百四十五話 狂気を宿す魔本
俺と幼馴染み四名が輪を作る場に、ゆらりと立ち上がったラグナートが歩み寄って来た。
ラグナートとアッシュ達に面識はない。工業都市グロータスが戦場と化した先の戦争にて、顔くらいは見てるかも知れないが正式な顔合わせは初めてだろう。
俺は親と友達が対面したかのような謎の気恥ずかしさに襲われている。
「へぇ、フレムの友人か……。中々骨のありそうな連中だな」
「イリスから聞いてるぜ……。あんたが最近有名なラグナートさんだろ? すげぇ強いっつー噂だが……どれほどのもんか……」
堂々としたラグナートの態度に対抗するように、アッシュが笑みを浮かべてラグナートを威嚇し始めた。
アッシュが名を覚えるくらいだからな。相当なライバル心を燃やしているのが見て取れる。
ここに居る事さえ知っていれば、ラグナートが誰なのかはすぐに分かるだろう。
強そうなおっさんなど他に居ないからだ。
向かい合うラグナートとアッシュ。しかし均衡は瞬く間に崩れた。
威勢の良かったアッシュはすぐに目を逸らし、背中に担いだ大剣をそっと床に下ろしたのだ。
そしてアッシュはその大剣の横に震えながら仰向けで横たわってしまった。
驚くほどに無害を強調するつぶらな瞳をしたアッシュ。
アッシュの頭は深く物事を考える機能がないのだが、目に見えない相手の技量などを看破する事にかけては大変優れている。
つまり視線を交わしただけで、アッシュは完全敗北を認めたのだ。
「アッシュさんが服従のポーズを!」
「なんて綺麗な目なの!? アッシュくんの本能が一瞬で敗北を悟ったわ! このおじ様本物よ! あら、このおじ様どこかで……。いえ、良くみたらワイルドで素敵なおじ様……」
レオが滅多に見ないアッシュの姿に驚きを口にし、同じく驚いたようなフロルは頬に手を添えてラグナートをロックオン。
とろんとした目でラグナートを見つめるフロルは大層胡散臭い。
「惚れっぽい偽乳女め。本性隠してるからいつも逃げられるんだぞ?」
「やだぁもう、フレムくんったら。あ、体にゴミが付いてるゾ」
俺は飽き性のくせにすぐ目移りするフロル嬢に呆れた声を掛けてやった。
見事に盛られた不動のお胸を指摘されたフロルは、冗談混じりに優しく俺の顔に手を触れる。
と思ったらフロルは俺の顎と頭部を押さえ、引っこ抜きに掛かっていた。
「待って!? それ頭ぁ! 取れないから! 最重要パーツだから!」
慌てて俺は必要な部位だと強調する。フロルの片足ははしたなくも俺の胸部に食い込み、全力で殺りにきていた。
これはマズイ。この女本気だ。俺の叫びなど涼しい笑顔で聞き流している。
セリオスが居なくなった途端馬脚を現しやがった。
「フレムの友達ってまともなの居ないの?」
「僕はまともなつもりなんですが……」
椅子に座って頬杖をついている人間形態マトイの呟きに対し、すかさずレオはマトイの側まで逃げて己の立場を守りに入る。
自分だけ常識人アピールとはさすが世渡り上手な子だ。
三者三様のやり取りが行われる中、床に突っ伏して沈黙していたイリスがようやく起き上がる。
震えた体はうつむいた顔を起こし、その瞳には涙が溜まっていた。
「じどりーざぁぁぁん!」
「あらあらどうしましたのイリスちゃん?」
イリスは泣きながら両手を突き出し、弾けるようにシトリーの元に駆け出した。
それを見たシトリーは椅子から立ってイリスの顔を自らの胸に招き入れる。
「ケールブとイーロスがぁ! わたしぃ、銃がないと生きて行けません~! シトリーさんに頂いた指輪も反応しなくなってぇ! 今日やっと、森に入れたんですぅ!」
「あら、あらあらまあまあ! そうでしたのね~」
号泣のイリスはシトリーの胸に埋もれたまま自身の置かれた現状を説明した。
要約すると父親に銃を没収され、やはり冒険者活動も自粛させられているという事であろう。
屋敷には何度か足を運ぼうとしたようだが、結界を突破する魔道具が機能しなくて来られなかったようだ。
話を聞きながらシトリーは何やら弾むような声色でイリスの頭を撫でている。
「しかしまぁ、けしからんおっぱいよねあのお姉さん。どうやったらあんなになるのかしら?」
「おまえは偽乳だもんな」
親指の爪を噛んで愚痴るフロル。羨ましそうに怨念を込める視線を見て、俺は鼻で笑い飛ばしてやった。
いつまでもアホの子フロルとおバカなアッシュに時間を割いてなどいられない。
俺は力を抜いたフロルを振りほどき、セリオスの企みを聞き出そうと……
素直で良い子なレオに目を向けると、突如『ゴキリ』と愉快な音が聞こえた。
同時に俺の視界に映るレオとマトイが九十度回転し、世界は一瞬の内に暗転する。
「はっ! 生きてる!」
目を開けると見えたのは天井。いきなり場面が切り替わった事に驚き、俺はすぐさま飛び起きた。
頭に置かれた濡れタオルが飛び、自室のベッドで寝ていた事からどうやら気絶していたようだ。
起き上がった反動で首に痛みが走るが、犯人はフロルであろう。
