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その四 忘却の河

【まえがき】

 ※一部はその意味をルビに頼っていますので、IE推奨です。ルビが表示されない環境で閲覧した場合、作品そのものの存在意味がなくなる可能性があります。



    (壱)美弥子(みやこ)



 喧噪で満たされた夜の繁華街を、日下(くさか)美弥子(みやこ)はひとり歩いていた。


 その街はとくに治安が悪く、わずか十歳の美弥子が、それも夜の繁華街をひとりで闊歩する姿は、それだけで人目を引いた。

 はた目には無防備な光景だが、美弥子にとってその界隈は庭みたいなものだった。なによりそうやって出歩いているあいだは、母親の顔を見ずに済む。


 美弥子は母親も学校も嫌いだった。

 彼女の呑んだくれの母親は、男をくわえ込む以外は娘をいびることしか頭にない馬鹿女で、学校には嘲りと屈辱しか転がっていなかった。ゆき場のない少女の心を癒してくれるのは、いかがわしい夜の街しかなかったのだ。

 どんな場所でも救いがあるだけましだ、と美弥子は思う。

 悪趣味な極彩色のネオンで着飾り、色と欲にまみれたゴミ溜めみたいな街でも、彼女にとってはただひとつの揺りかごであり、吐き捨てられた罪で塗り固めた風土は少女を包む子宮だった。

 酔っ払いの鼻歌やタクシー・ドライバーの罵声は心地良いBGMだったし、若者同士の縄張り争いは、いっときの気晴らしを提供するショーだった。顔馴染みのヤクザたちはこぞって美弥子を可愛がり、裏通りの売人は薬の代わりにお菓子や小遣いを与えてくれるのだった。そして街角に立つ女たちの身体(からだ)はこれ以上ないほど(けが)れていたが、彼女たちが秘めた心は誰よりも純粋で、それこそ美弥子の母親が本物の娼婦に思えるほどだった。


 少女は母から開放される、つかの間のこの時間が好きだった。

 だからといってのんびりしているわけにもいかない。帰りが遅くなれば母親に攻撃の理由を与えることになる。

 美弥子はスカートのポケットから煙草を取り出し、もういちどパッケージのロゴを見た。

 血染めのようなパッケージの中心には黒一色で男性の顔が描かれ、その顔に少し被るように白の行書体が刻印されていた。少女はその横文字を読めないが、デザインと形はしっかりと記憶している。外国産煙草のなかでもマイナーなため、手に入れるには専門店まで遠出する必要があった。もちろん彼女の母親が贔屓にしている(ヽヽヽヽヽヽヽ)店で、支払いはツケだ。美弥子はいつでも手ぶらで出向き、煙草を受け取ることができた。

 銘柄に間違いがないことを確認すると、美弥子はほっとして煙草を仕舞い、歩調を速めた。


 居酒屋や飲食店がつらなる地区を抜け、その先の歓楽街を過ぎ、さらに奥まった路地裏を進むと、その一画に美弥子の家はあった。

 最後の角を折れ、袋小路まで続く一本道に入ると、遠くのほうにぼんやりと浮かび上がる照明が見えた。

 その光が視界に入ると、美弥子の心はどんよりと沈んだ。足取りは自然と重くなり、無意識にため息が漏れる。

 やがて照明の前まで辿り着く。

 レンガ風の外装が施された壁に分厚い洋風扉がはまり、その上には煌々と浮かび上がる『灯-AKARI』のネオンサイン。

 それが美弥子の住みかだった。

 一階は母親が営む小さなスナックで、二階が住居になっている。スナックの“あかり”というのは美弥子の母と同じ名だ。

 店の裏手に勝手口はあるが、玄関と呼べるものは一ヶ所しかなく、店の入口と共用だった。そして母親は、美弥子に勝手口の使用を禁じていた。美貌に恵まれた母親と同じ顔をして、そこに若さという特権を足した美弥子の存在は、最高の見世物(ヽヽヽ)になったからだ。

 もちろん、店に通う男性客のお目当てはママである(あかり)だが、同時に美弥子のファンでもあった。美弥子は店の大切な《商品》として、必ず店を経由して家に出入りしなくてはならなかった。

 母親は裏でわが子を虫けらのように扱いながら、その虫けらを世間が低く評価することに我慢がならなかった。美弥子はいつでも高価な衣装を着せられ、ぴかぴかの肌を維持するためのあらゆるメンテナンスを強いられた。


 美弥子は扉の前で大きなため息をつくと、何かを決意したように唇を真一文字にむすび、スチール製のバーハンドルに小さな両手をかけた。

 そのまま重たい防音扉を少しだけ開くと、隙間から細い体を滑り込ませた。

 扉が閉まるのと同時に、美弥子の頭上で扉から生えたベルがチリン、と一度だけ鳴った。


 ベルの音に気づいた中年の男性が美弥子に声をかけた。

「やあ、お姫様のお帰りだ」

 店は入口の脇にテーブルがひとつあるほかは、カウンター席が九つ並んだだけの小さな空間だった。

 薄暗いコンサートホールの明度に調節された店内の奥に、客はその男性ひとりきりだった。

 母親はカウンター席の男性に対面し、水割りを作っているところだった。アイスピックで氷を割りながら、顔を落としたままで美弥子を睨みつける。

 店と同じ(あかり)の名を持つ母の姿は、未来の美弥子を予言するものだった。美弥子と同じ色素の薄い茶色の目を持ち、そのきめ細かな白い肌も、胸にかかる真っ直ぐな黒髪も、分裂と老化を経た細胞を除いては、なにもかもが生き写しだった。

 そして早くに美弥子を産んだ(あかり)は、まだ二十代の後半だった。美弥子とは年の離れた姉妹だといっても充分に通用する若さを保っていた。

 だが目に見えないところで、生物学的な老いは確実に(あかり)のみずみずしさを奪っている。(あかり)はそれを本能で感じ取り、自分と同じ顔をした美弥子に憎悪に似た嫉妬を燃やしていた。


 美弥子は母親の視線を感じながら店の奥まで進むと、ポケットの煙草を男性に差し出した。

「はい、これ」

「ありがとうね、ミヤコちゃん。おっと、そうだった」

 男性が懐から財布を取り出そうとすると、それを美弥子の母親が制した。

「やめてくださいよ、お駄賃なんて。変なクセをつけるのはこの子のためになりませんから」

 なんだ、そうかい。ほろ酔いの男性はそういってしゃっくりをすると、飲みさしのグラスに手を伸ばした。

 母親は慣れた手つきで男性の手からグラスを取ると、代わりに琥珀色の液体で満たされた新しいグラスをその手にあてがった。そのあいだ中、視線だけで美弥子を威圧し続けた。

 無言の圧力に屈した美弥子の瞳がうるみ始めたところで、母親はようやく満足して口を開く。

「遅かったのね、美弥子」

 少女はうつむき、かぼそい声で「ごめんなさい」と答えた。

 母親はそれきり黙りこみ、グラスを洗いにかかった。

 そうしながら、頭の中ではどうやってこの子をいたぶってやろうかと、そればかりを考えているのだ。美弥子にはわかる。

 だが少なくとも今ではない。客がいるからだ。(あかり)は人のいる前では決してわが子に罵声をあびせたり、手を上げることはしなかった。

 美弥子は目の前の男性を盗み見る。

 男性は中年と形容するにたる充分な皺と白髪をたくわえていたが、その顔はつややかで、張りのある表情には人生に疲れた気配など微塵もなかった。

 その男性が人生の勝ち組であることを美弥子は知っている。なぜなら、強欲な母がお金のない負け犬にかまうはずなどなかったからだ。

 母親はまた新しい“金づる”を見つけたのだ。美弥子はそう思った。


 突然、シンクにスプーンが落ち、その音で美弥子はビクン、と体を痙攣させた。

「明日は日曜よね」母が言った。

 美弥子がうなずくと、母は洗い物の手をとめた。

「宿題はもう終わったんでしょう? 少し散歩でもしてきなさい」

 そう言った母の瞳は、歓楽街のネオンと同じ輝きを放っていた。


 美弥子は黙って店を出た。

 扉を閉める間際、店の奥から母親の甘ったるい笑い声が聞こえた。

 これから母とあの男性がなにをするのか、美弥子は理解していた。そのために母親は邪魔なわが子を店から追い出したのだ。


 自分も大きくなったら、あの女のようになってしまうのだろうか。美弥子は思いながら、夜の路地裏を歩いた。





    (弐)(ほころ)



 家から十五分ほど歩いたところに公園があった。

 以前はたくさんの子供であふれていたが、街の発展に比例して歓楽街の侵食が拡大すると、一帯からは子供の数が減り、今では美弥子の貸し切りだった。

 公園に入ると、美弥子はブランコに座った。

 ブランコをゆっくりとこぎながら、自分の不幸な人生について考えた。


 母はいつからおかしくなってしまったのか。

 最初からあんな風だったわけではない。

 美弥子が思い出せるいちばん古い記憶は五歳のころだ。そのときの母親の顔は、今では想像もできないほど母性にあふれ、優しい眼差しで微笑んでいる。それは美弥子の心に刻まれた、たった一枚だけ残った古い写真のような記憶だった。それ以前の記憶は空白に等しい。


