兄3
「翔──おまえは、俺がどんなに望んでも決して行けない世界に行くんだ。そうだろ? 俺と比べて、今が楽しいだけの選択なんかするんじゃない。翔よりも三年分とちょっと、兄ちゃんの方が世の中のことを知ってる」
いいか、と下から瞳を覗き込まれ、翔はそっぽを向くわけにもいかない。
「まっとうな道を外れた連中は、一見、自由で楽しそうだけどな。彼らは、社会に有用なものはなにも生まない。おまえは、みんながあこがれる舞台で、たくさんのひとに夢を与える仕事に就くんだ。はなから、住む世界がちがうんだよ」
「ちがう! 兄ちゃんは何にも分かってない。知りもしないでてきとーなこと言うな」
「何がちがうんだ、翔?」
「うるさい。兄ちゃんなんかに言っても分かんない。俺より世の中のことを知ってるっていうけど、俺がはなしをしたひとたちの方がずっと大人で、いろんな経験してんだから」
「パパとママと俺くらい、おまえのことを応援して、心配してる人間なんていやしない!」
「心配してるのは、俺がプロになれるかどうかだろ。プロになれたとして、その先は? 兄ちゃんにはどうせ、想像もつかないんだ」
黙り込んだ兄の手が、ぽとりと落ちる。
「今日と昨日、いつもみたいにクラブの練習に行ってたら出会えなかったひとに、たくさん出会った。知らなかったこともおしえてもらった。プロになったって、それで何もかも手に入るわけじゃないんだよ。手に入ったものも無くしちゃうんだって。それでも失わずにすむものって、兄ちゃん知ってる? 俺におしえられる? 分からないなら、説教なんてすんな。どっか行け!」
しん、と下りた静寂の向こうから、翔くーん、と呼ぶ声が聞こえてきた。
「これ、ぎんなんかしら? どこで拾って来たの? ごはん食べに下りてらっしゃい」
「……どっか行けって、ここ、兄ちゃんの部屋だっけ。俺が出ていかなきゃ」
紙コップに載せた梨を落とさないように注意しながら、翔はドアノブを回した。
背中に、翔、と小さな声がかかる。
「兄ちゃんには、おまえにサッカーのことでおしえてあげられることはないよ。でも、チームの人間関係とか、友だちのこととか、女の子のこと。他のことなら何だって相談にのる。ママやパパに言えないことでも。俺は、いつだって翔の味方だ。──忘れないでくれ」
翔はこく、とうなずいた。
翔のために、コーチからの電話に口裏を合わせてくれたことも、母親に叱られないよう、ぜんぶ内緒にしてくれたことも、分かっている。
でも、翔はもう、今までのように兄のことばは正しいと、頭から信じることはできない。
きっと、コーチたちに関してもそうだろう。
翔は今まで、サッカーの世界では、プロになればすべてが約束されるのだとおもっていた。
登って行った先に転落が待つだなんて、考えもしなかった。
誰も、そんなことはおしえてくれなかったからだ。
今までまわりにいた人間は、翔に、プロになることが成功なのだとおしえた。
その先を語ってくれたのは、司であり、オジジであり、健太である。
そして、気づかせてくれたのは猿渡だ。
彼との対戦がなければ、翔は今日もクラブで、コーチに言われたとおりの練習をしていただろう。
五十センチずれただけのパスをミスだとおもうことなんて、一生ないままに。
鬼ノ山リーグには、翔の知らなかったサッカーがある。
学ぶべきひとたちがいる。
──あそこでやってるのはサッカーじゃない。あれは、フットボールだ。
ふと、健太のことばが、耳によみがえる。
「兄ちゃん……あとで、辞書貸して」
「っ!!!」
まるで、生まれたばかりの赤ん坊がラーメン食べたいな、と言ったのを聞いた、くらいのおどろき方に翔はくちびるをとがらせた。
たしかに、生まれてこの方、一度も口にしたことがないことばではあったかもしれないが。
「そうだ。ついでに、物理ってどういうこと勉強するのかも、おしえてくれる?」
兄は、それ以降、翔の外泊や練習のサボりについて意見することは、一切なかった。
ツカサという名の友人も、ベンツの主も、弟を悪の道に引き入れる以前に、『辞書』や『物理』という単語をインプットしてくれる存在なのだと、認識を改めたらしい。
おかげで、練習をサボった件が両親の知るところとなることもなかった。
とりあえず、その日のうちに、兄の口からは──




