ななついわい・四(或いは、壇ノ浦 満の慕情)
壇ノ浦家は古くよりこの国の「武」を掌っている名門であり
多数の有能な軍人を排出することで名を馳せていた。
他の名門たる伯爵家と共に【御三家】と呼ばれる独自の機構を以って国防を担っていた。
また、大陸との情勢が緊迫しているこの時勢に於いては
政府より直に命を請け秘密裏の任務に就くこともしばしばであった。
この日、壇ノ浦 満が同じく御三家のひとつ、立桐家の邸宅を訪れていたのも
とある指令を受けた為である。
立桐の屋敷は数年前に訪れた時と変わりない、赤煉瓦の大変美しいルネサンス調の洋館だった。
屋敷からは階段状に連なる庭園が見下ろす事が出来
よく手入れされた庭園には、ちょうど今の季節様々な種類の薔薇が優美に咲いていた。
来客を楽しませるには十分すぎる程の景観。
ここを訪れる客人は、扉を叩いてから家人の出迎えまでの間、庭の花を眺めて楽しむのが定石だった。
しかし、今の壇ノ浦には生憎それを楽しむ余裕はなかった。
「まさかこのような辞令を頂くとは……はあ。」
男は書状をつまみあげると、がっくりと肩を落とした。
【本日付 無期限ニテ 立桐財閥後継者ノ警護ノ任ヲ命ズ】
何故、御三家の一家の血筋とはいえ、たかが娘一人の護衛のために左遷など。
そんな待遇への不満に加えて、もうひとつ不安があった。
彼が護衛する対象についてだ。立桐の跡取りといえば良いも悪いも様々な噂を聞く。
御三家において【政】を司るのが、この邸宅の主・立桐家だ。
本来家督を継ぐべきは、長男・立桐 周一郎という男だった。
壇ノ浦は、かつての学友が家督を継ぐ気を持たず
日々ふらふらと遊び歩いて暮らしているという噂もまた耳にしていた。
現当主・立桐 時茂は頭脳は健在ではあるが、重い病を患っており人前に出ることは無いという。
懇意にしている御三家の人間といえど、ここ数年彼の存在は書状の上でしか知ることができない程であった。
兄に代わって父の手足となり采配を取っているのは、長女の立桐 時花
齢は17ばかり恐ろしく才はあるが血も涙もない、男のような女だ、鬼子だ、などと恐ろしい話ばかり聞く。
「総合した結果、この扉の向こうで待ち構えるは、血も涙も無い野蛮な鬼女!!!そのような者を護衛とは……ぐっ……なんと恐ろしい!!」
使用人に導かれ回廊を進む。足が止まった。この部屋だ。
心の準備が出来ていない壇ノ浦をよそに、あちら側から扉は開け放たれた。
「やあ、よくいらっしゃいましたね、壇ノ浦大佐。」
「へ……??」
壇ノ浦は硬直してしまった。目の前に現れたのは想像していたような怪物ではなく
なんとも見目麗しい男装の麗人だったのだ。
「あ……あなたが、立桐 時花様、です……か」
「想像と違って怪物然としていない只の娘ではないか、しかし何故女が男まがいの格好をしているのだろう。そして長兄ではなく女である身がこの家を采配を取っているのだろう?以上、貴方の私に対する粗方の所感。どうでしょうか」
己が思っていることを、全部言い当てられてしまった。
この娘は、恐ろしい。出会ってもの数秒で私の心中を見抜いたのか。
更に恐ろしいのは見据えたものの射抜く、鋭く光る眼光だった。
壇ノ浦は、蛇ににらまれた蛙のようにグッと固まってしまった。
息を呑む彼を暫く見つめると、突然、時花はクスクスと笑い出した。
瞬間、蛇は乙女に変じた。
目の前で彼を小ばかにして笑う様子は、実に無邪気なものだった。
「ああ、そんなに固まってしまって!随分面白い顔をする。あはは……いままでの来客で一番おかしな顔をしてくれたね、君は!大抵初対面の人は、噂を真に受けて私を悪鬼か羅刹かと想像していらっしゃるのでね。つい、からかいたくなるんだよ。」
呪縛の視線から解かれ安堵した壇ノ浦は、改めて時花の姿を視認した。
透き通った肌に、程よく赤みを指した頬、硝子のような青い瞳は舶来の人形を思わせる。