「お目覚めですかお兄様。もう少し横になられていた方がよろしいかと」
「いてててて……。ああ、ありがとうエトワール。もう大丈夫だ。ちょっとはしゃぎ過ぎただけだよ。ごめんな、世話なんかさせちゃって……」
「いえ、こう見えて私も楽しいのですよ。お兄様は私とセリオス様の運命を変えてくださった方。そのお兄様のお世話をしたいとセリオス様にお願いしたのは私なのですから」
エトワールが心配そうにタオルの替えを持ってきてくれた。
手間を掛けさせた事にお礼と謝罪をする俺に、エトワールはほんの少し笑みを作って心情を語る。
なんて心優しい娘なのだろうか。セリオスと結託して俺をはめようとしているなどと、少しでも疑った己が恥ずかしい。
そうだな。腹黒いのはセリオス。警戒するのはあの王子だけで十分なのだ。
「運命なんて大袈裟だよ。俺は何もしてない。変わったのなら、それはエトワールとセリオスの思いの力だ。っと、それはそれとして、フロルに仕返しに行かなきゃな……。ありがとな。エトワールも他人行儀はやめて自分の家だと思って寛いでくれよ」
言いながら恥ずかしくなってきた俺はベッドから出ると、エトワールにお礼を言いつつ円卓の間に向かった。
移動中朗らかな笑顔から徐々に鬼の形相に表情を作り変え、勢いよく円卓の間の扉を開く。
「くおらぁフロル! やってくれたな! ごめんなさい! 謝るから機嫌直してください!」
「あ、良かった。気が付いたんですね……。久々にフレムさんとフロルさんの漫才見れましたけど、二人共容赦を忘れてますよね……」
土壇場でひよった俺は謝罪する事にしたが、対応してくれたのは椅子に座り呆れた笑顔を向けるレオ一人。
他の連中は俺の容態が大した事ないと分かると、それぞれ別行動に移ったようだ。
イリスとフロルはシトリーの部屋へ。ザガンとマトイは厨房へ行ったらしい。
アッシュはしばらく無害アピールをしていたようだが、どうもキャロルがアッシュの大剣を持ち上げて逃げたらしく、涙目で追い掛けていった模様。
追い駆けっこだと思ったのか、チノレとリノレもそれに続き、ラグナートが溜め息をつきながら保護者として付き添いに行ったとの事。
「不思議な動物ですよね……。あんなに小柄なのに凄い力持ちで……」
そう疑問を口にするレオであったが、その視線は部屋の隅に釘付けになっていた。
まるでキャロルの存在など些細な事と言わんばかり。
答え辛いので何も言う気はないが、鉢植えに刺さった漆黒の剣アガレスがどうしても気になっている様子だ。
「フレムさん。あれ魔剣ですよね? 計り知れない魔力を感じますが……、なんであんな凄そうな物が鉢植えに……」
「おやおや~? テーブルの上に本があるぞぉ? なんだこれは~?」
堪えかねて話を振ってきたレオ。俺は慌てて目を逸らし、ちょうどテーブルの上に置いてあった本に話題をすり替えた。
その本は表紙に『王子と男爵。愛の逃避行』と書かれていて、話を振った事を後悔するくらい大層危険な邪気を発していた。
「あ、ああ~……。それは……イリスさんが書いた絵本なんですが……。見ない方が良いですよ……」
「絵本? へえ……。イリスのやつ暇になって新たな趣味を見付けたの……か?」
上手く話は逸らせ、言い淀むレオは大変気まずそうにしている。
そういう言い方をされては興味が湧いてしまうのが人の性というものだ。
俺はさっそくその本を手に取り、期待に胸を膨らませてページを開いた。
それが地獄の扉を開く行為だと気付いた時には、何もかもが手遅れ。
まるで魔術にでも掛かったように、俺は妙な錯覚に取り込まれた。
ーーーーーーーーーー
俺は会議室とおぼしき部屋の壁に追いやられている。
上半身をはだけ、強引に迫ってくるセリオス。
セリオスの肘が俺を逃さぬように壁に付く。
俺とセリオス。二人の距離はゼロに等しかった。窓から差し込む光はまるで二人を祝福しているかのよう。
『ふ……。ようやく二人きりになれたなフレムよ』
『駄目だセリオス。こんなところ、誰かに見られたら……』
キラキラしたセリオスの目が向けられ、俺は頬を染めて顔を反らす。
なんとか逃れようとする俺だが、セリオスの熱い視線に阻まれ、逃げる事は叶わない。
セリオスの繊細な指が俺の顎に触れ、互いの唇が近付いていく。
『構わぬだろう? 見せ付けてやれば良いのだ……』
『セ、セリオス……。そんな……、だ、駄目……』
強引で男らしいセリオスを前に、俺は恥じらう素振りを見せつつも、次第に目を閉じてその勢いに身を委ねていく。
俺の蒸気した頬にセリオスの冷ややかな手が触れる。
そしてセリオスの唇が熱く、激しく俺の唇に添えられ……
セリオスが俺の襟締をほどき、その手が俺の胸元から……
「って、んじゃこりゃぁぁぁ!?」
てな感じの凶行が描かれた絵本に俺は思わず発狂した。
全身鳥肌が立つような悪寒が駆け巡っている。
人の名前と姿を似せた絵を使って何を描いてんだイリスは!
