プロローグ
グロールは周囲を山に囲まれた、堅牢な城塞都市だ。
長らく平和だったため城塞都市としての機能はのこしてはいるが、務める兵士たちの錬度は低い。
街の産業は鉱山で取れる鉱物と、富を手にした者の避暑地、別荘地としての観光名所として知られている。
春には菜の花の黄色で人々の目を楽しませ、夏には小さな湖の湖畔で凉を求め、秋は燃える紅葉に心を打たれ、冬は雪に閉ざされ静寂を与えてくれる。
四季折々の風景は人々の心に郷愁をもたらし、一度訪れればどこか懐かしい気持ちにさせられ、二度目に訪れれば帰郷したような心地よさをもたらす。
別荘地は街を囲う城壁の外側に連なって建てられている。自然の景観に配慮された控えめな色使いの木造や石造りの建物。お屋敷のような大きなものから小屋のような小さなものまで様々な様相は見る者の心を引き付ける。
土地はグロールの領主から高額な許可証を貰わないと借用が認められていないので、そこに別荘を建てられること自体が富裕層である証となっている。
城壁の内側は大きく分けて西側の商業区域と東側の炭坑に近い工業区域の二つに分かれている。休日には工業区域は閑散とするが、商業区域の本通りに人がごった返し活気にあふれた商人の掛け声や、大道芸の歓声が心地よい喧騒を織りなす。その賑わいは山間の田舎街だからと言って馬鹿には出来ない。
大抵の者は利便性を求めて西側の商業区画寄りの壁外に別荘を建てるので、それ以外の場所に建築された別荘は景観を楽しむために利便性を捨てたか、何か特別な思い入れでも無ければ建てようとも考えないだろう。
現在のグロールの季節は落葉樹が紅葉の鮮やかさを地に落とし、腐葉土に霜が降り始めた深い秋。城壁や別荘地から少し離れて、この街へ訪れた観光客はほとんど近づきもしない壁外の南側にひっそりと建つ屋敷が一軒あった。
そして屋敷は良い方に表現すれば趣深い渋みと厳かなたたずまい。悪い方に言えば好んで近づきたくはない薄暗さといかにも年季が入ったうらぶれた屋敷だ。錆混じりの鉄柵扉をくぐり、手入れだけはされている庭を進むと全景が見える。
何度も修繕をした後が見られる白い石造りの外壁。かつて新築した当初は鮮であったろう苔むした青色の屋根瓦。
屋敷の脇にはこの地域特有の風習で家の跡継ぎが生まれた際に植える記念樹が二本。一本は屋敷の屋根まで届きそうな立派な木と、もう一本は周りの草より少し背伸びをしている細い木だ。
家の持主は壮年の男性でベルガ―という。
この街の領主として君臨している貴族だ。長い癖のある白髪交じりの黒髪をポニーテールで結い、ラウンド髭は綺麗に整えられている。鋭い眼つきは一族特有の淡い紫色の瞳を包み、年相応の皺が彼の人生経験を物語っているようだった。
身なりは清潔に整えられ、黒いチェスターコートがガーネットレッドのベストの強い主張を隠している。胸元には代々受け継がれた頭首としての証である深紅の宝石があしらわれたペンダントが密かに輝く。
ベルガーはお気に入りのジョッパーブーツを履き屋敷の周囲の森を幼い愛娘のルミナと手を繋いで歩いていた。
夏ならば優しく木漏れ日が射しこむ森林浴に適した場所だが、冬の訪れを前にした森は色彩を落とし寂しい風が木々の間を吹き抜けるだけだ。
娘のルミナと二人で過ごすのに最適な環境がそこにはあった。街中の喧騒もここにはなくベルガーの眉間の皺を深くするような報告を上げる側仕えもいない。
静寂の中で彼にとっては何物にも変えがたい至福の時間だった。街の行政を一手に担う激務のなかで、ルミナと二人きりで過ごせるのは朝食後の僅かな時間しかつくれない。
ルミナには誰よりも家族の温もりを与えたいとベルガーは願っていた――。
彼はその思いを、その七日後に起きた事件で亡くなる最期の時まで強く持ち続けた。