その参 賽の川原
【まえがき】
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十五世紀の終わりというから、ちょうど関ヶ原の戦いを目前に控えたころ、あるいは江戸に幕府が開かれる少し前。京の清水寺の袂に福治屋という飴屋があった。
当時、清水寺の袂に広がる一帯は京の外れであり、鳥辺野という千年来の墓所であった。福治屋の周辺もまた、茶屋が点在するほかは陰鬱な山々に囲まれた寂しい場所で、とても人の寄りつく土地ではなかった。
とはいえ盂蘭盆ともなれば、珍皇寺には精霊迎えにたくさんの人出があり、また清水寺には日詣、月詣、参籠に出向く者もいて、福治屋も細々ではあったが代々商いを続けることができた。
木々も色めいたある晩のこと。
福治屋の戸を叩く者があった……。
手代が応対に出ると、そこには赤子を抱いた若い女が立っていた。
「えろう遅うにすんまへん……お飴さん三文わけとおくれやす」
手代の男、最初は不審に思ったのだが、女が赤子を抱いていたこともあり、ああきっと夜泣きでもしたのだろうと、そのまま何も聞かずに飴をわけてやった。
女は勘定を払うと、丁寧に礼を言って立ち去った。
明くる日──。
銭箱の中に木の葉が三枚まぎれているのを、あるじの長兵衛が見つけた。そのときはとくに気にすることもなかったのだが、いざ台帳を合わせる段になると、どうしても三文ばかり合わない。
だが銭勘定に堅い京人には珍しく、長兵衛はいたって大らかな人物だったので、不思議なこともあるものだと、その場はこれといった詮議もなく終わったのだが……。
その一部始終を見知る者がいた。
下女として住み込んでいるネネという若い女だ。
実はこのネネ、本当の名を猫々子といった。
ほんのいく日か前、ひょっこりと福治屋に現れ、何食わぬ顔で下女として住み着いたのだ。もちろん誰ひとりとして彼女を咎めだてる者はいなかった。ネネは古くからこの店で働いているものだと、店の誰もがそう思い込んでいた。
人に暗示をかけるのは、彼女の最も得意とするところであった。
さて、ネネが福治屋にやってきたのは、とくに理由があってのことではない。ただの気まぐれだ。のちに世を上げての合戦が控えているとはいえ、巷は実に安穏とし、京の町へくり出したとて面白いこともなく、かといって賽の川原で風に吹かれるのにも飽いた。それで退屈しのぎにふらりと立ち寄ったにすぎなかった。
赤子を抱いた女が現れるまでは。
昨夜──ネネは店の戸が鳴る前から女の存在に気づいていた。
女の歩みが店の前でとまる。
戸をたたく音。しばしの間。さらに音──。
そのただならぬ気配にネネの胸は躍った。
そして手代が、「へえ、ただいま」と廊下を過ぎる。
ネネはそっと手代のあとを追った──ただし体は寝床に置いたままであったが。
廊下の影からそっと覗くと、ちょうど手代が飴を包むところだった。視線をめぐらせると戸のほうには女が立っていた。
その光景を見て、ネネはクックと笑った。
手代は半ば朽ちかけた亡者を相手に飴を売っていたのだ。おそらく手代の目には、ちゃんと生きた女の姿に映っているのだろう。木の葉を三枚受け取り、ご丁寧に「ほな、気いつけなはれ」などと言っている。
ネネはしばらくのあいだ、おかしくてその場で体をゆすっていたが、やがて気が晴れると、女のあとをつけてみようと思いついた。女が抱いていた赤子のことが気になったのだ。赤子は実態をともなっていなかったが、亡者ではなかったからだ。
ネネはそそくさと水屋へとって返すと、煤だらけの梁を見上げて待った。
しばらくすると、梁のあいだから小鬼が出てきた。
俗に式神と呼ばれる、陰陽師が使役する鬼神の一種だ。ネネは陰陽師でもなければ妖術使いでもないのだが、鬼どもはいつでもネネに手を貸した。
ネネに命じられた式神は、福治屋の屋根までビュン、と駆け登るや、遥か上空を飛んでいた鳥に憑き、女のあとを追った。
果たして女は、はやり亡者であった。
