ライバル7
車を出してしばらくしてから、健太は思い出したように答えてくれる。
「二十代のころはな、結婚してたんだよ。けど、不況のあおりで、二十八でクビになって、そっからぜーんぶ無くしちまった。夢も、仕事も、家庭も、……サッカーもな」
しずかな横顔を、街灯が映し出しては流れていく。
いくら見つめても、涙が頬を濡らすことはなかった。
大人の男は泣かないものなのだと、翔は思い知らされる。
ギアをにぎった健太の腕に触れると、ちら、と視線が翔を見た。
「情けねーツラ。そんなんじゃプロになれねーぞ。高校まで負け知らずでも、プロになったらホント、負けてばっかりだからな」
正面を向いたまま、健太が自嘲的に笑う。
「おかげで、負けまくるのにも慣れっこだ。トライアウトの不合格に引退、嫁との別居。指導者になろうとおもったら、コーチ修行先の学校には、不祥事絡みで引責辞任させられるし。で、とどめの離婚だ。実家に帰って家業の手伝いしてるくらい、仕事も金もなーんにもねーけど。それでも人生捨てないぐらいには、頑丈になっちまった」
とん、と健太はハンドルを叩く。
「今や、この車が俺の、全財産。プロ時代の、唯一の名残だ。今も、1部の強豪でバリバリレギュラーやってる元チームメートに譲ってもらったやつで、新品のときは一〇〇〇万くらいしたんだぜ。まあ、もう十年近く乗ってるから、売ったところでタダ同然だけどな」
翔は、座っているシートや運転席の計器類に目をやった。
が、これっぽっちも車に興味のない翔には羨望のしどころが分からない。
「車だけじゃないよ」
翔のつぶやきに、ん?と問いが返る。
「なんにもないって言うけど、健太さんは自分のパスとか知識に自信があるから、俺に鍛えてやるって言うんだ」
暗い車内で、翔は健太の横顔に訴えた。
「今は、プロでもコーチでもないかもしれないけど。まわりをおしえたり、育てたりできて。尊敬もされてて。あそこでは、そんな自分に居場所があるってこと──ちゃんと分かってるから、いっぱい無くしても自信を失わないでいられるんでしょ? この車があるからじゃないよ、きっと」
翔のことばに、健太はちょっと笑った。
「そういう意味では、怜司のおかげもあるな」
エッ、と翔はおもわず声を上げてしまう。
「いろいろ無くしはしても、結果的には、あのやろうの現状と大差ねーんだよ。どっちがマシかと比べるのもアホらしいくらい、お互いなーんにも持ってねーけど。それでも、あいつは俺に向かってくるとき、今まさに夢の中ってなツラをしてやがる。だから俺も、みじめな現実なんかどっかにふっ飛ばして、あいつとの勝負に没頭できるんだ」
なんだ、いいライバル関係なんじゃん、と翔はおもった。
「ガキどもに上からおしえを垂れるのも悪かねーけど。本気で叩き潰したいとおもえるのは、今はあいつしかいねーからな」
「な、なんで? 叩き潰すことないじゃん」
健太の横顔から、すうっと笑みが引いた。
「あいつが──俺が無くしたものをいまだに持ってやがるから、だ」
「無くしたもの?」
「サッカー」
翔はおもわず、健太を凝視する。
何かの冗談を言っている顔ではない。
「意味が分かんねーなら、辞書ひいてみろ」
そのことばも、何かの謎かけにしか聞こえなかった。
しつこく見つめつづけた翔に、もうひとつだけ、健太はヒントを投げてくれる。
「俺たちがあそこでやってるのはサッカーじゃない。あれは、フットボールだ」