 たぶん、と美弥子は思う。

 父が死んでから、あの母親はおかしくなってしまったのだ、と。

 父親が死んだ経緯について、母親が話してくれたことはいちどもない。ただ以前、母の箪笥(たんす)から古い新聞の切り抜きを見つけ、当時の家が火事に遭い、父ひとりがその犠牲になったことを知っているだけだ。火事の日付は美弥子の五歳の誕生日の翌日になっていた。

 それが直接の切っ掛けでないにせよ、母が馬鹿になってしまった要因の一端に、父の死がからんでいるのは間違いない。母親が豹変し始めた時期とも重なるし、家には父の写真はおろか位牌さえもないからだ。

 美弥子は父親の記憶を持っていないことが悲しかった。笑顔だったころの母親の顔は思いだせるのに、いくら記憶をまさぐっても、父親の顔はいっこうに出てきてくれなかった。


 そんなとりとめのない思考を泳がせながら、美弥子ははっとして腕時計に目を落とした。

 家を出てからすでに二時間近くが経ち、ちょうど日付が変わろうとするところだった。

 美弥子はあわててブランコから飛び降りた。

 母親の行為に決まった時間はないが、これまでの経験から二時間におよぶことはまずない。せいぜい一時間も外で暇を潰して帰宅すれば、事が終わっている場合がほとんどだ。

 母親は自分のルーズさを棚に上げ、美弥子には時間厳守を強いていた。たとえそれが、暗黙のうちに成立した不確かな時間であってもだ。母にとっては“遅刻”という事実があるだけで有罪に値し、娘を折檻する正当な理由になるのだ。


 美弥子は駆けた。

 駆けながら下腹に痛みを感じた。

 これで口実を得た母に、また責めを受けるのではないか。そんな恐怖から、治ったはずの傷跡がズキズキと(うず)いた。


 美弥子に対する折檻は、最初はほんの遊びだった。

 母親はわざと自分に有利なルールを決め、それを破るたびに美弥子の頬をつねった。その遊びは日ごとにエスカレートし、美弥子が耐えることを覚えると本格的な虐待へと変わった。

 そんな生活がもう何年も続いているが、母親譲りの美しい美弥子の肌は、今でも高価な調度品のように輝いていた。馬鹿なくせに悪知恵が働く母親は、決して人目にとまる部分を傷つけなかったからだ。

 だが下半身を裸にむけば、美弥子のお尻と下腹は傷だらけだった。

 刑は主に(こて)を使うものだった。刃物といった、じかに肌を切り裂く方法は用いなかった。裂傷は治りが遅いため、傷口が塞がるまで次の刑を延期しなくてはならなかったし、出血がひどければ何かのひょうしに、虐待の事実が明るみになる恐れもあるからだ。

 母親はよくよく考え、苦痛を与えつつ出血のない、傷の治りの早い(こて)を使うことを思いついた。

 コテといっても金属を熱するような方法ではなく、煙草の火種を押し付けるというものだ。自身に熱を保持する構造を持たない煙草の火種であれば、ものに接触すれば短時間で熱を失い、火が消える。これなら肉の深い内部まで破壊することなく、皮膚の浅い表層の火傷だけで済む。しかし苦痛だけは充分に与えることができるのだ。

 母親はたちどころにこの刑罰のとりこになった。ことあるごとに理由を見つけては、嬉々として娘を裸にむき、真っ白な下腹とお尻に赤いしるしを刻んだ。ひどいときには数時間にわたって焼印を押され続けることもあった。


 美弥子にとって唯一の希望は、その事実を第三者に知ってもらうことだが、母親がそこに気づかないわけがなかった。

 母は虐待を始めるにあたり、前もって医者をたらしこみ、嘘の診断書を手に入れた。美弥子は母親の囚人になったその日から、よくわからない病気を理由に学校の体育と水泳を免除されたのだ。むろん、美弥子のかかりつけの医師は、嘘の診断書を作成した人物だ。

 これで美弥子に残された逃げ道は、もはや自らの口で、しかるべきところに告発する、という手段だけになった。

 娘にそんな勇気がないことを、母は知っていた。

 実際にその通りだった。

 だから今もこうして、美弥子は必死に駆けているのだ。


 美弥子は近道をするため、来た道を戻らずに《荒れ地》を目指した。

 荒れ地というのは近隣住民が使う言葉で、役人が《再開発予定区域》と呼ぶ一帯だ。実際には体よく名前をつけただけで、バブル景気の時代に予算の使い道に困った自治体が、利益の分配と拡充のために立ち上げた土地開発公社が抱える、負の遺産のひとつだ。

 隣接する歓楽街の影響で、とくに子供を抱えた若い世帯の過疎が進み、これといった開発案も出ないままに管理する土地だけが増え、今では関連会社を養うためだけに存在するような場所だ。


 いくつかの空き地を過ぎ、捨てられた民家を抜け、破綻した町工場の敷地を通ったときだった。

 美弥子は何かに足をとられて転んだ。

 片方の膝に痛みを感じた。

 美弥子は痛みをこらえて反射的に立ち上がった。見ると案の定、右膝の皮膚がアスファルトで削られていた。すだれのような白い引っ掻き傷から、じわりと赤い斑点が浮き上がった。


 そこで美弥子の全身に悪寒が走った。

 今しがた自分の足に触れた感触を思い出したのだ。

 何かやわらかいもの(ヽヽヽヽヽヽヽ)(つまず)いた感触だった。

 たとえるならそれは、肉だ。


 恐る恐る、ゆっくりと振り返る。

 そして間──。

 美弥子の思考は凍りつく。


 目の前には、地面に転がったひとりの人間。

 いや、ひとつのかたまりだ。

 確かめるまでもなく、それが息をしていない(ヽヽヽヽヽヽヽ)ことはすぐにわかった。


 そして美弥子は最悪のことに気づいた。


「理恵……ちゃん?」


 口をついて出たのはクラスメイトの名前だった。

 美弥子の目の前に転がる肉塊が、かつて皆から呼ばれていた名だ。

 そして美弥子にとっては唯一の友だちだ。いじめに遭っている美弥子の味方をしてくれるのは、太田理恵だけだった。


 うつぶせの太田理恵は裸同然の姿で、置き物のように息を潜めて地面に転がり、その手足は関節の構造を無視し、あらぬ方を向いて広がっていた。そして百八十度回転した首が、恨めしそうに目をむいて星空を見上げていた。

 信じられないほど長い舌をダラリと伸ばし、ぽっかりと空いた洞窟みたいな口からは、今にも呪詛の言葉が聞こえてきそうだった。


 美弥子は全身から血の気が引くのを感じた。

 自分の心臓の音が、体の外にまでもれている錯覚に襲われた。

 だが目を()らしたくてもできなかった。叫びたくても声が出なかった。

 突然の恐怖に美弥子の脳は戸惑い、悲惨な光景を当たり前の恐怖として表現することもできず、体中の筋肉が硬直した。


 気持ちは今すぐにでも叫びたかった。泣きたかった。

 だがそれを許してしまうと、自分はこの場にへたりこみ、誰かが見つけてくれるまで、友だちの死体を見つめて過ごすはめになる。そんな恐怖には耐えられない。きっと夜が明けるころには気が狂っているに違いない。

 美弥子は腰が抜けそうになるのを気力だけで押しとどめ、固まった両足に動け、と語りかけた。


 美弥子は必死で気を張り、足を動かした。心の中で叫びながら。


 理恵の姿が少しずつ視界から遠ざかり、ようやく足の振るえがおさまると、美弥子は息を大きく吸い込み、勢いをつけてきびすを返した。

 それと同時に駆け出したとたん、美弥子は壁にぶつかって短い悲鳴をあげた。

 その壁が人であると判断した脳は、ようやく感情の処理を再開し、美弥子の口を開放した。

 悲鳴をあげ、よくわからない言葉をわめきながら、美弥子は暴れた。

 暴れる両手を壁から生えた手がつかみ、美弥子の頭上から言った。

「心配したのよ。美弥子」

 その声は美弥子の母だった。

 見上げると、確かに母親の顔があった。

 美弥子は母にしがみつき、それから母の体をゆすって訴えた。


──ねえお母さん、たいへんなの。理恵ちゃんが……理恵ちゃんが!


 そう言ったつもりが声にはならなかった。

 ただ口だけが大きく動き、激しい動悸とともに空気が漏れてくるだけだった。


「さあ、もう遅いわ。帰りましょう……」


 母親はそういうと、美弥子を抱きしめた。


──お母さんには見えないの? すぐそこに理恵ちゃんがいるのに!


「いい子ね、美弥子は……もう大丈夫よ」


 言いながら、母はそっと美弥子の背中を叩いた。まるで赤子にするように。


──ねえお願い、誰か人を呼んで。おまわりさんに……!


