五十三話 悪夢の記憶
小さな家。幼い自分。質素な食卓。
壁にはおびただしい数の虫。もはや気にもならない。
目の前には母親が座っている。
父は居なかった。僕が物心付く前に亡くなったらしい。
国としては裕福だったようだが、ウチは近所の中では底辺だった。
毎日濁った水を飲み、出来合いの食事を買ってくる。
その日暮らし。それでも幸せだと思った。
食べる物はあるし虐待されているわけでもない。
そうだ。そんなわけはない。この空腹も、生傷も、僕にとって必要な事なんだろう。
そんな事より僕は毎日耳に入る世間話が嫌いだった。
国がトカゲと人間をくっ付ける事に成功したとか……
何処かの国を滅ぼして国民を奴隷にしたとか……
母親や周りの人々は笑いながら僕に話して来る。
何が楽しいのか、嬉しいのか、僕にはそれが分からなかった。
昨日歩いて居た人が川に浮かんでいても、道で虫に集られていても、皆それを気にしない。
身体が震えて、恐くて仕方がないのは僕がおかしいのだろうか……
まだ生きている自分は、本当に幸せなんだと実感するしかない。
大人になったら分かるのだろうか……
自分もこんな大人になれるのだろうか……
僕の家に国が進める実験の申請書というのが届いた。
特別な何かを身体に押し当てる簡単なお仕事らしい。
それが上手くいけば大金を貰えるようだ。
狂ったような笑顔を作った母はしきりに僕に進めてくる。
僕は怖くて怖くて、泣きじゃくりながら嫌がった。
上手く成果が出ないとかで、次第にこの実験は義務化されていく。
母も受ける事になり、とうとう僕も一緒に連れて行かれた。
恐怖は現実として僕の視界に転がり込む。
目の前で泣き叫びながら暴れ出し、やがて動かなくなる母……
この実験が成功すれば凄い力が手に入るのだと……
母の死体を見つめる僕に大人達は語り掛けている。
妙な名前の付いた小さく白い炎は、安心するような優しげな輝きを放っていた。
消えることなく浮かんでいるそれを身体に押し当てるのだと言う。
目の前の白い炎は明らかに何かを語り掛けていた。
その事に気付いている人は誰も居ない。
体内に入れる物ではないと僕は感じていた。
僕はその小さな炎に耳を傾け、語り返してみる。
すると見えるものも聞こえるものも、感覚全てが変わっていくのが分かった。
成長して大人になった自分の視点が分かる。老人になった自分の気持ちが脳裏を過った。
一瞬で駆け巡る数多の軌跡が、僕にあらゆる答えを教えてくれようとしている。
全てを見通し求める物が手に入る予感。でもそれは、希望と言うには程遠い。
僕はあらゆる物を欲し、死を拒絶する気持ちが沸き上がってくる。
そのためならば他のどのような犠牲を払っても良い。
そんな感情が恐怖と一緒に僕の中で暴れ始めていたのだ。
その炎は語り掛けてくる。
何がしたいか……、何が知りたいか……
これに手を伸ばせば僕の浅ましい願いは全て叶う気がする……
何でも出来る力を持った自分を想像した。
好きな時に好きな事をしてどんな犠牲も気にしない。
きっと自分はこの大人達と同じ……
いや、もっと酷い事を平然と行う人間になる。
だから、『僕はそれに手を伸ばさなかった』。
そんな人間になりたくなかった。何もいらない。
ただ怖かった。変わるのが怖かった。こんな場所にも居たくない。
急に真っ暗になった視界の中を、僕はただただ走り続けた。
まぶたに光が射し込み、僕はいつの間にか眠っていたのだと気付く。
目を開けると自分と同じ年頃の少女が僕の顔を覗き込んでいた。
見たこともない穏やかで綺麗な景色が辺りに広がっている。
空は清み渡り、空気がとても美味しい。
「貴方どこから来たの? 森に入っちゃダメよ。今森から魔物が沢山出て来て危険なんだって!」
少女の言葉を聞いて、自分がどこで眠って居たのかと見回した。
背後に広がっているのはどこまでも広がる木々……。深い森の前で寝ていたようだ。
「わかんない……」
僕は正直に答えた。どこから来たのか。今まで居た所が思い出せない。
思い出したく……なかった……
震える僕を見た少女は、泣き腫らしていたかのような真っ赤な目を擦った。
「迷子なの? ともかくカリオペの町に行きましょう。私の名前はイリス。イリス・メインシュガーよ。貴方のお名前は?」
泣き顔を隠して笑顔を作る少女に返す言葉が見つからない。
名前を呼ばれるという事は、自分に向けて理解出来ない恐い話を聞かせられるという事だ。
いつしかその単語は恐怖と同じ意味になっていた。
その怖さから、自分の名前を中々思い出せない。
僕は眠る前に聞いた言葉を思い出し、強く残っていた単語を呟いた。
「フレ……ム……アソルテ?」
「フレムね! 貴方迷子ならウチにいらっしゃい! 私がお、お友達になってあげるわ!」
僕の言葉にとても偉そうにふんぞり返るイリス。
友達が居なかったのだろうか……
友達という単語をとても嬉しそうに強調した。
その嬉しそうな笑顔が眩しくて……
心地良くて……。何故か嬉しくて安心した。
何かを望むのはとても恐い……
家族も、友達も、明日には消えてしまうかもしれないのに……
それでも……、その笑顔だけは見ていたい。
僕はその贅沢な願いを心にしまい込み……
その手を取って立ち上がった。
ーーーーーーーーーー
魔神館の自室。机に突っ伏していた俺は目を覚ました。
最悪な目覚めである。今更子供の頃の夢を見ていたのだ……
微かに覚えてるのはいつも下を向いている自分と、不気味な程何も考えず、貪欲なくらい正直な住民達。
思い出したくもないが、本当にあの国はどこだったのだろう?
