オジジ1
つぎの日の放課後。
翔は、いつものように廊下を駆け抜け、駅へと急いだ。
肩にかけたスポーツバッグの中では、司の母親が中身を詰めて持たせてくれた弁当箱がカタコトと音を立てている。
それ以外の荷物は、ほとんど前日とおなじ状態のまま納まっていた。
練習着もスパイクも、ストッキングや脛当ても。
翔は、くだりの電車に乗り込み、いつものように乗換駅で下車した。
そこから特急に乗り換えて、クラブの練習場に向かう──
もちろん、そのつもりだった。
ところが、気づいたとき、翔はなぜか例のローカル線の方に乗り込んでしまっていて、次の駅で停車するまで五分以上も問答無用で列車に揺られる羽目になる。
さらに、そこで飛び降りて引き返そうにも、一時間に一本の列車がすぐにやって来るとはかぎらない。
どう足掻こうと、練習に大幅に遅刻してしまうことは確定だ。
しかも悪いことに、クラブへ連絡を入れようにも、昼休みの時点で携帯電話の電池が切れてしまっていた。
ふだんは一晩ぐらい充電を忘れたところで電池がなくなることはないのに。
もしかしたら夢で、注射器を手にした追跡者たちから助けを求めるべく警察や父親に電話をかけまくったからだろうか、と翔はおもった。
そういえば目覚めたとき、開いた携帯電話を手にしていたような、いなかったような。
ともかく、無断で遅刻して叱られるのも、無断で練習を休んで叱られるのも、おなじ一回だ。
それなら、勇との約束を守るためにも、偉そうに言うからには猿渡は当然身につけているのだろう駆け引きとやらを学ぶためにも、亀村に行ってサッカーをしたいとおもう。
本当は、翔には分かっていた。
深層心理では、自分はあの畦道をぴょこん、と飛び越えながらのサッカーを一度体験してみたくて仕方がないのだ、と。
クラブでの練習メニューにも、ジャンプしてからダッシュをする、というものがあるが、あの練習を生かすには、どう考えてもあそこでプレーするより他にないではないか、とおもう。
翔が亀駅に着いたとき、まだ太陽は西の空からまぶしい日差しを放っていた。
昨日はすでに日が暮れていて気づかなかったが、あたりに広がる田んぼは、黄緑色の区画もあれば、稲を実らせた区画もある。
ラベンダー色に見える区画もあって、近づいてみると一面、白やピンク、赤紫のコスモスが咲き誇っていた。
春、夏、秋、冬、いつ行っても、黄緑色しか目に飛び込んでこない練習場で季節を感じることはあまりない。
ふと気づけば、虫の声もすぐそばから聞こえてくる。
翔は、歩く足を止め、畦道にしゃがみ込んでみた。
土の匂いが、あたりに満ちていることにもすぐに気がつく。
翔は今まで、世界でもっともすばらしい場所は屋根で客席が覆われた巨大なスタジアムだとおもっていた。
ふつうの中高生とちがって天然芝のピッチにも慣れっこだが、スタジアムに入れば一気にテンションが上がる。
けれど、なにひとつサッカーのためではない、ただの田舎の景色にわくわくしている自分に、翔は自分でおどろいた。
スタジアムがいつもようこそと語りかけてくれる場所なら、田園風景はまるでおかえりと言ってくれている、そんな気がする。
どちらも、ずっとここにいたい、なぜかそんな想いが湧き上がってくる空間だった。
亀村中学は、校門こそわずかに開いていたが、敷地内はひっそりと静まり返っていた。
ただ、あの芝のグラウンドはどこにも行かず、そこにある。
校舎の脇には、無造作にサッカーボールが入ったカゴまで置かれていた。
田舎だから、誰かに持って行かれる心配もないのだろうか。
翔は、スニーカーのままボールをひとつ手に、グラウンドの中に入った。
断りを入れようにも誰もいないので、無断だが致し方ない。
芝とボールがそろえば、リフティングを始めないサッカー少年など居やしないのだ。
ましてや、グラウンドの隅にはゴールポストまである。