 心の中で訴えながら、美弥子は自分の背中に母の手を感じ、その手が刻むリズムに誘われ、やがて意識を失った。





    (参)とりこ



 目覚めると、視界には見慣れた天井の景色が映った。


──ここは……わたしの部屋だ。


 回らない思考でそんなことを思いながら、わたしは再び目を閉じた。


〈タ・ス・ケ・テ……!〉


 目の前に理恵ちゃんの顔が浮かび、弾かれたように上体を起こした。

「理恵ちゃん!」

 叫んだ自分の声が、部屋を満たす平穏な気配に吸い込まれた。

 するとまた、昨夜の光景がフラッシュした。

 わたしはきつく目を閉じ、自分の肩を抱いた。


──そうだ。警察に知らせなきゃ……!


 わたしはベッドから出て立ち上がった。

 そこで自分がパジャマを着ていることに気づく。着替えさせてくれたのは母だろうか……。

──お母さん!?

 とっさに駆け出し、母の部屋へと向かった。


「ねえ、お母さん、起きてるの!? たいへんなの!」

 母の部屋の前で声をあげ、わたしはドアを叩いた。

 だが返事は返ってこない。静寂のなか、室内の気配を探ろうとしたが無駄だった。

 ドアのノブに手をかけたとき、母の声が聞こえた。

「……美弥子? どうしたの」

 わたしはほっとした。

「お母さん、早く警察に連絡して!」

 しばしの間……そして母の声。

「いったいどうしたっていうのよ──ああ、怖い夢でも見たのね」


──夢?


 わたしは頭の中が真っ白になった。

 すると母は続けた。

「昨夜は心配したわ。だってあなた、散歩に出たっきり戻らなくて……。それで母さん、探しにいったのよ。そうしたら美弥子、公園で寝ているんだもの……びっくりしたわよ」


──わたしが……?


「とにかく、あなたを背負ったのなんて何年ぶりかしら……。もうすっかり大きくなっちゃって……母さん疲れたわ」


──そんな……だって……じゃああれは本当に……夢?


 わたしは混乱した。

 混乱しながら、それでも食い下がろうとした。

「でもお母さん」そう言ってノブを回そうとすると、母が釘を刺した。

「お願い美弥子」その声は静かだが、有無を言わさぬ語気をおびていた。「今日はそっとしておいて。母さんね、うんと疲れたの……おやすみ、美弥子」

 それきり母の部屋は無音になった。


 わたしは自分の部屋に戻ると、ベッドに腰を降ろしてため息をついた。

 母の言う通り、わたしは悪い夢を見ていたのだろうか。いったんそう思い始めると、自分でもそんな気がしてくる。

 そもそも母が嘘をつく必要なんてないのだ。

 わたしは深く深呼吸をすると、パジャマのボタンを外した。


 母を起こさないように身支度を済ませ、一階の店舗に降りた。

 カウンターの内側に入ると、奥のレジから五千円札を一枚取り出し、スカートのポケットに仕舞った。

 それからレジ横に置かれたメモに、メッセージを残した。


  “レジから五千円とりました。

   夕方までにはもどります──美弥子”


 そっと店を出、扉をロックすると、わたしは繁華街へ向かった。





    (四)守護



 路地を歩きながら、わたしはとても気分がいい。

 見上げると、雲ひとつない朱色の空に、真っ青なお日様が浮かんでいた。


〈おや、みやこちゃん。おでかけ?〉


 塀の向こうから、顔見知りのおばさんがひょっこりと顔を出す。

「今から朝ごはん」わたしが答えると、〈そう。気をつけてね〉おばさんは言い、真っ黒い顔を塀の内側にひっこめた。

 ときおりジョギングを楽しむ黒い影がゆき過ぎる。

 どこか遠くから聞こえる意味不明な言葉に怒号、そして悲鳴。

 視線をめぐらせると、アパートのベランダには住人たちの影がぶら下がっていた。ぶら下がる影を、別の影が布団叩きで叩いている。


 いつもの朝。いつもの日曜日。わたしの気分も上機嫌。

 母の言う通り、あれは夢だ。

 わたしはきっと、疲れているのだ。


 そう思ったとき、前のほうから人影がやってきた。

 影はふたつ。もちろん顔は真っ黒で判別できないが、見たことのある顔だ。たぶん、同じ学校の子。別のクラスの子たちだ。

 ふたつの影はヒソヒソと、なにやら小声で話しながら歩いている。

 すれちがいざま、影のナイショ話が耳に入った。


〈……二組の太田理恵さん、行方不明なんだって?〉

〈そうそう。これで何人目だっけ。みんな二組のひとたちだよね〉


 わたしは足をとめた。

 同時に周囲の生活音まで()み、あたりは静寂に埋もれた。

 目だけを動かすと、街の影たちが一斉にわたしのことを見つめていた。

 とたんに体中から変な汗がにじみ出た。

 心臓はばくばくと脈打ち、肺は酸素を求めて暴れているのに息ができない。

 息を吸うことも吐くこともできず、本能的に軌道を確保するために生唾を飲み込んだ。

 溺れる寸前でようやく水面をとらえたように、私の肺は大急ぎで大気を吸った。

 そしてうしろを振り返った──。


 私の目の前で、ヒソヒソ話をしていたふたつの影がドロリと溶けた。

 溶けた塊は水溜りみたいにアスファルトに広がって、クスクスと笑った。


 わたしは叫ぶのも忘れて駆け出した。


──うそだ。これはうそだ!


〈なにがウソだって──クスクス──嘘つきは自分のくせに──とんだカマトトだ──クス──なにもかもお前のせいじゃないか──お前のせいだ──お前が悪い──お前がお前がお前が〉


 背後から影たちの罵りと笑い声が追ってくる。

 わたしは耳をふさぎ、必死で走った。

 いつの間にか辺りは夜になっていて、闇に紛れて見えなくなった影たちの笑い声だけがこだました。


 ゲラゲラいう笑い声から逃げながら、無我夢中で駆け、わたしは昨夜の町工場跡までやってきた。

 工場の敷地に入ると走るのをやめ、肩で息をつき、理恵ちゃんが転がっていた場所で立ち止まった。


──ほら。なにもない。やっぱりあれは夢だ。


 そう思ったとき、膝に痛みを感じた。

 頭から水をかけられたようなショック。

 ゆっくりと視線を落とすと、わたしの膝には引っ掻き傷があった。

 ガクガクと足に振るえが走った。


 そのとき、背後に異様な気配を感じた。

 いや、背後というより、わたしの全身を見下ろすような視線だ。

 泣き出したいのをこらえ、頭上を見上げた。


〈オマエノ……セイダ……!!〉


 そこには理恵ちゃんの巨大な顔があった。

 わたしはその場にへたりこんだ。


──うそだ……こんなの、うそよ!


〈オマエダ……オマエガ、ワルイ……!〉


 巨大な顔がわたしに迫った!

 わたしは顔を伏せ、両手で頭を覆った。


 いっときを置き、目を開けると、周囲から理恵ちゃんの気配が消えていた。

 代わりに別の気配を感じた。

 わたしはゆっくりと視線を上げた。


「まったく……言わんこっちゃない」


 わたしの目の前に猫が立っていた。

 ただの猫ではない。人間サイズの直立二足歩行猫。そんな化け猫だ。

「あたしゃ最初っから、嫌な予感がしてたんだ」言いながら、化け猫はわたしに歩み寄ってきた。

「こないで……!」

 わたしは地面を這ってあとずさった。

 大人の背丈ほどもある化け猫は足をとめ、頭をポリポリ掻きながら、「おやまあ、あたしも随分と嫌われちまったもんだ」そう言い、前脚を地面につく格好でしゃがみこんだ。「それでもあのひと(ヽヽヽヽ)の言いつけだ。逆らったらあとが怖いんだよ」目を細めて片方の前脚で顔を洗った。

 わたしは化け猫とにらみ合った。

 しばらく待ってみたが、相手がそれ以上口を開く様子がなかったので、わたしは意を決して、震える声をしぼり出した。

「あなた……なに?」

 猫はにんまりと笑った。

「あたしゃ二股(ふたまた)ってんだ」すっくと立ち上がり、「見ての通りの化け猫さ」太いふさふさの尻尾を胸に抱き、毛づくろいを始めた。





    (五)真実



 わたしは目の前に立つ、いるはずのない二足歩行の化け猫に向かって言った。

「でも……おかしいよ」

 自分でも驚くほど恐怖がなかった。まるで知人にでも話しかけるように自然と言葉が出た。

「なにがさ」と化け猫。

「だって、化け猫なんて……」

 巨大な猫は笑った。

「じゃあこの空間はどうなんだィ? あの《影》たちは?」

──空間?

