百四十七話 お酒ですの ちゅーへん
部屋に残っているのは俺とキャロル、ラグナートと鉢植えアガレス。
それから窓から入って来てクッキーを頬張り始めたマトイと、大量のクッキーを大きなスープ鍋から追加投入しているザガン。
俺はしばらく食事をするマトイを眺めていたが、先程聞いたキャロルの訓練を思い出したので、暇潰しに試してみようと考える。
この考えが全ての間違いの元だった……
せめてシトリーが帰ってくるのを待っていれば良かったのだ……
「さて、ではザガン。知恵を貸してくれ。キャロルの魔力放出を抑える方法を知りたい」
「難しいのではないか? 他者が知覚する魔力は言わば匂いのようなもの。我は漏れ出た魔力を体表に留め置く手法を取っているし、シトリーやアガレスも独自の能力を応用している。基本的には自分なりのやり方で隠す他にない」
さっそく俺は際限なくクッキーを山積みにしているザガンの知恵を頼った。
しかしザガン達の取っている方法はキャロルには難しいそうだ。
ザガンは大部分の魔力を他者の知覚範囲に届かぬようにしているようで、アガレスとシトリーも隠しているだけ。抑え込んでいるわけではない模様。
「それは困ったな……。そうだ! マトイとエトワールはどうやってんだろう?」
「お呼びですかお兄様?」
他に良い選択肢がある事を思い出した俺に、ふと背後からエトワールの声が掛かる。
キャロルの魔力制御訓練は、シトリーの部屋から山積みの本を持って出てきたエトワールに引き受けてもらう事にした。
確かエトワールは魔力制御が得意だったはずだしな。
「良いですかキャロル様。これを……こうです」
本を置いたエトワールがキャロルの目の前で魔力を解放して見せると、部屋中に凄まじい魔力が充満した。
モヤもなく、パッと見何も変わらないように見えるが、気が遠くなるような圧を感じる。
分かりやすく言えば、目を閉じると大量のザガンが行進しているような錯覚を覚えるのだ。
なんという圧迫感。以前は気付かなかったが、こんな膨大な魔力を持っていたのかこの子は……
だがエトワールは指導に全く向いてない。抽象的過ぎるどころか、説明にさえなっていないのだ。
俺の脳内のザガン集団が各々踊り始めたところでエトワールが魔力を閉じ、俺の脳内ザガンもその姿を消した。
「怖かった……。どうやってるのかさっぱり分からないが、とりあえず真似してみろキャロル」
「ぎゅぎゅぎゅ……ぎゅ!」
少々怯えた俺は、とりあえず見よう見まねで挑戦するようキャロルに促す。
何度もやられると俺の精神が壊れてしまうので、出来ればすぐに会得してもらいたいものである。
身を縮め気張るキャロルが魔力を解放すると、熱気が辺りに充満した。
駄目だなこれは。物理現象が発生しているじゃないか。蒸し暑くて死ねるぞ。
しかもいつまで経っても閉じられる気配がない。
「むぅ。おかしいですね。もう一度やってみますね」
「待てエトワール! 俺の心の準備を……」
困ったような面持ちで再度魔力を解き放つエトワール。
慌てる俺の脳内では、再び大量のザガンが宙を泳ぎながら迫ってきていた。
これはまずいな。目を閉じると周囲をザガンに囲まれているとか、本当に恐怖でしかない。
「やれやれだね……。エトワールは指導に向いてないよ。私がお手本を見せてあげる」
ようやくクッキーを食い終わったマトイがそう言い放ち、唐突に押し潰されるような魔力を解放した。
宙に浮かぶ小さな竜から放たれる威圧とも言える波動。
それはかつて対した破壊の竜、封印が解かれた直後のゼラムルに匹敵する程力強い。
「マ……トイ……。おまえ……いつの間にそんな力を……」
