飛べない君と歩けない私
「わたし、飛べないの」
散歩中に出会った少女はそんなことを言いながら、建物に遮られて小さくなった空に向かっててのひらを伸ばしていた。
今時見ない真っ白で薄いワンピース。傷みのない綺麗な黒髪。けれどもその顔には感情が見えない。ただたんたんと空を目指している。
「いいじゃない、あなたは歩けるんだから」
ため息を吐くように言ってしまった。私は車椅子に乗っている。思うように移動できない煩わしさに、少し心狭くなっていたのかもしれない。焦るように次々と建てられるビルに迫られた空のように、私の心は小さくなっている。だから小さな少女にだって、余裕な言葉をかけられない。
私の姿をちゃんと見て、少女は少し驚いたみたいだ。無意味に伸ばした手を引っ込めて、私の後ろに回り込んだ。
「あなたが歩けないなら、私が連れて行ってあげる」
「え?」
そう言って後ろから私の車椅子を押した。弱々しく車輪が回って動き出す。勝手にどこか連れていかれたらたまらないと伸ばした手を、何故かわからずに膝の上に置いた。
「あなた、空に帰りたいんじゃないの?」
「いいの」
そう言ってゆっくりと押していく。優しい揺れになんだか心が柔らかくなっていくようだった。
「それに、私が帰りたいのは空じゃないの」
「?」
「あなたはどこに行きたいの?」
私の行きたい所。病院には時間が来たら帰らなければならない。他人に押してもらっても、自分の行きたい場所には着かない。私はどこに行きたかったのだろう。帰りたい場所もない。私は何を目指していたのだろう。
「わたしは、行きたいところなんてないよ」
それでも少女は押すのをやめなかった。周りに緑がなくなっていく。冷たい灰色が支配する。私の心も冷たくなっていくようだ。それでも心地よい揺れは続く。冷たく固くなった心をほぐすように。
日は暮れていなくても、私はもう帰らなくてはならない時間がわかった。ただ真っ直ぐ進んだ道は、振り返ればあのつまらない病院が見える。
「もう、帰らなくては」
「あなたは明日もここにいるの?」
「いるよ。そうだな……。明日までにはどこに行きたいか考えておくよ」
少女は寂しそうに笑った。
「あなたはいいわね。歩けなくても生きていけるもの」
後ろにいる少女のかおは見えなかった。
見えなくても、どんな顔をしているのかは感じた。
「わたしは、飛べないと…………」
次の日、私はまた同じ場所に来ていた。
そこには少女はいなかった。
ふと見上げたその先にあったのは。
太く逞しく成る木の枝に作られた、小さな鳥の巣ーーー。