 わたしは周囲を見渡し、空を見上げた。

 どんよりと紫の絵の具を掃いたような世界を真っ赤な空が覆い、そこに青白い太陽が浮かんでいた。いつもと代わり映えのしない風景。普段通りの景色。

 そう思ったはずだった。なのに……。


──あれ? なにか変だ。なんだろう……この違和感。


 するとわたしの背後で何かがスクスクと笑った。

 声のするほうに視線をやると、先ほど路上で溶けたふたつの影が立っていた。

 わたしは飛び上がり、無意識に化け猫にしがみついた。

 化け猫はそっとわたしの肩に手を置き、わたしを見下ろして言った。

「こいつらはただの《影》さ。抜け殻だよ……なぁに、お前ィさんに手出しは出来ないさ」


 影はブルブルと振るえながら、ヒソヒソと会話した。


〈にに二組の太田タタ理恵えええさん……行方不明イイイ、なんだって?〉

〈コレデ何人目だっ……けけけ。みんな二組のひとヒトヒト──たちだヨね〉


 壊れたプレイヤーのような会話は次第につぶやきへと変わり、最後にはあぶくのはぜる音になって空気中に消えた。


──理恵ちゃんは行方不明。これで何人目だろう……何人目……?


 すると猫が、あるほうを指差した。

「そら、見てみな」

 化け猫の指した先に、テレビが浮かんでいた。

 画面に映し出されているのはニュース番組で、真っ黒い顔のキャスターが無表情で速報を伝えていた。


〈……に通う五年生、太田理恵さんで、同学校の行方不明者はこれで八人目となります。いずれの児童も同じクラスの生徒であることから、警察は一連の事件について──〉


 そばにいたふたつの影が、テレビの仄かな明かりに惹かれるように、ウーウーと唸りながら画面を叩いていた。


──そうだ……確かうちの学校でそんな事件があった。


 わたしは化け猫を見上げた。

 化け猫はニヤリと笑い、「あたしにつかまってな。手を離すんじゃないよ」ふわりと宙に浮き上がった。

 わたしは短い悲鳴をあげ、目を閉じて猫の体をつかんだ。

 高速のエレベーターにでも乗っているような、胃が上下に引きつる感覚に襲われた。

 貧血に似た症状がおさまると、わたしの耳に聞き覚えのある声が飛び込んだ。


〈おい、そこにいるの日下(くさか)だろ〉

〈わかってんだよ、なんとか言えよ〉


 わたしは猫の体毛に顔をうずめたまま、声のするほうに視線を向けることができなかった。


──いやだ……見たくない。


 猫がわたしの背中を優しくゆすり、言った。

「それでも見なくちゃならねえよ」

 わたしはゆっくりと、頭を回した。


 猫とわたしの足もとに、学校のトイレがあった。

 トイレのさらに下方、ずっと下のほうには、真っ黒な空間にぽつりと生えたわたしの街があった。

 わたしは両手に力をこめ、猫にしがみついた。

 すると男の子の声が言った。


〈シカトする気だぜこいつ。誰かホースもってこい、ホース〉


──やめて!


 わたしは視線をトイレに戻した。


 トイレにある個室のひとつに、数人の男の子が群がっていた。

 みな見覚えのある顔ばかり……わたしのクラスの男子だ。

 そして個室に入っているのは──わたし自身だ。

 ひとりの男子が水道にホースをつなぎ、わたしのいる個室の前まで引っ張ってきた。

 このあと彼らがなにをするのか、わたしは知っている。


〈よし、いいぞ。水出せ、水!〉


──いや……!!


 わたしはその光景から顔をそむけた。

 それから長いこと、わたしは猫の毛皮に包まれて泣いた。


「つらいかい?」と猫。

「どうして……なぜこんなもの見せるの……」

「お前さんのためでもあるし、この世界のためでもあるからサ」

「なによ、それ。わかんない……」

「わからなくても踏ん張りな。でなきゃ──」

「なあに」

「みいーんなおしまいだ。……あたしもお前さんもね」


 この化け猫が何をいっているのか、まるで理解できなかった。でも不思議と信用する気になっていた。わけがわからないなりに、今のわたしには、この猫しか頼る者がいないのだとも感じていた。


 猫はわたしの目を見て、おだやかな口調で言った。

「よくお聞きな。お前さんはあいつらの術中にはまっちまったんだ」

「あいつらって……?」

「あいつらはあいつらサ。影……霊……鬼……もののけ──好きなように呼べばいい。とにかく、お前さんが暮らすまっとうな人間の世界には、いちゃあならねぇ存在だ」ぴんと張ったヒゲを撫で、その手で下界を指し示した。「今あそこに見えているのはナ、連中がこしらえた現実世界の鏡サ」

 足もとを見下ろすと、いつの間にかトイレの景色は消え、ただ遠くに街が横たわっていた。

 灰色の街の中を、豆粒みたいな影がうごめいている。

 影、影、影……普通のヒトたち。普通の──


──普通って?


 わたしは自問して初めて答えのないことに気づいた。

 猫は話を続けた。

「見てくれは現実と同じサ。そこで暮らす人々もね──もっとも今回は急ごしらえだったとみえて、出来損ないの《影》だがね」そういってクツクツと笑った。「だがお前さんは、その影すら抵抗なく受け入れちまってる」

 猫の言っていることが理解できるような気がしてきた。

 わたしの心は答えを求めてる。霧のように視界を覆う、出どころのわからない違和感を追い払いたいと願っている。だが一方で、それを恐怖だとも感じている。

「でも……なんだか怖い」

「そいつぁ仕方のないことだ」猫は言い、「あともうひと息だ。いくよ」ぴょんと飛び跳ねた。


 わたしの内臓が再び踊り、それがおさまると別の景色の中にいた。

 そこはわたしの家だった。

 家の中の光景を、わたしたちは天井から見下ろしていた。

 猫はスウーッ、と滑るように移動し、わたしたちの視界は階下の店舗へと向かった。

 わたしの心臓は急に暴れ出した。


──やだ……そっちは行きたくない!


 額といわず背中といわず、全身から脂汗が噴き出した。

 もう何も見たくない。何も知りたくない。知らなくたって平気。だからほっといて!

 だが猫はスルスルと階段をくだる。


──やだ……やめて……ヤダヤダヤダ!


「もう遅いよ」

 猫が答えるのと同時に、眼下に店舗の光景が映った。


 そこにいるのはわたしと母。

 母はわたしをカウンターの上に立たせていた。

 わたしは裸にむかれ、その前で母は煙草をくゆらせている。

 少女の(アザ)だらけの下腹を見て、わたしの下半身に痛みが走った。

 母は咥えていた煙草を右手に持ち、その真っ赤な先端をわたしに見せつけて言った。


〈さあ、どこがいい?〉


    ヤ メ テ !!


 わたしの叫びとともに、足もとの店舗はガラスのように砕け散った。


 短い沈黙のあと、闇の中から猫が言った。

「思い出したかい?」

 わたしはコクリとうなずいた。

 母はわたしを憎んでいる。もう長いことずっとだ。

 わたしはちっぽけな自尊心をすり減らしながら、母の責めに耐えてきた。

 その細い細い心の糸も、あとどれだけもつのかわからない。


 すると突然足もとに、また別の過去が滑り込んできた。

 場面は母の部屋。

 母はわたしの前にひざまずき、両手でわたしの体をゆさぶった。


〈お前、もしかして学校でいじめに遭っているんじゃないの?〉

 過去の少女は首を横に振る。

 だがその瞳から、ポロポロと涙があふれた。

〈かわいそうに……。もう大丈夫よ。お前に手を出す人間は私が許さないから〉

 母は娘の頬に手をあて、髪をすき、言った。


〈お前は私のモノ(ヽヽヽヽ)なんだから……〉


 母は娘の体を抱きしめた。

 その瞬間、母の部屋のかきわり(ヽヽヽヽ)がクルリと回り、背景が工場跡へとすげ替わった。

 地面には理恵ちゃんのオブジェクトまで転がっていた。


 わたしの全身に恐怖が走る。

──うそよ!

 叫ぶと景色がガラガラと崩れた。

 わたしは猫に向かって言った。

「お母さんはひどい人よ。ひどい人だけど……でもちがう! そんなはずないよ!」

「なぜそう言いきれるんだい?」猫は目を細めた。

「なぜって──理恵ちゃんはわたしの大切な友だちだもの!」

 猫は鋭い牙をむいて笑った。


「じゃあ、友だち以外(ヽヽヽヽヽ)はどうなんだい?」


 わたしは固まった。

 停止した思考の中で、言葉だけがリフレインした。


   これで何人目だっけ

    みんな二組のひとたちだよね

     ホースもってこい、ホース

    お前に手を出す人間は許さない

   お前は私のモノだ


 そのまま何も考えることができなくなってしまった。


 猫が言った。

「気休めにもならないだろうが、直接手をくだしたのはお前さんの母親じゃあないと思うぜ……。おそらく母親にとり憑いた《影》の仕業だろうよ」


 そのとき遠くでサイレンが鳴った。

 巨大な竜の咆哮を思わせる、灯台の霧笛のような雄叫びだった。

 次いで空間がグラグラと揺れた。

「いけねえ。のんびりし過ぎたみたいだ!」猫が叫ぶ。「つかまりな」

 わたしは猫にしがみついた。

「なにが始まるの!?」

「どうやら連中に気取(けど)られたみたいだ。やつらおっぱじめるつもりだよ!」

 猫はわたしを連れ、闇の中を跳躍した。





    (六)疾走



 美弥子を抱えて飛び跳ねる二股(ふたまた)を、《影》たちが追っていた。

 空を進めば大丈夫だろうと踏んだ二股だったが、そのうちに翼を持った《影》まで現れ、地を縫うよりほかはなかった。

 なにしろ相手は巨大な竜の形をしているのだ。そいつは二股の記憶に間違いがなければ、白亜紀の時代に生きていたプテロダクティルス亜目に属する爬虫類の仲間で、一般にはケツァルコアトルスという名で知られる翼竜だった。