セリオスの目はやたらキラキラ輝いているし、俺なんか妙に可愛く描かれてないか!?
「なんかイリスさん、このところ暇過ぎたらしくてですね。部屋に籠って黙々と描いていたようで……。今綺麗なお姉さんとフロルさんを連れて……、出版の打ち合わせを……」
「売る気か!? 正気かよ!? こんなもん世に出されたら俺とセリオスは終わるぞ! というかイリスもただじゃ済まないだろ! 止めてくる!」
空笑いを浮かべたレオは俺と目さえ合わせてくれない。
すでにこの魔本の影響で気まずい空気が作り出されているが、今はこれ以上の暴挙を食い止める事の方が先決だ。
俺は魔本をテーブルに叩き付け、急ぎシトリーの部屋に向かった。
「イリス! 正気に戻って……く……れ……」
勢い良くシトリーの自室の扉を開いた俺はその場で固まってしまう。
女性陣三名の放つ異様なオーラに気圧されてしまったと言っていい。
「ふふふふふ。よく持ち込んでくれましたわ。イリスちゃん。これは売れますわよ……」
「イリス、シトリーさん。この小説の主人公フレムくんに変えてさ、旦那の方を殿下に変えて見ても面白いと思うの……」
愉悦顔で微笑むシトリーが震える程怖く、フロルは更なる脅威を振り撒こうとしていた。
俺は一歩も動けない。ここに踏み込んではいけなかったのだ。
ここは悪魔の巣だ。こいつらは悪魔で間違いない。
「それ良いわね……。今なら最高の絵を描けそうよ……」
「フロルちゃんも中々目の付け所が良いですわね」
「「くふふふふふ……」」
取り憑かれたように負の波動を放つイリス。新たな同士の誕生を喜ぶシトリー。
三名の魔女達の低い笑い声が部屋に響き渡っている。
「やだ、何この人達怖い! と、とにかく正気に戻れ! こんな事をして……」
「あら? モデルが来たわよ……。ようこそフレムくん……」
「フレム……。少しの間協力してくれない? 大丈夫よ。全裸で恥じらうだけで良いから……」
俺はありったけの勇気を振り絞り彼女達を止めようとした……
だがそれは悪手だった。濁った目を向けてきたフロルに萎縮し、イリスの頼みに背筋が凍る。
「それならわたくしにお任せを……。要望通りのポージングを作り上げますわ……」
「え? なに? 待って……。ねえ待って! やめて……、近付かないでぇ!」
瘴気をうっすらと纏ったシトリーが俺ににじり寄る。
すでに俺は尻餅を付き、両手で震える体を押さえ、怯えは最高潮に達していた。
逃げなきゃ……。逃げなきゃ確実に剥かれる!
「お待ちください!」
「エ、エトワール! 助かった! こいつら俺とセリオスを……」
声を上げたのは救世主エトワール。その手には先程俺がテーブルに置いた魔本が握られていた。
この異常事態に駆け付けて下さったのである。
すぐに俺は神々しく横に立つ救いの女神に助けを求めた。
「お兄様がお相手なら……。セリオス様はむしろ『受け』かと! 展開の再編成を熱望します!」
訳の分からない事を言い放つエトワール。その瞳は一片の曇りなく澄み切っている。
駄目だ。こいつらもう駄目だ……
「なるほど! さすがエトワール様!」
「その手がありましたわね!」
「エトワール様って天才だったのね!」
シトリーもイリスも、当然フロルもその案に賛同し、新たな魔本が作成される事が確定してしまう。
もうどうする事も出来ない。俺は床を這いながら、こっそりとその場を後にするしかなかった。