いつ死ぬとも知れないので覚える気もなかった。
しかしあれからたかが十数年……、相も変わらず恐ろしい国なのだろうな。
「フレム! フレム! これ……」
物思いに耽っていたところ、マトイがオルゴールを抱えて俺の部屋に飛び込んで来た。
そうだった。マトイが宝物と称した壊れたオルゴールがいつまでも円卓の間に飾ってあったので、暇だったから修理する事にしたのだ。
ほとんどの部品が使い物にならなく、大部分は差し替えとなったが上手く再現出来たと思う。
この二ヶ月チマチマやってたのだが、そろそろ終わりかけていたので徹夜して仕上げたのだった。
それをこっそりマトイの部屋の入口に置き、部屋に戻った俺は達成感と疲れでベッドにも入らず寝てしまったのだ。
あの悪夢はそのせいだろう。
「おお、上手く直せたと思うけど気に入らなかったか?」
「ううん、ううん、ありがとう!」
俺の自信作にマトイは泣きながら喜んでくれている。
オルゴールにしてはやけに軽快な曲だが、その場でマトイはネジを巻き、何度も何度も繰り返し聴いていた。
中に入ってた宝石もピッカピカに磨いておいたので開いた時の見栄えも良い。
暇人の力をなめちゃいけないぞ。
気になっていたのだが、マトイはこの小竜状態が通常形態らしい。
大きな竜や人間形態は状況に適応するための異現魔法らしいのだ。
核となる小竜マトイが各形態の内部に納まり、操作するというイメージで良いらしい。
そう考えるとなんかとてつもなくカッコ良いな。
能力こそ低くもないのに親に見放されたのはこれが理由のようだ。
ちっちゃいドラゴン可愛いのにな……
自室から出て円卓の間に入ると、何やら部屋は物々しい空気に包まれていた。
ザガン、シトリー、アガレスの三名が睨み合っているのだ。
アガレスなんてフルメタル仕様でやる気満々である。
三名の瘴気が混じり合い、部屋は死の空間に変わりつつあった。
「何あれ?」
「ん? ああ、しょうもない話なんだがな……」
俺はソファーに座っているラグナートに問い掛けた。
空笑いを浮かべるラグナートによると、何でもチノレの一番可愛い部位は何処かで揉めているようだ。
ザガンは目、シトリーはお腹、アガレスは腰。
かなり前にも同じ件で揉めて解決しなかった事を思い出したらしい。
「まったく何をやってるんだが……。おまえもそう思うだろ?」
「ああ、まったくだな……。何を言ってるのか……」
ラグナートの呆れたような呟きに同意し、俺はザガン達の元に歩み寄る。
そして封印の剣クリムゾンシアーを抜き放った。
「チノレの一番可愛い部位は頬肉だ! 指先でプニッてすると幸せになれるぞ! 異論は認めん!」
「そーーじゃねぇだろぉぉぉぉ!」
俺の投下したのは第四の答え。
ラグナートの叫びは空しくこだまし、三名の瘴気にプラスして、クリムゾンシアーを起動した俺の赤い魔力が沸き上がった。
「ラ、ラグナートォ……、これ私でも止められないよ! 凄い魔力……」
「そ、そうだな。あの四人に暴れられたら俺達二人ががりでも厳しいかもな……」
慌てたようなマトイに賛同するラグナート。
ごちゃごちゃ言ってないでおまえらも投票に参加すれば良いのだ。俺は引く気はない。
さあ、急げ。放置は許されないぞ。屋敷がそろそろ吹き飛びそうなのだ。
「どうしたの~? お家揺れてるよ~」
騒ぎに気付いたのか、リノレが円卓の間にやって来た。
そして一触即発の俺達に近付いてくる。
これはチャンスだ。リノレの一票が勝敗を分けるぞ。
「おお、リノレよ! チノレの一番可愛いところはどこだと思う? 我は目だと思うのだ! 大きくて愛らしいだろう?」
「お腹ですわよね? フワフワで心地良いですわよね?」
「腰だ! あの丸みは見ているだけで和む!」
「頬肉だって言ってるだろうがー!」
状況を掴めていないであろうリノレに、ザガン、シトリー、アガレス、そして俺が次々と捲し立ててしまった。
話を聞いたリノレは小首を傾げて考え込む様子を見せる。
「うんとね……。全部好き!」
結局答えが出なかったリノレは極上の笑顔で言い切った。
輝く笑顔に浄化され、俺達四名の波動は一瞬で消え去る事となる。
「その通りだ……。我等はいったい何を……」