 翼を展開すればゆうに十メートルには達し、空を飛ぶ生き物の中では地球史上最大といわれる大型種だ。さすがの二股でも、人間を引き裂くようなわけにはいかなかった。


 大地を蹴り、塀を飛び越え、屋根伝いに跳躍しながら二股は言った。

「ええい、どうなっちまってるんだ、この世界は!」

「なにがなの!」美弥子は風の音に対抗して叫んだ。

「あいつらだよ!」言いながら、二股はビルの屋上から跳躍して空を見上げた。

 その視線を美弥子が追うと、はるか上空を巨大な翼が旋回していた。

 二股は放物線を描いて数十メートル落下し、民家の屋根をぶち抜いて二階部分に着地すると、そのまま疾走してベランダの窓を突き破った。そのあいだも腹に抱えた少女を割れ物のようにそっと扱い、破片から彼女を守った。

「だって、ここはおかしな空間なんでしょう!?」

 美弥子が言うと、二股は猫みたいに(ヽヽヽヽヽ)唸った。

「だから言ったろう? 現実世界の鏡(ヽヽヽヽヽヽ)だって! 本来なら連中は、現世に存在するものにしか擬態できないはずなんだ」言って通りの角の曲がると、ふたつの《影》が待ち構えていた。

 化け猫は舌打ちすると、「ご免よ」少女を頭上に放り投げた。

 振り上げたその手で目の前の《影》を袈裟懸(けさが)けに斬り裂くと、その爪は自然な流れで弧を描き、背後に迫る《影》を下から斬り上げた。

 直後、天から降ってきた美弥子をふわりと受け止めるや、二股は間髪を入れずにアスファルトを蹴って加速した。

 猫のしなやかな腕に抱かれ、遠ざかる後方の景色を見つめながら、美弥子はふたつの《影》がパサリと崩れるのを見守った。


 猫は繁華街を駆け抜けながら話を続けた。

「あんな、何千万年も昔に死に絶えたやつまで引っ張り出してくるなんざ、思ってもみなかったよ」

 話しながらも、二股は襲い掛かる《影》たちをかわし、引き裂き、蹴倒して突き進んだ。

 人の形をした《影》たちは裂かれるたびに悲鳴をあげ、色とりどりの血しぶきを()いて(くずお)れた。

 だが二股と少女に気づく《影》はまばらで、この街すべての《影》が敵というわけでもなかった。

 それは連中がまだ、この世界を掌握(しようあく)しきれていないことを意味した。

 二股にとっては多少なりとも希望を持てる要素だった。


「ねえ……これからどうするの?」美弥子が聞いた。

「お前さんには悪いが、最後の仕上げだ」

「どういう意味……?」

「あとひとつ、残っているのサ……お前さんの過去が」

 少女はぐずった。

「もういい……やだ」

「お前さんのためだ。それとも、こんな混沌としたのが好みかィ?」前から来る《影》を斬り裂いた。

「充分に混乱してるわよ……!」

 青い血をぶちまけ、断末魔をあげながら千切れた《影》が後方に流れていった。

 それを見ながら美弥子は続けた。「今でもなにがなんだか判らない……。この変な世界のことも、あなたのことだって……。だからもういい……おかしくなりそう。何も見たくない!」

 二股は鼻を鳴らした。

「そういうわけにはいかねえんだ。あたしは彼女(ヽヽ)との約束をたがえたことは一度だってねぇし、これからだってそうありたいと願うね」

「彼女って……?」

 化け猫はそれには答えず、ひたすら目的地を目指した。





    (七)回帰



〈美弥子はパパが好きかい?〉

〈うん。だいすき〉

〈そうか。パパもお前が大好きだよ〉

〈ねえ、どうしておようふくをぬぐの?〉

〈いやかい?〉

〈ううん、そんなことない〉

〈いい子だね……美弥子は〉


 その光景を、妻の(あかり)が見つめていた。

 ただただ呆然とし、どう感じていいのかもわからずに、息をするのも忘れて、死人のように黙って見守っていた。いや、見つめることしかできなかったのだ。

 声をたてることも動くこともできずに、絶望というショックに脳髄を貫かれ、涙に濡れる目だけが扉の隙間に張り付き、夫と娘のいとなみ(ヽヽヽヽ)を凝視し続けた。


 そんな母のうしろ姿を見つめながら、美弥子は発狂寸前だった。

 二股の腕の中で、傷ついた虫みたいに暴れ、泣き、人の言葉とは思えない叫びをあげた。

 化け猫は手足をバタバタさせる少女を必死に押さえた。

「お前さんの間違い(ヽヽヽ)はここから始まったんだ……! そのせいでお前さんは自分の中に殻を作っちまった。戻れなくなっちまった(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)んだよ! 思い出すんだ……!」


──アアアアアァッ……!

 少女は絶叫した。


 やがて母親はどこかへ姿を消すと、ほどなくして戻ってきた。その手には包丁が光っていた。


──イイイイアアアアア……!

 暴れながら、少女の見開いた目だけが母の姿を追っていた。


 母は滑るように部屋に入ると、夫のかたわらで放心する娘には目もくれず、ベッドに横たわる愛する人に、手にしたものを突き立てた。


    ああああああ……!

 過去の少女と現在(いま)の美弥子が共鳴した。


 そのとき、憎悪におぼれた母の背後になにか(ヽヽヽ)がユラリと近づき、吸い込まれるように母の体内に潜った。


こいつ(ヽヽヽ)だ!」二股は叫んだ。「無防備になったお前さんの心が、やつらに見つかっちまったんだ! それでこの世界が出来上がったに違いねぇ」

 そう言い、視線を落とした二股は、ぎょっとした。

 化け猫の腕の中で、美弥子の体がみるみる縮み始めていた。

 もう暴れることも声をたてることもなかった。

「やめるんだ! そんな必要はない(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)……!」


 すると二股の眼前に熱と炎が生まれた。

 母親が部屋に火を放ったのだ。

 母はロボットのように無表情な顔で、燃え盛る室内から娘を抱き上げると、スルスルと部屋を出ていった。

 二股は苛立ちながら、目の前の過去を消し去った。


 暗闇の中で二股はハッとした。

 見ると美弥子の姿が消えていたのだ。ただ衣服だけがモゾモゾとうごめいていた。

 服を剥ぎ取ると、そこには赤ん坊にまで退行した美弥子がいた。

「しまった……!」二股は慌てて赤ん坊を抱えた。


 と、そこへ頭上から咆哮が聞こえた。

 見上げると、天高くに翼竜が群れていた。

 そして地上には、遠くから迫り来る《影》たちの気配で満ちていた。

「ええい、これまでか!」

 二股は赤子を胸に抱き、その場から跳躍した。


 盲滅法(めくらめつぽう)に街中を駆け巡り、そのどさくさ(ヽヽヽヽ)に紛れて赤ん坊を隠すと、ひとりで《影》の群れに向かっていった。





    (八)復活



 二股はへとへとだった。

 いかな化け猫でも、無尽蔵にわいてくる《影》が相手ではきりがなかった。それに地上の《影》は雑魚だが、上空を飛び回る翼竜だけはどうにも手に負えない。

 二度の来襲で受けた傷は浅く、化け猫の治癒力をもってすれば勝手に塞がる程度だったが、三度目に翼竜が襲ってきたときはドジを踏んだ。

 二股の肩口から背中にかけて、大きく糜爛(びらん)した裂傷が走っていた。

 それだけの大怪我を自らの能力だけで治そうと思えば、まる一日は安静にしている必要がある。だがもちろん、今の二股にはそんな余裕はない。


 やがて精根尽き果てた二股は、ビルの谷間にうもれた空き地に倒れこんだ。

「チクショウ……あたしの悪運もこれまでか」

 猫の聴覚が竜の咆哮をキャッチした。

 疲れきった体を動かし、二股は仰向けになる。背中の傷がキリキリと痛み、彼を中心に真っ赤な絨毯が広がった。

 赤黒い夜空を背景に、頭上を旋回する翼竜たちが見えた。

「まったくひでぇ話だ。鳥の餌になるなんざあ、化け猫の恥さらしだよ」

 動く気力さえ失った猫は、ゆっくりと目を閉じた。


 自分の死を感じながら、猫は思った。

 この世界は果たして、これからどうなるのだろうか、と。

 二股は一介の化け猫にすぎない。その身の上から、これまでに多くの怪異を目撃してきた彼にしても、本当のところは連中が何であるのか(ヽヽヽヽヽヽ)、理解しているわけではないのだ。


──えい、のろまな影畜生め。早いところ引導を渡しやがれぃ!


