない名前が残る。
「シトリー? では貴女がアーセルムに現れたという魔神……」
「はい、そうですわ」
ウェパルはシトリーの返事で思わず口を緩ませた。
五百年前、シトリーと言う名の魔神の配下であったウェパル。
シトリーに拐われた餌の一つであった彼女は生きるため、シトリーのご機嫌を伺いながら毎日を生き延びていた。
その無様で醜い姿を気に入ったシトリーからヴァンパイアシードを貰い、魔神と化した経緯を持つ。
三百年前に姿を消した後、最近になってアーセルムに現れたというシトリー。
しかしウェパルはシトリーの生存を信じていなかった。
「あは、あはははは! やっぱり違うわ! 姿形じゃない。魔力の質も……。多分性質さえ違う。ましてあの女が人に知られずに存在できる訳がないもの!」
顔を押え大きな声で笑うウェパル。
ウェパルの主人は隠れて人を襲うなど出来る女ではない。
我慢などしない。出来ない。
感情のまま堂々と人を襲い、拐い、殺し、食らう。
そんな欲望の権化が三百年も人目に触れず、大人しくして居られるわけがないのだ。
「あの女? 誰のことですの?」
「私の元ご主人様の事よ。三百年程前までベルフコールの廃城に住み、人を食い荒らしていたヴァンパイア、シトリー様。貴女……その時に入れ代わっていたのでしょう? 何故シトリー様の名前を語っているの?」
このシトリーに質問を投げ返しつつ、ウェパルは逃走の隙を狙っていた。
噂のシトリーがあの恐ろしい女でないと分かって少し安心してしまったが、この窮地を脱しなければならない事に変わりはなかった。
シトリーは少し考え答えを返す。
「ベルフコールの城に居た女性がわたくしをそう呼んだのですが……。ではあの方……、御自分の名前をわたくしに付けてくださったのかしら?」
シトリーの言葉をウェパルは即座に理解した。
おそらくは先程の自分と同じ、あまりの美貌にとち狂って乗っ取ろうとしたのだろう。
だが問題はそこではなかった。
「その女は……、シトリー様はどうしたの?」
「殺しましたわ」
緊張を高めるウェパルに、声色も変えずあっさりと答えるシトリー。
仮にもヴァンパイアシードの完成型の一つとまで言われた女。
真祖に近しいその力は、上位魔神と化した今のウェパルですら及ばないだろう。
木属性のノーライフキング。
バラバラにしたって死にはしない。灰からでも再生出来るその力は、現在の魔神の長とも言えるアドラメレクでもってしても、手間取ると言わしめた程だ。
それを殺せるとなれば、やはりウェパルが敵う相手ではない。
ウェパルは目の前の女が噂のアソルテ館の魔神だろうと推測した。
教団の魔神が何度か勧誘に行ったが、全て追い返されていると聞いている。
三体居る魔神はどれもそれなりに名の知れた魔神の名を名乗っていた。
大物の名を語る事で、虚勢を張る程度の魔神など気にも止めていなかったのだ。
「思い出しましたわ。貴女よくお城に遊びに来ていた方ですわよね?」
唐突にポンっと両手を合わせるシトリー。
ウェパルはその言葉の意味を把握出来ずにいた。
確かに魔神になってからも、ウェパルは先代主人の所に通っていた記憶がある。
だがこんな女が居たなら、いくらなんでも気付かない訳がないと首を傾げた。
「え、ええ……。シトリー様のお城にはよく行っていたけど……。貴女の姿は見なかったと思うけど……」
「いえいえ、よくわたくしに話し掛けてくださいましたわよね?」
ウェパルの返答を勘違いとは認めないシトリー。
何を言っているのか、話し掛けるとは何なのか。
そもそも見なかったと言っているのにと、ウェパルの心に言い様のない不安が込み上げてくる。
「『あの女は最低最悪の悪魔だ。あんなのに愛でられるより、私の所に来て欲しいわ……』いつもわたくしにそのように語り掛けてくれましたわよね?」
シトリーのひたすら柔らかな声に、ウェパルの表情が凍り付く。
確かに言った記憶は存在した。しかし誰かに聞かせた事などなかったのだ。
ウェパルがその言葉を掛けたのは、生物ですらない。
「待って……よ……。なん……で……動いてるの? どうして……喋ってるの? だって……『あれ』は……」
ウェパルは震える声のまま後ずさり、その場から逃げ出した。
脇目も振らずにただただ駆けた。
圧倒的恐怖の中、動くはずがなく、喋るはずもない。まして魔神に変貌するはずのない存在を思い出しながら……
「起きてくださいまし。まだお話しが終わってませんわよ?」
シトリーの声を聞き、ウェパルの顔が絶望に染まる。
ウェパルは確かに逃げたはずだった。その足で駆け出し表通りに出たはずだ。
なのに何故自分は女の前でしゃがみ込んでいるのか、思考が全く追い付いて来なかった。
「なんで……、どうやって先回りを……」
「いいえ、わたくしは動いておりませんわ。貴女がここに歩いて来たんですわよ」
怯えるウェパルにそう言い微笑むシトリー。
初めから……そう、初めから夢を見せられていた。
表通りでシトリーを見たその瞬間から、ウェパルはすでに捕まっていたのだ。
恐怖に支配される感覚。ウェパルにはもう抵抗する気力は残っていない。
「助けて……。なんでも……、なんでもします……。わ、私は貴女の……、シトリー様の下僕です……」
ガチガチと震えながら懇願するウェパル。
恥もプライドも、もはや彼女の精神を支える事は不可能。
奇しくも同じ名を持つ魔神に、ウェパルは五百年前と同じセリフを吐く。