「恥ずかしいですわ……」
「無益だった……」
「そんな簡単な事に気づかなかったなんて……」
ザガンが項垂れ、シトリーは顔を押さえる。アガレスはフルメタルから自身を手放し、俺も膝を折って崩れ落ちた。
力なく項垂れる四名。一人の少女の奇跡の笑顔で、魔神館大乱闘の危機は去ったのだ。
「恐ろしい奴等だな……」
ラグナートは心の底から安堵したように呟いた。
ザガン達の破天荒さに怯えたのだろう。
こいつらは予想が付かない恐ろしい事を平気でやらかすからな。
俺まで巻き込んで、まったく困ったもんだぜ。
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さて、今日はなんとアーセルム城に招待されている。
アーセルム建国記念日にセリオスとエトワールの婚約が発表されるのだ。
暇な国民達もわんさか王都に詰めかけることだろう。
建国記念日なんて正直興味ないし、婚約発表だけなら行かなくても良いかなと思ったのだが、俺とイリスは是が非でも来るよう言われている。
ラグナートとアガレスは二人で散歩に出かけるようだ。
ザガン、シトリーはリノレのお勉強を見るそうだし、そうするとチノレも連れていけない。
式典の料理目当てだろうがマトイが俺達を連れて行ってくれるらしい。
大人しくしてられるのか心配なのだがな……
何でもマトイはフィルセリアが王政だった時代、レイルハーティア教団の代表者をやった事があるらしく、礼儀作法はバッチリだと自慢してきた。
とても信じられないが初めて会った時のような感じなのだろうか?
ともかく今回は俺とイリス、マトイの三名でお出掛けだ。
マトイの人間形態用のドレスをトランクに入れ、俺は正装をしてイリス待ちの状態である。
「フレム! 大丈夫!?」
どたどたと足音が響き、イリスが慌てたように円卓の間に入ってきた。
イリスの横には品のある装いをし、物騒なライフルケースを持つ男。
髭がダンディな中年男性、イリスパパも同伴している。
ザガンを見て少したじろいでいるが、それで済むから凄い。
「あら? これはこれはご無沙汰してますラウレル殿。して? 大丈夫とは?」
少しよそよそしくなったが俺は丁寧に挨拶をし、心配の理由を問い掛けた。
何事もなく、いつも通り魔神館は平和なのだ。
「だって森が……」
言いかけるイリスを制し、ラウレル卿が前に出て一礼する。
ここに訪問する奴でこんなに礼儀正しい人は始めてかもしれない。
「急な訪問、失礼致しました。私はイリスの父、ラウレル・メインシュガー。小さな貿易商を営んでおります。日頃娘がお世話になっているようで……。きちんと御挨拶に伺わねばと思って居たのですが……」
イリスパパの挨拶を恥ずかしそうに見つめるイリス。
こうも礼を尽くされるとなんだかこっちまで恥ずかしくなってくる。
心配の内容だが……
先程森から虫や小動物が大量に出て来たらしいのだ。
今から約十五年程前にも同じような事があったらしい。
その時は森から魔物まで出て来て対処に追われ、そのどさくさでイリスが迷子になったそう。
「あの時は生きた心地がしませんでした……。もし娘に何かあったらと思うと……」
ラウレル卿は目を閉じ大層悲痛に語っている。
一人娘が行方不明だったのだ。その心中は俺には計り知れないだろう。
「本当に帰って来てくれた時は心から安堵したものです……。たとえ、虫を拾って来たとしても……」
その悲壮感溢れるラウレル卿の話に聞き捨てならない単語が入る。
虫? それは俺のことかな? これは大変失礼しました。
あの後は孤児院紹介してくれたり仕事紹介してくれたりと何だかんだでお世話になりっぱなしだった。
お互い嫌味や小言は言い合うが、俺はこの人に感謝しているのだ。
「それはアレだな……。コイツらの喧嘩のせいだな。森全体に被害を及ぼすとは……困った奴等だよ」
「フレム。おまえもだからな?」
俺の華麗な責任転嫁をラグナートが阻止してきた。
やっぱり駄目か。出来れば聞き流してほしかったな。
「ちょっとフレム! その着方は何? 正装よ、だらしない! こっち来なさい!」
「ええ~、これじゃ駄目なの~?」