 いっこうに襲ってこない相手に苛立ち、二股が毒づいたときだった。

 化け猫はすぐ近くに、懐かしい気配(ヽヽヽヽヽヽ)を感じた……!


 まさかと思い目を開けると、頭上に赤ん坊の美弥子が浮いていた。


──まさか、この感触(ヽヽヽヽ)は……!


 二股がそう思ったとたん、赤ん坊の手足がみるみる伸び始めた。

 ちがう、成長しているのだ。

 頭上を飛び回る翼竜たちは、赤ん坊が発する、あきらかに異質な気配に戸惑っていた。

 赤ん坊はグングン成長した。

 手足はひょろひょろと伸び、髪は黒々と生え揃って月光を照り返し、下腹の丘陵は女の形をとり始め、胸のふくらみは大人と少女の境目まで発育した。


 成長がとまると、少女は真っ白い肢体を宙にさらし、二股を見下ろした。

「姐さん……!!」二股が歓喜の声をあげた。

 そこに浮かぶ少女は年恰好こそ美弥子と変わらないが、その顔は紛れもない猫々子(ねねこ)のものだった。

「お前らしくもないね。これじゃあ何のためのお守り役(ヽヽヽヽ)なのよ」そう言って猫々子は二股をにらみつけた。

「面目ねえ……。だがヨ、もとはといえば姐さんの尻拭いから始まったことなんだぜ」

 猫々子は肩をすくめた。

「わかってるわよ。だからこうして戻ってきてあげたんでしょ」

「ついでに姐さん。あたしゃこのざまなんでね……あっちのほうも頼まァな」

 化け猫は力なく、翼竜を顎で指し示した。

 猫々子は腰に両手をあて、短くため息を漏らし、それから頭上の竜を見上げた。


「まったく……いまいましい連中ね」


 そういったが早いか、猫々子の体はグニャリととろけ、見る間に翼竜へと変わった。

 猫々子竜は影竜よりもひと回りほど小さな翼竜で、プテラノドン科に属するインゲンスという種だった。影竜が擬態するケツァルコアトルスと同じ時代を生きていた翼竜だ。

 影竜と比べて体格で劣るものの、飛行性能と戦闘能力においては猫々子竜に分があった。

 影竜たちは突然現れた外敵に恐怖し、上空から激しく吠え立てた。


 猫々子竜はチラリと猫を見、「落下物には気をつけなさいな」そう言うと翼をひとかきした。


 猫々子竜はすさまじい加速度で上昇すると、影竜の群れの中に突っ込んだ。

 その最初の一撃で、群れの半数が猫々子竜の尖ったくちばしと両翼のカギ爪で引き裂かれた。

 残りの影竜は恐れおののいて逃げ惑った。

 猫々子竜は執拗に影竜を追いたて、引き裂き、食らいついた。

 あっという間にすべての影竜は駆逐され、墜落した。

 その光景を地上から目撃した人型の《影》たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 猫々子竜が地上に降りると、墜落した影竜のあいだに挟まれた二股が、脱力した笑顔で出迎えた。

 人の姿に戻った猫々子は二股のそばまで行くと、化け猫を見下ろした。

「だらしがないわね」

「まあ、なんだィ……こういうこともあらぁナ」二股はひきつった笑みを浮かべた。

 猫々子はかぶりを振り、周囲に視線を回した。

 少し離れたところに工事中のビルを見つけると、そこに向かって右手をかざす。

 ビルを囲った足場がガタガタと振動し、鉄骨の一部がメリメリと足場から剥がれ、千切れたスチール製のパイプが猫々子めがけて飛んできた。

 パイプは猫々子がかざす手の平の前でピタリと静止すると、目に見えない圧力でプレスされ、真っ赤に熱せられた。

 猫々子はさらに左手をかざして成分の違う鉄をいくつか引き寄せると、それを右手の真っ赤な鋼に混ぜた。

 溶岩状の鉄の塊は精錬されながら、腕のいい鍛冶師の手際を高速で再現すると、最後にはひとふりの刀に変わった。

 猫々子は出来上がった刀の握りを確かめ、空を切ってバランスを見ると、満足して二股を見下ろした。

 二股は歯をカチカチと振るわせた。

「姐さん……それで何をするつもりか、聞いてもいいかィ?」

「傷を見せて。いま治してあげるわ」

 化け猫はほっとしてうつ伏せになり、猫々子に背中を向けた。

 二股の傷口は当初より広がり、ざくろみたいな赤い内部があらわになっていた。

「いいようにやられたみたいね」

「このところ平和だったからナ……体もなまるってもんさ」

 猫々子は化け猫の上で左腕を伸ばすと、その腕に刀をあて、スーッと引いた。

 猫々子の腕から真っ赤な筋が垂れ、二股の背中に降り注いだ。

 傷口から忍び込んだ猫々子の血は二股の体内を駆け巡ると、細胞を刺激して筋肉の再生をうながし、神経系のお尻を叩いて治癒力を活性化させる物質を要求した。


 二股は傷が癒えてゆくのを感じながら、同時に猫々子そのものを感じた。

 猫々子の血液は彼の血に話しかけ、細胞にささやき、互いに交じり合って自身の役目を果たすと、猫々子であることを捨てて二股の遺伝子を取り込み、彼の一部となって同化した。


 やがて数分とは待たずに、化け猫の傷口はきれいに塞がった。裂傷の跡に沿って、そこだけ毛皮も新品のように生まれ変わっていた。

 二股はヒョイと体を起こし、手足を屈伸させて体の動きを確かめた。

 猫々子は微笑して言った。

「どうだった? あたしの()は」

 二股は頭をポリポリと掻きながら、猫々子から目をそらして答えた。

「よせやィ。そのなり(ヽヽ)で言われると、妙になまめかしくってヨ」

 猫々子は一糸まとわぬ自分の白い肌を見下ろし、顔を上げてニヤリと笑った。

「なにさお前、こういうの(ヽヽヽヽヽ)で欲情するタチだったの?」

 化け猫は顔を赤らめ、しどろもどろになって返す言葉を失った。

 その様子を見て猫々子はケラケラ笑った。

 それからすぐに真顔に戻ると、おたおたする二股に背を向け、歩き出した。

 二股は我に返って猫々子を追った。

「どこィ行く気だい?」

 猫々子は歩きながら前を向いて言った。

「まだ本丸(ヽヽ)が残っているのよ。お前にも働いてもらうからね」

 化け猫はハタと足をとめ、空をあおいだ。

「なんだィ。これで終わりじゃないのかい……あたしゃてっきり──ちょいと姐さん、待っておくれヨ!」





    (九)御霊(ごりよう)



 《スナック灯》が見える位置までくると、猫々子は足をとめた。

 二股はスナックの建物と猫々子を交互に見た。

「するってぇとなにかい。あの母親が──いやさ、そこに巣くっている《影》が大元なんだね?」

 猫々子はうなずく代わりに微笑し、顔の骨格をゴソリと崩した。

 見る間に猫々子の顔は変形し、美弥子のそれに置き換わった。

「いい? 雑魚は任せたからね」

 猫々子が言うと、二股は一歩うしろに飛び下がり、牙をむいて身構えた。

「あいヨ。今度こそぬかりはねぇぜ」


 猫々子は美弥子の声で叫んだ。


「お母さん! わたしはここよ!」


 すると空間から音が消えた。

 あらゆる音が消え、気配が消え、まるで世界そのものが死んでしまったような静けさだった。

 少しの間を置き、その静寂の底から、ゴロゴロと地鳴りの振動が起こり、そして──


〈ミィィーヤアアァコオオオッ……!!〉


 スナックの店舗を破壊しながら、美弥子の母親が膨張しながら現れた。

 一拍のち、店舗のガス管に火花が飛び、ズズン、という重低音を響かせて火柱が上がった。

 炎と黒煙に包まれ、母はなおも己の体を肥大させた。

 巨体はぶくぶくと肥え太り、周囲の民家を倒壊させながら、五階建てのビルと並ぶほどに成長した。

 そのときにはもはや母の形すら保てず、《影》は巨大化した骸骨の姿で、オーオー鳴きながら美弥子の気配を探した。その骨格の全身から、母の形を構成していた肉がズルズルとむけ、溶け出し、地面に滴り落ちた。

