臨時コーチ3
背中に背負っていたボールを袋から出して放ると、小さいスニーカーでとん、とボールを踏みつける。
それから、勇は翔のズボンをつん、と引いた。
「おにいちゃん、見ててね」
目を見て言い置くなり、ぱっ、と駆け出す。
小学一年生らしく、歩くとも走るともつかないくらいのスピードではあったが、小刻みに蹴り出されるドリブルは、足元からなるべくボールを離さないように、という基本をきちんと押さえている。
が、翔が飛び上がるほどに衝撃を受けたのはそこではなかった。
「イサム、イサム、もう一回! こっちまで!」
こいこい、と両手で手招くと、五十メートルほど先で方向転換をした勇がまたドリブルでもどってくる。
時折、にこっ、と翔に向かって笑いかけながら。
翔は、自分の目の前まで戻ってきた勇の両脇をすぐさま抱え上げた。
意外に重かったが、そんなことはこの際どうでもいい。
いっぱいに目を見開いたびっくり顔もかわいいが、それもこの際置いておく。
往復する間、たしかにボールも田んぼに落とすことは一度もなかったが、それと、ドリブルをしながら翔の方を見て笑ったこと、いったいどちらの方がすごいのか、コーチの勉強などしたことがない翔には分からない。
だから、翔が褒めたのは、素直に自分がすごいとおもった方だ。
「イサム、おまえ、天才? 俺が、顔を上げてドリブルができること褒めてもらえたのは、たぶん三年生になってからだった! そのとき初めて、おまえは将来プロになれる、ってコーチに言われたんだよ。なのに、一年生でそれができるとか、すごすぎ! おまえすごいなー、イサム!」
くるくるとまわりながら称賛する翔に、勇がうふふっ、とうれしそうな笑みを降らせる。
調子に乗ってまわりすぎたせいで足元がよろけてしまい、翔は勇を地面に下ろした。
「あのね、オジジがね、おしえてくれたの」
「オジジ? おまえのおじいちゃんか?」
ふるふる、と勇が首を振る。
「さっきの、白い頭のおじいちゃん」
「ああ、あのひと、サッカーやってたっぽかったもんな。顔を上げてドリブルしろって?」
しろ、と言われてできるなら、みんなやっているはずだ。
しかし、背筋を伸ばして視野を広く、とは足元からボールを離さない、と同じくドリブルの基本ではあるものの、かつて翔がそれだけでプロになれると絶賛されたくらい、そうかんたんにできることではない。
小学生時代のトレセンなど、翔はほとんどそのアドバンテージだけで選ばれていたと言っても過言ではなかった。
「えっとね。まらどーなの国の子どもたちは、ドリブルができるようになったら、今度はボールを持って練習するんだよ、って」
やはり意味が分からず、翔は首をひねった。
すると、勇が足元のボールを抱え上げる。
瞬間、雷に撃たれたような衝撃が走った。
「あああああ! そっか! ボールを持ったら、足元が見れなくなるってことだ!」
小学生になるかならないかの子どもが胸にボールを抱けば、まるきり足元は見えなくなってしまうだろう。
顔を上げろと言うのではなく、物理的に見えなくしてしまう方法があるだなんて、翔はおもってもみなかった。