縁取る睫毛も大層美しい。時折こぼれる笑みは、より一層彼女の美しさを引き立たせた。
そして、印象的だったのが、この少女からはむせかえるような、芳醇な薔薇の香りが放たれているのだ――
一目惚れだ。
愚直に護国に徹してきたあまり、いかんせん色恋事に疎い自分ではあるが
決してこれは一時の気の迷いではないという揺ぎ無い自信を、己の内側に確かめた。
我が人生に恐るべき春が訪れた!!壇ノ浦はそう確信したのだった。
「どうしたのですか?阿呆が阿呆みたいな顔してどうするんです。」
薔薇の娘はいたずらっぽい笑みで壇ノ浦に微笑みかけた。
「は、はいいいいい!!失礼しましたっ!」
今、凄く罵られた気がする。
しかしそれすらも今の自分にとってはご褒美と思えてしまうほどに、この娘はおそろしく魅力的なのだ。
私はどうにかなってしまいそうだ……壇ノ浦はひどく重く、しかし甘美な眩暈を覚えた。
「ふふ……あなたの柔軟かつ変幻自在な御顔は見ていて飽きない。道中よろしく頼みますね、壇ノ浦大佐。」
「は、はいいいい!!!(私は、顔芸要員か……)」
時花は手を差し出すと壇ノ浦と軽く握手を交わした。
おそろしくも美しい娘との出会い。なんということだろう。
興奮と恐怖とが入り混じったままに、彼は部屋を後にした。
邸宅の廊下をいまにも走り出しそうな歩調で歩みを進める。
鼻腔に仄かに滞留する薔薇の残り香が、一層彼を焦燥させる。
と、出会い頭に、何者かにぶつかった。
深い紺色の着物をだらしなく着ながした青年が尻餅をついていた。
「す、すみません、私としたことが、とんだ不注意を!」
壇ノ浦は謝意を示すと、手を差し伸べ顔を覗き込む。
倒れていた男は壇ノ浦の手を取り起き上がると、耳の下まで伸びた鈍色の髪を無造作にかきあげた。
病的に青白い肌に、スッととおった鼻筋が現れる。
こちらを見据えている瞳は、先ほど出会った立桐の娘とよく似た深い青色をしている。
だが、あの娘の燃えるような気迫とは相反して、どんよりと暗く、およそ生気を感じ得ないものだった。
男は血色の良くない唇から言葉をこぼした。
「やあ、何年振りだろうね。まさか我が家にかつてのご学友殿がいらしていたとは。」
壇ノ浦はアッ!!と思わず声を上げると、ぶつかり様にずりおちた眼鏡を掛けなおし相手を凝視した。
「君は……周一郎クン!!」
周一郎と呼ばれた男は、にっこり微笑むと壇ノ浦を抱擁した。
立桐 周一郎。彼こそが壇ノ浦の学友であり、先ほど出会った時花の兄である。
学生の頃から厭世的でどこか浮世離れした印象であったが久しぶりに会う彼といったら
生気のまるで無い、今にも消えてしまいそうな亡霊のような面持ちになっていた。
蜻蛉――そんな単語が、壇ノ浦の頭の中にふっと浮かんだ。
立桐の屋敷から十数分ほど歩いた所に、この街でも有数の歓楽街がある。
そこにある純喫茶に場所を移し、周一郎はブラック珈琲を、壇ノ浦はクリームソーダを供に
久しぶりの再開を祝っていた。
「なんでも、時花の護衛の任務にあたると聞いたよ、満くん」
「そうなんだよ、周一郎クン。はじめての大仕事は、3日後。足摺の里へ向かう。
いやあ、しかし僕は決して自分を過大評価するわけでは無いのだが……何故わざわざ護衛だけの任務に、大佐である僕が呼ばれたのか不思議でね。君は何か聞いてるかい」
「いや。私は、この家の政事にはほとんど関わっていないからね。ただ……」
「(予言に倣って、御三家の人間を用いるつもりか)」
周一郎は考えこむと何かぼそぼそと呟いている。
「どうしたんだい、深刻な顔をして。」
「我が家には色々と込み入った事情があってね……もっとも、僕は静観するだけだがね」
「長兄の君が、そんなことでどうする。妹さんはあんなに可憐で、か細いのに……
お一人で御三家の責務に日々奮闘されているようだぞ?!君って人は!!」
「時花に――あったんだね、満クン」
一瞬、周一郎の纏う気だるげな雰囲気は払拭され
【正気に戻った】とでもいった表情をのぞかせたように見えた。