「ふふふ……。マトイちゃんは真なる竜に覚醒したのだよ! 魔力の開閉なんて簡単だよ。沸き上がる力の出所に蓋をして上げれば良いんだ。さあキャロル。お姉ちゃんに続いて力を抑え込む練習を……」
俺はあまりの事態に気圧され、恐れを抱かずにはいられなかった。
そっと目を閉じると、しなだれ掛かってくる大量のザガン。更に半狂乱で火を吹くゼラムルが加わって見えるのだ。
目を閉じなきゃ良いんだが、これが中々癖になる恐ろしさなのである。
調子に乗り切ったマトイはそのまま指導を続行しようとしたが、周囲を見渡し声を詰まらせた。
俺もそっと辺りを見回すと、平然としていたのは椅子に座って頬杖をつくラグナートだけ。
本物のザガンは倒れて潰れて瘴気が床に漏れ出し、鉢植えに入っていたアガレスはヘニャリと曲がり、まるで枯れかけのお花のよう。
「ぎゃ~~!? ザガンが溶けてる! アガレスが萎びてるぅ! キャロルも部屋の隅で丸まって怯えてるじゃないか!? 中止中止! エトワールにマトイ! 魔力を抑えろ!」
「かしこまりましたお兄様。お役に立てず無念です……。しょんぼり」
「ええ~。これからなのに……。まあ、キャロルは魔神や精霊の類いだからね。この方法だと身体が動かなくなっちゃうから無理かな?」
大慌てで叫び声を上げ、俺は中断を宣言した。
エトワールはしょんぼりと口に出して項垂れ、マトイも残念そうだ。
最高位天使様と上位竜族様が織り成す魔力のハーモニーは危険極まりない。
ともかくこのまま続けたところで、根本的な解決にはならなそうである。
「死ぬ……かと……思ったぞ……」
「人が寝てる間に何が起きた……。危うく折れるところだ……」
「ぎゅ~! ぎゅぎゅ~!」
溶けてたザガンは震えながらもその身を起こし、アガレスもしゃっきりと刀身を起こす。
人じゃないし、折れる気配もなかったのでアガレスは多分まだ寝ぼけている。
それより駆けて来たキャロルが必死に俺にしがみ付き、泣きながら怖かったとアピールするのが申し訳なくて仕方ない。
「おおよしよし。違う方法を考えような。さすがにこんな魔力を浴びての訓練は危険過ぎるし……」
「いや、むしろフレム。おまえさんなんで無事なんだよ?」
俺は震えて泣くキャロルを撫でながら、安易な訓練に踏み切った事を反省していた。
そんな俺に不思議そうにツッコミを放つラグナート。
そう思うなら止めてくれよ。頭おかしくなるかと思ったわ。
「ただいま帰りましたわぁ! あら蒸し暑いですわぁ」
「お帰りシトリー……。帰宅のタイミングわざと外したな? まあいいや。キャロル、特訓は中止だ。普通にして良いぞ」
帰って来たシトリーは小さなボトルを両手に二つずつ持って上機嫌。
一人限定と言ってたので、フロル達にも買わせたのだろうな。
俺は冷えた床に頬を付けながらキャロルに命じ、解放した魔力を通常状態に戻してもらった。
「何をやっていたのか察しは付きますが、マトイちゃんやエトワールちゃんの方式を取りますと、キャロルちゃんは魔石に戻るだけですわよ? 自活出来る状態での制御訓練を行いませんと……」
「え? それじゃ今の特訓意味ないじゃん。怖い思いしただけじゃん?」
「だから最初に……難しいと……」
しれっと伝えてくるシトリーの情報で、俺はすぐにザガンに視線を移した。
なんとか起き上がったザガンは初めから分かっていたようで、これは完全に勝手に話を進めた俺のせいという事になる。
「ですが、この方式は使えそうですわね……。そういえば、アッシュさんの剣が玄関に放置されてますわよ? それと、フロルちゃんからこれを預かって来ましたわ」
シトリーは開けた胸の谷間から紙切れを数枚取り出し、こちらに手渡してくる。