 本来の顔に戻った猫々子は二股に目配せすると、骸骨に向かって言った。

「残念だったわね! 美弥子なんてどこにもいないわ!」


 骸骨は声のするほうを向き、周囲をキョロキョロと見回し、再び視線を猫々子に戻した。

 猫々子をとらえた骸骨の底なしの眼窩(がんか)には、うち深くに溜まるマグマのような怒りが宿っていた。

 骸骨はゆっくりとおとがい(ヽヽヽヽ)を開いた。


〈オオオオオォォォッ!!〉


 周囲の大気を空間ごと振るわせる雄たけびとともに、骸骨は大きく開いた口から無数の《影》を吐き出した。

 吐き出された《影》の塊が洪水のように地面になだれ広がり、まるで大地から生まれるように人型の《影》が立ち上がると、次々と猫々子たちに向かった。

 二股は風みたいに跳躍すると猫々子を飛び越え、《影》の群れの先頭に踊り込んだ。

 着地と同時に数体の《影》を引き裂き、群れに向かって猫の声で威嚇した。

 群れの視線は一斉に化け猫を注視すると、そこへ向かってワラワラと動き出した。

 二股は《影》を引きつれ、猫々子から遠ざかるように駆け出した。


 巨大な骸骨は天に向かって反り返り、まぬけな手駒に(いか)って咆哮すると、長いリーチで手を伸ばして猫々子の頭上に振り下ろした。

 戦車みたいな質量の手で打ちつけられ、アスファルトは轟音をあげて陥没した。

 その手をゆっくりと持ち上げ、骸骨は凹んだ地面に大きな顔を近づけた。

 だがそこには猫々子の姿はなかった。

 骸骨は自分の手のひらを返してみたが、そこにはアスファルトの破片が圧着されているだけだった。

「ここよ!」

 声のする方に骸骨は視線をやった。

 猫々子は宙に浮き、のろまな巨漢を見下ろして笑った。


 骸骨はひと声叫ぶと、大地を蹴った。

 鯨みたいな重量がフワリと宙に浮いた。

 だがその重さが到達するより速く、猫々子の体は別の場所に移動した。

 空振りに終わった巨体はガラガラと建物を押しつぶし、地面に大きな人型の跡を刻んだ。

 グルグル唸りながら骸骨が顔を持ち上げると、遠くから猫々子が言った。

「ほら、こっちよ!」

 骸骨は憎悪をたぎらせて疾走した。行く手を阻む建物をすべて踏み潰し、積木みたいに蹴散らしながら、信じられない速度で移動した。

「どうしたの! おいで、のろまさん!」

 猫々子はケタケタ笑い、相手を挑発しながら、家々の屋根伝いに飛び跳ねた。


 腐った夜空に浮かぶ腐敗した月に照らされ、大小ふたつのシルエットが市街地を蹂躙(じゆうりん)した。

 猫々子は山岳地帯で暮らす偶蹄類(ぐうているい)の身軽さでビルや屋根を飛び越え、その建物を破壊しながら巨大な骸骨があとに続いた。

 骸骨は必死で猫々子を追いかけた。眼球のない目は真っ赤に血走り、憎しみ以外のどんな感情も詰まっていなかった。


 猫々子は逃げながら、いつしか笑うのをやめていた。

 たとえ《影》でも彼女(ヽヽ)の中にとぐろを巻いて居座る憎悪は、狂った母親そのものだったからだ。

 美弥子として生きた猫々子には、それが痛いほどわかった。

 わが子に対する屈折した怨みはホンモノだった。確かにアレは自分(ヽヽヽヽヽ)の母親なのだ(ヽヽヽヽヽヽ)……!


 彼女(ヽヽ)の思考が猫々子の中になだれ込んだ。


〈ミーヤアァァアーコォー!〉

──お母さん……!

コーシテ(ころして)ヤルウウゥ(やる)……!〉

──どうして?

オマアーエエガァアア(おまえが)アァノォーヒィトー(あのひと)ゥバアァーアー(うばつた)

──でも、殺したのはお母さんだわ!

ウウウアアーイィィー(うるさい)!〉


 ()は振り上げた手を打ちおろした。

 猫々子が蹴った直後の車の屋根が、紙クズみたいにペシャリと潰れた。


オォーマアアガー(おまえが)ユーワアグゥー(ゆうわく)シイタアアーカアー(したから)!〉

──ちがう! わたしじゃない!

オアァーイー(おなじ)ォオトォーアアー(ことだ)!〉


 彼女(ヽヽ)は宙を舞った。


アアシアァ(わたしが)オマアーオ(おまえを)ウゥンラアア(うんだから)!〉

──……!!


 数十トンもの重量が大地にのしかかった。

 猫々子は潰される直前に進路を変え、間一髪で骸骨のダイブをかわした。


 そうなのだ(ヽヽヽヽヽ)……!

 猫々子は理解した。

 彼女(ヽヽ)は狂人なりに母親としてのケジメをつける気でいるのだ。

 わが子が取り返しのつかない失態をやらかせば、気がふれた母は自らの手で決着をつけ、ずべてを終わらせるよりほかはない。

 母親の怨みを増幅し、そそのかして心を狂わせたのは確かに《影》だ。

 だが強い怨みに凝り固まった《影》は、ときとしてこの世を呪うだけの御霊(ごりよう)と化す。今では《影》自身が母親の汚濁をすべて引き受け、彼女の悪しき半身として自立してしまったのだ。

 ああ、そうなのだ(ヽヽヽヽヽ)……!


 猫々子は逃げるのをやめた。

 彼女(ヽヽ)がその気なら、自分もそれに答えようと思った。彼女(ヽヽ)の娘として。

 自分で撒いた種(ヽヽヽヽヽヽヽ)は自らの手で刈り取るしかないのだ。今まさに彼女(ヽヽ)がそうしようとしているように。


 三階建てのビルの屋上に飛び移ると、猫々子は骸骨に向き直った。

 右手の刀をそっと下に向け、凄まじい勢いで突進してくる巨体を見つめた。


 街をえぐりながら、彼女(ヽヽ)はグングン近づいてくる。

 怨念に満ちた真っ黒い目が迫る。


 そして衝突……!


 グラグラと大地をゆらし、骸骨の頭がビルの壁に突き刺さったとき、猫々子はすでに巨体の後方に跳んでいた。

 猫々子が別の建物の屋上に着地するのと同時に、骸骨の左腕が肩から脱落した。


〈グゥァァアアアアッ……!〉


 骸骨は悲鳴のような叫び声をあげ、半壊したビルから頭部を引き抜くと、反転して再び猫々子に突進した。

 そして──先ほどと同じシーンがリピートされた。

 骸骨はもう片方の腕も失った。


 それでも彼女(ヽヽ)の憎悪は消えなかった。消えるどころか怨念の火をますます燃やし、猫々子を睨んだ。


 猫々子は刀を捨て、両手を広げて母を呼んだ。その姿は美弥子に変わっていた。


──おいで(ヽヽヽ)……お母さん(ヽヽヽヽ)……!


 巨大な母親(ヽヽ)は咆哮を上げながら、ありったけの力で突き進んだ。


 ふたつの心が衝突した瞬間、太陽が百も集まったような閃光が弾けた。


 だが彼女(ヽヽ)の憎悪も、決定的な差を持つ巨大な質量も、少女の小さな胸を貫くことは出来なかった。

 怨みの念で肥大した()の体は、わが子の胸に抱かれるようにして、その小さな体に吸い込まれようとしていた。


 わが子の体に吸収されながら、()は怨み続け、泣き続けた。

〈オマエガニクイ、ニクイ……ニクイ……!〉

──それでもいい。一緒にいよう……お母さん……。

〈アアァ、ミヤコ……!〉


 ()は狂った心の炎が燃え尽きる瞬間、愛する娘の顔を思い出し、穏やかに微笑すると、完全に飲み込まれた。

 美弥子はそっと自身の胸を抱き、()の心を迎え入れた。


──おかえり、お母さん……。


 美弥子は()の名残を惜しんだあと、猫々子の姿へと戻った。


 しばらくすると、破壊された瓦礫の街の向こうから、二股が息を切らせてやってきた。

「こっちは片付いたよ。お前さんのほうはどうだい?」言ってあたりを見渡し、「なんだい、あんな図体してたわりには、骨の一本だって転がっちゃいねえな……」それから猫々子の顔を除きこんだ。

 猫々子は目を閉じ、自分の胸に手をあてて言った。

ここにいるわよ(ヽヽヽヽヽヽヽ)

「ちょいと、まさか食っちまったのかい!?」

親子(ヽヽ)だもの。一緒にいて不思議はないでしょ?」猫々子は言い、「それより早くしないと、ここはじきに閉じちゃうわよ」ツイと宙に浮いた。

 猫々子のうしろ姿を見つめ、二股はつぶやいた。

「腹でも壊さなきゃいいがねぇ……」





    (壱拾)浮世



 現実世界に戻った猫々子と二股は後始末に追われた。

 日下美弥子という少女が存在した事実を、この街から完全に消し去る必要があったのだ。

 もっとも、行方不明になった子供たちの命は返らない。一連の事件は未解決のまま風化するか、冤罪をこしらえて法的な決着をみるだろう。

 いずれにせよしばらくのあいだは(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、この街が《影》の脅威にさらされることはない。


 二股は今回の件で己の不甲斐なさに呆れ、少しばかり自信をなくしたようだった。

 化け猫いわく、「サレバ、結局あたしァ木偶だったと、そういうことだ」と落胆したが、「同じ木偶でも猫奴ァ(ちよう)サリ」と猫々子に言われ、ほとほと返す言葉もなく目を白黒させた。



