兄1
ただいま、と家のドアを開けた翔の元に、二階から兄の真一が階段を駆け降りてくる。
「翔、お、おおっ、おま……!」
てっきり、おかえりと言うのかとおもえば、練習着の襟首を掴み上げられた。
もっとも、兄の身長は翔よりも三センチほど低く、一七〇センチに届かないため、迫力はない。
「おまえな。外泊して、クラブの練習……サボって、あげくに、黒塗りベンツの助手席に乗って帰ってくるって……なんなんだ! 兄ちゃん、心臓が止まるかとおもったぞ!」
サボって、のあたりから急に兄の声は小さくなった。
どうやら、居間にいるはずの両親には聞こえないよう、気をつかったらしい。
が、なんなんだ、からまた声のトーンが上がったので、母親のいぶかしげな声が飛んでくる。
「翔くん、帰ったの? おかえりなさい。ごはん食べるでしょう?」
「ちょっと来い、翔!」
はーい、と返事する間もなく、翔はこわい顔をした兄にぐいっと腕を引かれた。
両腕には新聞包みを抱えているし、左手には卵入りの紙コップ、梨蓋つきを持っている。
「ちょっ、引っぱったら落ちる。卵が割れたらどーする気?」
二階へと翔を連れ去る兄の耳には、翔の苦情は届かなかったようだ。
こん、こん、と何かが階段を落ちていく音がする。
例の、ぎんなん、とかいう実だろうと翔はおもった。
兄の部屋に連れ込まれた翔は、ぐるっとあたりを見まわした。
壁には、ヴェミリオンのユニフォームがハンガーに飾られている。
レプリカではなく、翔が中学生だったころに試合で着ていた、背番号8だ。
トップチームのユニフォームのデザインが変われば、当然、下部組織であるU-15やU-18のユニフォームも変わるため、それはもう使われることのない一型古いタイプのものだった。
翔の散らかった部屋では丸まって放置されるのがオチなので、この手のものは大抵が兄の管理下にある。
翔よりもよほどヴェミリオンのファンである兄の部屋は、カーテンもチームカラーの朱色だった。
窓は、家の前の道路に面している。
きっとここから、翔が健太の車から降りてくるのを見ていたにちがいない。
「あの車って、ベンツだったんだ? なんか、高いやつだよね? そう言ってくれたら、もうちょっとましなリアクションしたのにな」
「翔──おまえ、こんな時間までどこ行ってた? あの車に乗ってたのは誰だ。兄ちゃん怒ったりしないから、正直に言いなさい」
「もう怒ってるじゃん、その顔」
翔が指をさすと、一歩、兄の顔が迫った。
「おっ、怒るに決まってるだろ! かわいい弟が、や、や、やくざのような人間と、うかうかつき合ってるだなんて! パパとママが知ったら卒倒するからな、ぜったい!」