「助けて……ですか……。確か貴女もベルフコールの民に酷いことをなさっていましたよね?」
口調は優しいまま、されど責めるように説くシトリー。
当時自分で獲物を捕らえられなかったウェパルは、かつての主から餌を分けて貰っていた。
牙を突き立て血を啜るなど、あの時のウェパルには考えられなかったのだ。
だから生皮を剥ぎ、泣き叫ぶ者達の肌に滲んだ血を舐め取っていた。
「あ、あれは仕方なく……。私だって食事を取らなくちゃ死んでしまうわ! 貴女だって同じでしょう!」
潔白すら主張するように、必死に懇願するウェパル。
シトリーはしゃがんでウェパルの頬に手を添えた。
「わたくしは人間を食したりしませんわ。人間はわたくしに楽しさや喜びを教えて下さる素敵な存在ですのよ。それに……あの時の貴女の楽しそうな顔……。とても仕方ないという感じではありませんでしたよ?」
シトリーはウェパルの耳元に顔を近付け、囁くように話を続ける。
その穏やかな口調はいつまでも変わらずに。
「わたくし、貴女の楽しそうなお顔がとても羨ましくて……。同じ気持ちになりたいんですの……」
そう言うとシトリーはウェパルの首筋を一舐めした。
ピリピリとした感覚に身を震わせるウェパル。
「うっ……」
「わたくし、小さな傷くらいなら表面を覆って治療する事が出来ますの」
ウェパルから身体を離し、優しげに頬笑み掛けるシトリー。
高揚しながら聞いていたがウェパルだったが、首筋に傷を負った記憶がなかった。
「溶かして傷付ける事も……、広げる事も出来るんですのよ」
シトリーの言葉にぞくりと悪寒が走るウェパル。
舐められた場所が徐々に熱くなっていく。
そこから皮膚がめくり上がり始め、激痛がウェパルの精神を支配する。
「あぁぁぁぁぁ!! 痛い! 痛ぃぃぃ! そんな!? 私に痛みなんて!」
痛みに代わる感覚はある。だが行動を抑制するほどの痛覚など……
ウェパルの身体には不要であり存在しないはずだった。
「貴女の五感に働き掛けて痛覚を作成してみましたわ。どうですか? 楽しいですか?」
変わらず優しげに頬笑むシトリー。
もはやそれこそが、ウェパルに残酷なまでの恐怖を与えていた。
「そんな!? たす、助け……て……」
激痛に悶え助けを乞うウェパル。
そこでシトリーの表情から初めて笑顔が消えた。
寒気がするほど冷たい視線がウェパルに向けられている。
「ところで貴女……。何故イリスちゃんの血の匂いがするんですの? 量から察するに致命傷ではなさそうですが……。わたくし……、お友達を傷つけられて黙っていられる程温厚ではありませんの」
感情の読み取れないシトリーの声。
それは抑揚なく響き、絶望の色を孕んでいた。
メチメチと音を立て、ウェパルの首筋から全身の皮がめくり上がっていく。
恐怖と痛みにウェパルは地面を転がり回る。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!?! 助けて! 許してぇぇ!!」
脱皮したかのように服も髪も皮膚に巻き込まれ、ベチャリと転がる皮の塊。
更にシトリーの瘴気がウェパルを包み込む。
「でしたら痛覚のみを残し、貴女の全魔力を肉体修復に誘導して差し上げますわね……」
「うわ! ああ……あぁぁぁぁ!?」
更なる悪夢を知らせるシトリーが指先をクルリと回す。
すると叫ぶウェパルの姿が更に変質した。
黒い筋肉質の大きな異形の腕がウェパルの右半身から生えてくる。
大量の魔力を使って身体を変異させるこの力はウェパル自身のもの。
しかし、魔力も精神力も衰え出した今の状態では自殺行為でしかない。
それを無理矢理行使させられているのだ。
身体中から斑点のように皮膚も生成され始めた。
身動ぎすら出来ず、横倒れになり痙攣するウェパル。
シトリーは修復される皮膚をも触手で丹念に抉り取っていく。
「う、あ、あ……ぐ…………」
酷い痙攣と共に大きく跳ねるウェパルは、声を上げる力さえ無くしてきていた。
自分達が人間に行ったように、じわじわと存在維持の元である魔力を削ぎ落とされていくのだ。
移ろい消える意識の中、ウェパルは元主人である魔神もこうして殺されたのだろうと悟っていた。
「やはりわたくしには分かりませんわ。これの何処が楽しいのでしょう……」
つまらなそうに呟くシトリー。
この状況にあってその表情は冷酷な程に穏やかである。
そうして倒れていたウェパルを囲むように細い木の枝が現れた。
ウェパルはその枝に絡め取られて身体を起こされる。
周囲の枝は徐々に、樹木と呼べる程肥大していった。
「もう……ころ……し……て……、おね……が…………」
魔神としてなまじ強化された生命力と精神力が、ウェパルの存在を簡単には終わらせなかった。
激痛、苦痛、恐怖、絶望。ウェパルは今までしがみついていた生への渇望をついに投げ出し、死を望んだ。
その最後の懇願を聞き終えるまでもなく、樹木がウェパルに襲い掛かる。
ブチュリ、ブチュリと生物を磨り潰す音が延々と空に響く。
樹木はウェパルを中心に、互いを締め上げるように絡まり合い……
ウェパルの身体をすり鉢のように押し潰した。
やがて魔力と精神力が枯渇し、肉体が崩壊して樹木と共に塵になるウェパル。
「さて……、余計な手間を取らされましたわ。ラグナート達の所に急ぎませんと」
それを尻目にシトリーは教会に向かい歩き出した。
まるで花を摘んだ後のように、再び穏やかな笑顔を湛えながら。