    *



 ふたりは背の低い雑居ビルの屋上に陣取り、向かいにあるスナック(あかり)を見下ろしていた。

 暇を持て余した二股が口を開いた。

「なあ、姐さん。ひとつ教えておくれヨ」

 なにをだい、と猫々子。

 だが化け猫は空を見上げ、うーん、と唸ってから前言を取り消した。

「なによ、思わせぶりね」

 猫々子が笑うと、化け猫はしかめっ面になった。

「まだ死にたかァないからサ」

 それを聞いてふいに押し黙ると、猫々子は前を見たまま言った。

「今回だけは大目にみてあげる。答えるかどうかは別だけどね」

 二股は驚いて猫々子の横顔を見た。その表情はいつになく晴れやかだった。

 しばらく沈黙をはさみ、化け猫は切り出した。

「お前ィさん本当は、真人間(ヽヽヽ)になりたかったんじゃないのかい?」

 言ってから二股は身構えたが、猫々子の(かん)に触れた様子はなかった。

 うららかな陽気がふたりを包み、吹いてきた風が猫々子の黒髪を(もてあそ)んだ。

 猫々子は静かに話し始めた。


「確かにお前の言う通りかもしれない……。あたしはいい加減疲れていたのよ。うんざりするこの世界の暮らしにね。だからあの女の子宮に入ったの。自分の記憶に蓋をして、あの家の子として生まれて、いちどゆっくりと羽を伸ばしてみたかった。……でも、お前にあとを任せたのは誤算だったかしら」

「もう堪忍しとくれな」二股は辟易とした。

 冗談よ、と言い、猫々子は続けた。

「もしあんなこと(ヽヽヽヽヽ)さえなければ……連中に見つかりさえしなければ、あのまま日下美弥子として生きることもできたでしょうね……。でもどの道、戻ってくることになったと思うわ」

「そりゃまたなぜだい?」二股が合の手を入れた。

「あたしには血生臭い生き方が性に合ってるからね。それに──」

 猫々子はかたわらの猫を見つめた。

「お前みたいな寂しがりやが、ひとりでやっていけるわけがないでしょ」

 化け猫は全身の毛を逆立てて固まった。

「馬鹿。気の利いた台詞のひとつくらい吐きなさいよ」猫々子は硬直した猫の頭をはたいた。

 化け猫は「わ」と言ってビルから落ちた。

 が、すぐさま落ちた姿勢のままフワフワと浮いてきて、猫々子の視線の高さで停止した。

「けどヨ。結局あの《影》の奴らは何者なんだい?」猫は宙に寝そべって尋ねた。

片輪(かたわ)の生き物よ」言いながら、猫々子は化け猫のヒゲを引っ張り、自分のとなりへ座らせた。

 猫は赤くなった頬を撫でながら、「伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)(けが)れから生まれたっていう、出来損ないの神のことかい?」

「それだけじゃない。不具の生命体すべてがそうよ……。神話や伝説の一部には確かに真実の一端が隠されているわ。もちろん大抵は比喩だけど、現象としては同じことを示しているのよ。つまり、大きな進化の本流に乗りそこなった、本来は淘汰されるはずの生き物たちね……。鬼や妖怪、御霊(ごりよう)と呼ばれるものもそうだし、あたしが使役する鬼神だってその仲間よ」

 化け猫は腕を組んで考え込んだ。

「そういやぁ陰陽師(おんみようじ)の術が解けると、それまでこき使われてきた式神は、真っ先に(あるじ)を殺すってぇ話を聞いたナ」

「式神に限ったことじゃないわ。歴史の中に埋もれ、その存在をないがしろにされてきた《亜種生命体》の多くは、ごく自然に人間たちを怨む本能を宿しているわ……」

 二股はさらに尋ねた。

「じゃあ、あの《影》の世界を放っておいたら、いったいどうなるんだい?」

「この世の対世界だもの。きっかけさえあればこちら側(ヽヽヽヽ)にあふれるでしょうね」

「くわばらくわばら、か」

 二股が身震いすると、猫々子は何かを感じて視線を眼下に向けた。

 そしてやおら立ち上がると、ビルの上から足を踏み出した。

「ちょっと挨拶してくるわ」化け猫にそう言い残し、通りへと降りていった。



    *



 午前中の店内に客があるはずもなく、(あかり)はカウンターの席に座り、頬杖をついてぼんやりと思考を遊ばせていた。


 リン、という短いベルに(あかり)が顔を上げると、いつの間にかとなりの席に、少女がひとり腰掛けていた。

「びっくりしたわ……いつ入ってきたの?」

 言うわりに、(あかり)は少しも驚いた風ではなかった。そしてさらに続けた。

「ここは夜しかやっていないのよ──もっとも、子供の来る場所ではないのだけれど」

「気にしないで。お姉さんとお話しがしたいだけだから」まるで旧知の仲のような間合いで話しかけてくる少女に、(あかり)は心のなかで感嘆した。

「変わった子ね。でもありがとう。お姉さんだなんて」

 そして、簡素だがセンスの良い黒いワンピースを着こなし、すまし顔で席につく少女の横顔を見つめた。十歳くらいだろうか、と(あかり)は思った。

 少女はまるで物怖じしない様子で、どことなく気品があり、同時に悪女の色気すら感じられる、とても不思議で魅力的な雰囲気をまとっていた。

 少女は猫々子と名乗り、言った。

「お姉さん、子供は?」

「さすがは子供ね──ああ、ごめんなさい……。でも、答えにくいことをずけずけと聞くのね」

「それが子供の特権だもの」

 そう言ってクスッと微笑む少女に、(あかり)もつられて笑った。

「結婚はしていたけれど、私は子供が出来にくい体なの。それに夫はお墓の中よ……」

 それを聞くと猫々子は席から降り、(あかり)に向き合った。

「特権ついでにもうひとつだけ教えて欲しいの。正直に答えてくれる?」

 真面目な顔の少女にならい、(あかり)も席を立った。「どんな質問かしら」

 猫々子は言った。

「子供が欲しい?」

 これには(あかり)も少々面食らったが、すぐに微笑し、それから答えた。

「ええ。とても……。あなたみたいな子ならぜひに」


 するといきなり、少女は(あかり)に抱きついた。

 そして小声でささやいた。


──さようなら……お母さん。


「え? いま何といったの?」

 (あかり)が戸惑っていると、猫々子は(あかり)の体から離れ、店の入口まで駆けた。

 入口の扉を少し開け、(あかり)のほうを振り返った。「ひとつ予言してあげる」

 (あかり)は首をかしげた。

「まあ、なにかしら」

「もうすぐあなたの前に、いい人(ヽヽヽ)が現れるわ」

 (あかり)は思わず吹きだした。「なによそれ」

 猫々子はかまわずに言った。

「すぐに子供ができるわ。女の子よ。今度こそ本当に(ヽヽヽヽヽヽヽ)あなたの子で、きっとその子に美弥子と名づけるわ」


 (あかり)が口を開こうとしたときには、すでに少女の姿は消えていた。

「なんだったのかしら……ホントに変わった子ね」

 だがその表情には、笑みがあふれていた。



    *



 戻ってきた猫々子に向かって、二股が言った。

「まさかお前さんに予言ができるとは思わなかったよ」

「誰が予言だなんて言ったの?」猫々子は言い、「これから探すのよ(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)彼女の夫になる男を(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)

 二股は丸い目をさらに見開いた。

「お前さんが人間のために精を出すなんざ……正気かい?」

「十年も育ててもらった借りがあるからね。その借りを返すだけよ」

「こりゃあ、明日は雨かナ?」二股は両手を広げ、わざとらしいしぐさで空を見上げた。

「なにか言った?」と猫々子。

 きっと空耳だナ、と、化け猫はとぼけた。

 猫々子は二股の耳を引っ張り、天に向かって上昇した。

「さ、お前も手伝うのよ」


 青空の中に消えてゆくふたりの姿を、小鳥のさえずりが見送った。



 fin.



    ◆◇◆◇◆◇◆◇


 ──おまけ──

 ちょっとしたカットです。

 どーでもいいことをつらつら書いてます。暇な人は読んでください。



挿絵(By みてみん)

【あとがき】

 稚拙な文に最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。


 しかしこのシリーズ、本当はもっと続けるつもりでした。

 理由は後述しますが、とにかく急きょ最終話を作ることにしたので、なんというか今回のは「やっつけ感」が半端ない出来になってしまいました……。


 さて、あらすじでお判りの通り、このシリーズは基本「毎回一話完結」ものです。

 当初の予定としては、一、二ヶ月に一度くらいのペースで更新しつつ、ざっくりと二十本程度まで投下し終えたら、最終話をもってくるつもりでした。

 が、よく考えてみると、一話完結のオムニバスなら、なにも最初から「連載の形をとらなくても良かったのではないか」ということに、最近になって気づきました(汗)

 それもこれも、同時進行で「メタモルフォーゼ」の連載を始めてしまったことで思い至り、気づいた事実なのですが。(天然かよ! と自分でも呆れます……)


 ともあれ体裁としては「完結」にしますが、猫々子シリーズ自体はこの先も単発で続けます。

 もし見かけたら読んでやってください。

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