「あ、ああ!いやはや、妹さんは、その、実に……素敵な……」
壇ノ浦は、人様の妹君に対する率直な感想を述べてしまった気恥ずかしさのあまり
周一郎のその僅かな変化に気付く余裕はなかった。
「ぼくの妹は、とても輝いているだろう」
「君、それはどういう意味だい」
「あれは、いつも眼前できらきらと輝いている。触れてみたいと思うのに、どうしてもそれは叶わない……近づけば近づく程、己の影を照らされてしまう。ただただ、僕は無様な気持ちにさせられる」
壇ノ浦は、はて、と首をかしげた。
先程の時花との出会いは壇ノ浦に未だに知りえなかった歓びを与えるものであり
周一郎の述べるネガティブな感覚とは全く正反対のものであったからだ。
彼の言う敗北感とでもいうべき感覚には全く同意できないと思った。
「んんん……難しい事を云うなあ、周一郎クンは。もう少し分かり易く…こう、なんというか…」
「そうだな、僕のこの晴れない気持ちは、決して妹のせいだけという訳では無いんだ。
ただ、あの子の存在がより一層、僕のあれを付勢させるというだけで。」
「あれ……とは?」
「漠然とした不安」
周一郎が放った一言は、壇ノ浦の心の内に深く突き刺さった。
ぼんやりと朧げで、一見さしたる驚異には見えないが、それは確実に人を蝕み、病ませる。
根絶すべき原因がはっきりとは存在していないが為に根治もし難い。
比較的、楽天家寄りな壇ノ浦でも、そのぼんやりとした感覚を覚える事がしばしばある。
それは誰もが持ちうる驚異なのだ。
この見えない病は、元々悲観主義を基とする周一郎の気質とは大層相性が悪く
日々彼の心身をじわじわと蝕んでいるのだった。
一寸、沈黙がふたりの間を支配した。
壇ノ浦は、咄嗟に周一郎を慰めようと思ったのだが、今の彼を慰するに適当な言葉は口を衝いて出てこなかった。
沈黙を破ったのは、周一郎の方だった。
「でも、それでも、いい。この不安を慰めてくれる良いひとを、僕は見つけたからね。
ああ、君は知っているかな。3丁目の方に遊郭があるだろう。あそこの裏手に――――」
「もういい、これ以上言うな」
次の瞬間、周一郎は壇ノ浦に胸倉を掴まれていた。握る拳は怒りに震えていた。
テーブルの上の珈琲とソーダは大きく波打っている。
「君という人はッ!!妹君が危険な任務に挑もうという時に、そんな事に現を抜かしているのか!?」
「はは……吃驚した。温和を絵にかいたような君が……珍しいことをする」
壇ノ浦は友人の指摘にハッとすると突然恥ずかしくなり己の手を引っ込める。
「す、すまない……だけども、君が己の責務を彼女に押し付けるどころか、それを支えてやろうともしないという事が、僕はひどく許せない」
「僕を嗤うかい、満クン。僕は、こういう人間だ、どうしようもない屑だ」
なにもかも諦めきった様子で、自虐的な台詞を吐き、周一郎は緩く笑う。
周一郎は先ほど自分の胸倉を掴んだ手をそっと握ると
旧友へ信頼と懇願の情を込めて、こう言った。
「どうか時花を、頼む。」
「君に言われなくとも、とうに決めている!!」
力強く言い切る壇ノ浦は、決意に燃えていた。
あの娘は、もしかするとどうしようもなく行き詰まっていて、誰かの助けを求めているのではないか?
それを支えるべく、自分は遣わされたのではないか?
ああ、なんということだ、この巡り合わせに感謝しなくてはならない!
そんな友人をみて、周一郎はぽそりと呟く。
「……昔から、僕は君のそういう所が、とても、とても羨ましい。」
彼が見せた寂しそうな笑みは少しだけ、其の妹に似ていると思った。
いつしか日も暮れかけていた。店の出窓からは茜色の夕日が差し込んでいる。
周一郎は友人に一礼すると、夕闇にまどろむ街へ消えていく。
彼の向かう方角は遊郭のある区画だろうか。
夜の蝶を捕まえにゆく、男の背中を通して時花の孤独を垣間見た気がして
壇ノ浦はひどく心を締め付けられたのだった。