ほんのり温い。そこって物しまえるんだ、と大分驚きを伴う興奮を覚えてしまった。
端的に言えば、紙切れは椅子や机の製作依頼書だ。
イリス経由でちまちま仕事はしていたが、閉店したわけではないと広まったようである。面倒だが後で検討する事にしよう。
少し目を通した書類には念を押すように、『外観は普通で』と書かれているのが気になるがな。
久々の大口依頼。胸が踊るな……。椅子には張り切って角やドクロマークでも掘っておこうか。
入口に放置されている剣は後で良い。どうせぼろぼろなのだ。多少錆びたところで変わらないだろう。
「そんなことよりフレムフレム! エウテルペの町を視察に行きませんこと?」
「あっさり懐柔されないでくれませんこと!? 断るよ! さっきお願いしたじゃん!」
お酒をテーブルに置いたシトリーは両手をポンッと打ち鳴らし、あろうことか前言をあっさり撤回して領地視察を提案してきた。
俺はすぐにイリス達に説き伏せられたと確信し、先の言葉を盾に拒否の姿勢を示す。
「まずはわたくしの話を聞いてくださいまし。現在この名酒が品薄でして、出荷制限が掛かっているようですの……。製造が滞っているのか、なんらかの事件の匂いがしますわ……」
「見に行くくらい良いんじゃねぇのか? なんなら散歩がてら俺も付き合うぜ?」
「やけに乗り気だなおまえら……って……。あれ? テーブルに空き瓶なんて置いてあったっけ?」
弁論をかざすシトリーと、それを擁護し始めるラグナート。
俺はこいつらの話をキャロルを撫でながら背中越しに聞いていたが、ふと振り向くとテーブルに置いた酒瓶の内、二本の中身が一瞬で消えていたのだ。
この二人、この一瞬で一本ずつ空けたのか?
「名産が品薄の原因の一つに、統治していた貴族の問題が絡んでいるそうなんですの……。以前統治していた領主は先の人身売買に関与して処分されており、事実上統治者不在のままなのですわ。現領主として、ここはフレムの力の見せどころではありませんか? もちろん、わたくし達も助力しますわよ?」
「あ~、なるほど。う~ん……。やること山積みじゃないか……。とりあえず視察は前向きに考えとくから……。一先ずキャロルの魔力制御を優先して……」
重々しく真剣に語るシトリーの言葉には説得力がある。
以前の領主ってのは、リノレの故郷で行われていた人身売買に関与していた奴なのだろう。
その件なら俺にも関係はある。仮にも統治を任されてしまった以上、町の住民が生活に困っているのも見過ごせない。
目を閉じて考え、俺は渋々思案を検討すると口に出す。
テーブルに置かれたお酒はすでに四本とも中身が消えていた。
「我の分は……。せめて味見を……。匂いだけでは製法が分からん……。どうすればそのような蒸せ返る臭気を放てるのだ……」
「しゃ、しゃ~ねぇな……。今度は俺が行ってくるか」
「わたくし! わたくしが案内いたしますわ!」
可哀想なくらい項垂れるザガンを見て、さすがに申し訳なく思ったのか、ラグナートがお酒を買い足しに出掛けると言い出した。
その様子を見てシトリーは目を輝かせ、跳び跳ねながら同行を申し出る。
「酒に目が眩んでやがる……。どっちにしろ一つしか買えないんだから、今度こそ自重しろよ」
「ふっ、御安心ください。抜かりはありませんわ……。さっそく先程の魔力制御を試してみましょう」
暗に俺は買いに行かないと宣言しつつ、牽制を仕掛けるが……
シトリーは何かを企むように薄く笑って見せた。次の瞬間、シトリーの体が激しい瘴気に包まれる。
突然の事に驚く俺の前で、瘴気は緩やかに散った。そこで俺は更に驚愕する事になる。
払われた瘴気の中に居たシトリーの姿が変わっているのだ。