女は福治屋から遠ざかると急に足をとめた──が、言葉通りに足の動きをとめたというだけで、地面から一寸ばかり浮いて音もなく滑ってゆく。そして清水寺を過ぎるとそのまま松原の坂をくだり、六道の辻を通って墓地へと消えた。
六道の辻というのは、京の人が“六道さん”と呼ぶ珍皇寺の本堂前を指し、そこはまた野辺の入り口でもあった。
六道は仏教でいう《天上──人間──修羅──畜生──餓鬼──地獄》の六道であり、六道の辻はまさにこの世と地獄とを隔てる境界であった。
女がとある墓の下に消えるのを確かめると、式神はネネのもとへと舞い戻った。
「……そう。確かにまだ生きてるのね? その赤ん坊」
ネネに問われ、式神はそうだと言ってピョンピョン跳ねた。
「ちょうど退屈してたのよ。面白くなりそうね」
ネネが含み笑いを見せると、式神は声をたてて喜んだ。
*
その後もくだんの女は、夜ごと福治屋に現れては飴を買った。そして次の日には、これまた銭箱に木の葉が三枚残され、儲けの帳尻が合わない、といったことがしばらくのあいだ続いた。
さすがにここまで続けば、ただごとではないと誰もが気づく。
まさか店の者の仕業ではと勘ぐった長兵衛だったが、それにしては木の葉で誤魔化す幼稚なやり口だ。よもやそんな手際で露見しないと考える間の抜けた人間を雇った覚えもなく、ほとほと困惑するばかりだった。
すると手代のひとりが口を出した。
「へえ、そない言うたらいっつも夜遅うに、飴ぇ三文わけてくれ言うて、若いおなごがきゃはりますねんけど……」
それを聞いて長兵衛、合点がいった。
これはきっと狐か狸の仕業にちがいないということになり、力自慢の若者に言いつけて女のあとをつけさせる算段と相成った。
そしてその夜。
いつもと同じように、女が店の戸を叩く。
「……お飴さん三文わけとおくれやす」
手はず通り、手代は内心びくびくしながらも、素知らぬ風を装って女に飴を手渡した。
女は深々と礼をいい、来た道を戻っていった。
少し間をとって、屈強な若衆たちがばらばらと店を出、女のあとを追った。
さてネネはといえば、余興を見守るにはその若衆の──いや、女よりも先回りをしなくてはならない。そして今度はちゃんと体ごと、ただし“空”を行った。なにしろ亡者の先を越すのだ。のんびりと地べたの上を歩いていたのではらちがあかない。式神のおかげで場所はすでにわかっているのだ。
ネネは馳せるように宙を舞い、一直線に六道の辻を目指した。
墓地──。
女が消えたという墓を探し当てると、ネネは待った。
ほどなくすると女が戻ってきた。
「あなたの子?」
ふいに声をかけられ、女は戸惑った。
だがネネを見てなにかを悟ったのか、静かにこうべを垂れ、言った。
「どうか……堪忍しとおくれやす。この子ぉだけはあっちゃべらぇ連れてくわけにいかしまへんのや」と、あるほうを見つめた。
女の視線の先には、寺の本堂へ向けて走るひと筋の道があった。
その行く手には、ぱっくりと開いた常世への入口があった。
入口の奥、遥か向こうでは無数の餓鬼が手招きしていた。やってくる亡者を地獄へ引きずり込もうと待ち構えているのだ。
ネネは悲哀に満ちた女の顔を見つめた。そして女の記憶をたぐってみた。
女は産気づいたまま、子を産めずに死んだのだった。
その一切の光景を、そのときの母の無念と悲しみを、ネネは感じとった。
母親の無念の一心が、あるいは奇跡を起こしたのだろう。母は死んでもなお子を産んだのだ──暗い土の下で。
そして、自らは亡者となりながら、我が子のために飴を与え続けたのだ。
と、墓の下から蚊の鳴くような赤ん坊の声が聞こえてきた。
ネネは餓鬼のほうを見、それから女に近づいた。
「……ねえ。もういちど生きたくはない?」そう、女の耳元でささやいた。
ネネの言葉を聞いたとたん、女は壊れた人形のように震えだした。口をぱくぱくさせて嗚咽をもらす。
ネネはニヤリと笑い、さらに続けた。
「どうしたの? なにも難しいことなんてないのよ……。ただ生きたいとだけ望めばいいの。さあ、私に頼みなさい……!」
*