着方が分からなかったので適当に着たのだが、イリスにはお気に召さなかったようだ。
俺はイリスに引きずられ、円卓の間から連れ出されてしまった。
別にあいつらの前で着替えても良いのに、正装って面倒なんだな。
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フレムとイリスを見送り、ラウレルは閉じた扉をただ見つめていた。
疲れきったように、それでいて安堵を匂わせるようにまぶたを閉じるラウレル。
「……元気そうだな……」
ポツリと呟いたラウレルの肩から力が抜ける。
ラウレルはザガン達に向き直り、口を開き掛けて震える身体を押さえ込んだ。
「その獲物は我等には通じぬぞ? 汝の心配は要らぬ。警戒を解くが良い」
ザガンはラウレルの態度、その所作から全てを察していた。
決死の覚悟でこの場に来たこと。最悪は刺し違えるつもりで銃を用意してきた事を。
目を見開き驚きをあらわにしたラウレルは一呼吸置き、頭を深く下げた。
「これは御無礼を……。イリス、そしてフレムがお世話になりました。改めてお礼を申し上げます」
ザガンは先程のラウレルとは様子が少し違う事に気付く。
単なる社交辞令ではなく、心からの感情を示しているように見えたのだ。
「何、世話になってるのはこちらも同じだ。それにフレムに関してそなたは関係ないのではないのか?」
探るように問い掛けるザガン。
まるで息子が世話になったかのような態度を取るラウレルに疑問を持ったのだ。
「ははは、これは意地の悪い事を……。悪態は付いておりますが、これでも私はフレムを実の息子と思って接しております。こうして無事を確認出来た事……、皆様方には感謝しかありません」
ラウレルが言うには、イリスが連れ帰ったフレムはまるで死んでいるかのような目をしていたらしい。
話を聞くとフレムの両親はすでに他界し、自身も辛い目に合っていた様子が見て取れたようだ。
フレムはそれを何とも思わずただ流される事を良しとする。
そんな危うい子供をラウレルは引き取ろうとしたが、そこまでされるのをフレムは嫌がった。
自分は際限なく甘えてしまう。
だから突き放して欲しいと……
それは幼い子供から出るような言葉ではなかった。
自分に似て頑固な娘の初めて出来た友達。
そして年々いい加減でお調子者な本性を現してきたフレムの近くに居たお陰で、娘にも沢山の友達が出来た。
フレムには感謝しているし幸せになってもらいたい。
隙あらばいつでも養子に迎える準備を整え、十五年も待った先で例の魔神騒ぎ。
状況を知らないラウレルは心中穏やかではなかったと語った。
「フレムももう立派な大人……。道を誤るような者でもありますまい……。それでも……親としては心配なのです」
心痛を語り続けるラウレル。そこへ身だしなみを整えられたフレムがイリスと共に戻ってくる。
先程の悲痛な表情は消え、瞬間的に意地悪そうな顔付きになるラウレル。
「馬子にも衣装だな小僧。それなりには見えるぞ」
「それはどうも~。そちらもイカしたチョビヒゲですね、おっさん」
ラウレルの売り言葉にフレムの買い言葉。
ケースから躊躇いなくライフルを取り出したラウレルに対し、フレムも遠慮なく紅い剣を構えた。
「何でいつも顔会わせると喧嘩するのよ!」
二人の様子に呆れつつも、内心安らぎを覚えているイリス。
いつもの日常、お互い素直になれないだけなのをイリスは分かっていた。
アーセルム王都に向け、フレムとイリス、ラウレルの三名は巨大化したマトイの背に乗って飛び立つ。
超速で移動するマトイにすっかり慣れたフレム。親同伴で恥ずかしさのあまり顔を背けるイリス。
ただ一人、顔を歪めるラウレルのみが絶叫を上げている。
「おぉぉぉぉ! 死ぬぅぅぅ!」
「マトイ。ラウレル卿面白がってるからもうちょい速度上げようか」
「まっかせて~」
決死の覚悟が消え去ってから程なく、ラウレルはまたも死を覚悟していた。
空の散歩は快適と言わんばかりに怪しく微笑むフレムの要請を受け、マトイは更に速度を上げる。
ラウレルは文句を言う事さえ出来ず、声にならない叫びがアーセルムの空にこだまし続けていた。