背が少し縮み、長いブロンドの髪はそのまま。
顔付きはやや幼くもやはり美しく、開けていた胸元は閉じて淑女のような慎ましい美少女が現れたのだ。
年齢は十七歳前後と言ったところであろうか。
相変わらずスタイルは抜群であるが、全体的にやや控え目になっている。
笑顔の似合う聡明そうな美少女。これはこれで大変素晴らしい。
「それでは、向かいましょうかラグナートさん?」
「お、おお……。意地でも自分の分は用意する気なんだな……」
シトリーは粛々とした佇まいで、怖じけるラグナートを連れて買い物に出かけていった。
まるでどこかの御令嬢とその護衛のように。
物腰や口調も控え目に変わったシトリー。これが演技でなかった場合、少し厄介な問題になりそうだ。
アーセルムでは二十歳未満の飲酒は禁じられているので、多分買えない気もするがな。
俺が呆れながらシトリー達を見送ると、無言のマトイが俺の肩を叩く。
そちらに目を向けるとおかしな物体が目に入った。
「ほう、これは面白いな……」
「くぴー。くぴー」
楽しそうに呟くのは変なぬいぐるみ。
目がバッテンで口はツギハギ。黒い布を纏った大層小さなドクロのぬいぐるみが動き、鉢植えの側には黒い棒が転がって高い音を出しているのだ。
「おい、まさか……。ザガンとアガレスなのか?」
「そうだ。出力を調整する事で形態変化が容易になるようだな。これは盲点であったわ……」
驚愕する俺に、ザガンは見た目も圧力も可愛らしく語る。
感じる魔力が極少したためか、シトリー同様全くの別魔神のようだ。
俺は恐る恐る転がっているアガレスとおぼしき黒い棒を拾い上げる。
魔剣をそのまま縮小し、布製の玩具に変えたような手触り。
振り回して見ると『くぴ、くぴ』っと可愛く音が鳴る。多分イビキだ。
「これ、失敗してない?」
「うむ。少々魔力を絞り過ぎたようだな。だが制御は容易い。まずキャロルにはこれを会得させ、派生として魔力隠蔽術を覚えさせるのが良いだろう……」
「でしょでしょ? 私はそれを伝えたかったんだよ~」
「さすがマトイ様ですね」
少々呆れた俺の言葉にザガンも同意し、やり方としては簡単だと言う。
嘘ぶくマトイを信じきったエトワールもなにやら嬉しそう。
そこでリノレを咥えたチノレが帰ってきた。目を細めてやや警戒の色が見えるチノレ。
おそらくさっきの波動を察し、一時的に帰宅を遅らせたのだろう。
「ちょうど良いね。リノレも一緒に特訓しようか?」
「とっくん? うん! とっくんする!」
「いや待て! まずはシトリーとラグナートの帰宅を待と……」
マトイはとても軽くリノレを誘い、きっと何も分かってないリノレも笑いながら応じる。
何がなんでも止めなければならないと感じ、俺は部屋の中心に踊り出ようとした。
が、それは間に合わなかった。
放たれるは圧倒的な魔力の奔流。
マトイとエトワールは先程より力を抑えているが、一瞬で元の姿に戻ったザガンと、やけくそ気味なキャロルから瘴気と熱気が吹き荒れた。
驚いた事にリノレまでもがザガン達に匹敵する魔力を纏い、辺りに力強い波動を発生させている。
魔力による精神汚染は少し慣れたがとても蒸し暑く、ほんのり空腹も感じるではないか。
「チノレ。久々に俺と二人でお散歩に行こうか?」
「にゃ~ん……」
呼応するように高まる五名の力。俺は側にいるチノレと顔を見合せ、一時的にこの屋敷から離れる事にした。
こういった時、一番理知的な二人が居ないと俺には逃げる事しか出来ないのだ。
ラグナートとシトリーを手早く迎えに行こう。そうしよう。
そうして俺は、握り込むとくぴくぴ音が鳴る玩具を手に、チノレと一緒に屋敷から逃げ出した。