さて、そのあとの顛末だが、福治屋の若衆たちは墓の近くまで行きながら、女の姿を見失っていた。
ここで騒ぎを聞きつけたのが寺の和尚。若衆から事情を聞き、少し前に身ごもった若嫁の仏を埋葬していたのを思い出す。そしてもしやとその墓を掘り起こした。
すると、なんと墓の下から飴を咥えた赤ん坊が出てきたのだ。
福治屋の者があらためると、その飴はまちがいなく店の品だったので、子を想う母の哀れな美談として、事件は一応の決着をみた。
ただひとつ、母親の亡骸が跡形もなく消えていたことを除いて。
その後、赤ん坊は寺に引き取られ、のちに立派な和尚となったのだが、これにはまだ後日談がある。
*
賽坊という徳の高い和尚として、人々から尊貴な信仰を集めるかつての赤ん坊。ときを経てつつがなく歳を重ね、さらに修行に励んでいた。
そんなある夜。
床についた賽坊の耳に、奇妙な声が届いた。
遥か彼方から叫喚が聞こえてくるのだ。
賽坊にはそれが餓鬼の声だとわかった。徳の高い僧のもとには、餓鬼どもが寄ってくるものなのだ。その僧侶の信仰をゆるがさんがためであり、また餓鬼が自らの業を断ち切ってもらいがためでもあった。
凡俗ならば、その叫喚を耳にしただけで足がすくみ、恐怖に飲まれて餓鬼道に堕ちてしまうところだが、長い修行に耐え徳を積んだ和尚には、そんな脅しは通用しなかった。
我が信ずる教えに導かれ、和尚は一心に経を唱えた。
すると、餓鬼どもの叫喚にまじって自分を呼ぶものがあった。
「ぼう……ぼぉう……」
いや、空耳だ、と和尚は思う。
──だが“ぼう”とは“坊や”のことであろうか?
それが気の緩みであった。
いきなり何かが和尚の足首をがっしとつかんだ。
「──ええい、離せッ!!」言って足もとを見ると、そこには一匹の餓鬼がいた。
その餓鬼の顔を見た瞬間、和尚は凍りついた。
「ぼう……ぼ……う」
それが、変わり果てた自分の母親であることが、和尚には即座にわかった。
なんということだ! なんと……嘆かわしや!!
和尚は声にならない叫びをもらした。
すると、和尚の背後で誰かが笑った。
「哀れなり……餓鬼道に滅す僧侶かな」そう詠い、和尚を笑止した。
それはネネ──いや猫々子であった。
猫々子は幼い少女のなりでくすくす笑いながら、和尚とその足もとにうずくまる餓鬼の周りを飛び跳ねた。
それから和尚の耳元までやってきて言った。
「あら、嬉しくないの? お前の母親なのに……。そのひとはね、お前が恋しくて常世の淵でずっと生きていたのよ」
「……なんと!」和尚は膝を折った。
「あたしがそうしてあげたの。そのひとが生きたいと言ったから──」
「おのれ畜生かッ!!」和尚は気力を振り絞ってもがいたが、餓鬼と化した母が体に巻きついて動けなかった。
猫々子はなおも和尚にささやいた。
「そのひとは今でも自分がまともな人間だと思っているのよ。乳飲み子を亡くした母親だってね……」
和尚はうるんだ目で、自分に取りすがる母を見た。
猫々子は続けた。
「母は亡くした子を呼び戻そうと石を積む……。だけど、必ずしも母親のいる側がこの世だとは限らないのよ。ほら──そのひとは今でもお前を救おうとしているわ……」
和尚は嗚咽をもらし、ほろほろと涙を流して鬼を抱きしめた──。
やがて一匹の鬼とその倅は、宙に口を開いた暗闇へ──その地獄の入口へと飲み込まれていった……。
それを見届けると、猫々子は満足そうな微笑を浮かべ、野辺の夜風とともに掻き消えた。
あとにはささやくような、彼女の歌声だけが残った。
──これはこの世のことならず
死出の山路のすそ野なる
賽の川原の物語……
【あとがき】
最後までお付き合いいただき感謝です。
今回は「京ことば」を入れていますので、その点がわかり難い台詞もあったかと思いますが、お許しください。
さて、いよいよ次回からは新作扱いとなるわけですが、おそらくはひと月後のアップになると思います。何かの間違いで筆が進めばもっと早くに上げますが、たぶんそれはないでしょう。
遅くてすみませんです。