その弐 異類婚姻譚
【まえがき】
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「私の妻は、なにかにとり憑かれているのです……」
男は言った。
「連れ添って十年……波風ひとつ立ったことがないというのに、この頃とみに妻の態度がよそよそしい。それに、私の食べ物の趣向や服の好みをコロッと忘れる──いや、私のことばかりか、自分の食べ物の好き嫌いさえ忘れる始末です。いつかなど、日頃から『見るだけで吐き気がする』と毛嫌いしていた納豆を、旨い旨いと言いながら何パックも──それもパックごとぺろりと平らげたりするのです。またあるとき、ふたりで一緒にテレビを観ているところへ、一匹の蝿が飛んできた。すると突然、妻の口から何か長いものが飛び出し、瞬きほどの速さで見事に蝿を捕まえた! そして器用に蝿を巻き取りながら、また口の中へと引き込んだのです。私は腰を抜かして、『今お前、蝿を食わなかったか』そう聞きました。しかし妻は平気な顔で『あら。あなたも欲しかったの?』などと答える。私は途方に暮れました……。いっときは離婚という言葉も頭をよぎりました。ですが私には判ります。あれは間違いなく私の妻です。たとえどんな振る舞いをしようとも、私の愛する妻なんです……!」
そして男は泣きながら、猫々子に頭を下げた。
「お願いします。どうか……どうかあれを助けてやってください!」
「そうねえ……」しばらく考えてから、猫々子は言った。
「いいわ。なんとかしてあげる」
*
ほどなくして、ある女性が猫々子のもとを訪れた。
「……ときどきわたし、今の夫は別人ではないのか。そう思うことがあるんです」
夫人は続けた。
「夫は昔から、何をやるにも几帳面な性格ですの。それが少し前から、こう急にがさつな感じがして……。最近ではやることなすこと全てぞんざいで。風呂に入るときなど、以前の夫でしたら、どうせ洗ってしまうものですのに、脱いだ衣服は下着にいたるまで丁寧にたたんでおりましたの。それが今では脱いだら脱ぎっぱなし……もう衣類のあとをたどれば主人の居所がわかるといった具合で……。また、『えい、面倒だ』と、服を着たまま──いえ靴もなんですけど──湯船へざぶんと飛び込んだり……。食事のときなども、箸の置き方ひとつ曲がっていても気に入らなかった人が、食べ物を手づかみで食べ──いいえ、手を使うのはマシなほうで、皿から直に食べることもしょっちゅう。それにどうしたわけか、調理したものを嫌って何でも生のまま食べるんです……。そして先日、珍しく早い時間に帰宅したかと思えば、なにやら手に籠をさげていますの。それを食卓へ置くなり、いきなりわたしの目の前で、籠から取り出した鼠を生きたまま食べたんです……! わたしは泣きながら『お願いですからもうやめてください』そう懇願しました。ところが主人ときたら、『すまん。今度はお前の分も買ってこよう』だなんて、平然と答えるんです。もう恐ろしくて……」
夫人は涙をぽろぽろとこぼした。
「でもやはり……あの人は主人なんです。わたし、主人を心から愛してますの」そうして、猫々子の手をとって言った。
「おねがい、あなた。あの人を救ってください……!」
*
「まあ、面白い話ね」と、猫々子のカップに紅茶をそそぎながら少女は言った。
自分のカップに溜まってゆく琥珀色の液体を見つめながら、「ありがとう」と言い、猫々子は目を細めた。
猫々子はそのとき大人の女性の姿でそこに座っていた。
カップを手に取ると、じっとこちらを見ている少女に向かって微笑んだ。それからゆっくりと、紅茶をすすった。
少女はその様子を満足そうに眺めたあと、ポットをテーブルに置いて猫々子の向かいに腰を下ろした。
「あなたは飲まないの?」
そう猫々子に問われ、「珈琲や紅茶はまだ早いってママに言われているもの」と、少女は笑顔で答えた。
「そう……。おりこうさんね」猫々子は紅茶をもうひと口すすった。
少女はテーブルに突っ伏して、上目遣いにその様子を眺める。なにやら楽しげな顔で。
それに気づき、「あら、何なの?」と猫々子。
「ううん、何でもないわ。猫々子先生ってきれいね」
あらそう? と猫々子は微笑み返し、さらに紅茶を味わう。
「……ねえ先生。それよりどうしたの? いきなりやってきて、そんな変な話をしたりして」少女は含み笑いを浮かべて猫々子を見つめる。
「面白い話でしょう? この話にはまだ続きがあるのよ」猫々子は言うと、少女を見据えた。「私のところに別々にやってきたそのふたりね。実は夫婦なの。おかしいでしょう? けれど、もっと面白いのはね、彼らの家は、なんとここなのよ」
だがそれを聞いても少女はまったく動じなかった。相変わらず楽しげな表情だ。
猫々子は続けた。
「……彼らの話には共通していることがひとつあってね。残念なことに、彼らは子供には恵まれなかったんですって──まあ、そんなにおかしい?」
少女は笑いをかみ殺していたが、やがてこらえきれずに吹き出した。
「くふふ……きゃはははっ!」少女は椅子の背もたれにのけ反り、足をばたばたさせて喜んだ。
「おかしいのは先生よ。だって、ねえ……まぬけな先生!」ギラついた目で、「あたしは先生のことなんて知らないわ!」
猫々子は黙って微笑み返した。
少女は笑うのをやめ、真っ直ぐに猫々子を見た。
「……まだ気づかないの?」その声は、語尾に行くにつれ少女のものではなくなっていった。しゃがれた老人みたいな声だった。
そして少女は完全に声を変えた。
「わしはお前など知らんと言っておるのだ。お前はこのわしをまんまと騙したつもりだろうが、お前の小ざかしい術などわしに効くものか!」
少女の長い髪が炎のように逆立った。
「さあ、お前はいったい何なのだ。なぜここへ来た!」
言うやいなや、少女の背後からものすごい突風が吹き、猫々子に襲いかかった。
凄まじい圧力に押され、猫々子は椅子ごとうしろへ飛ばされた。
──が、壁に激突してグシャリと砕けたのは椅子だけだった。
猫々子は壁の手前で踏みとどまり、風に向かって体を傾けた。
間髪を入れずに第二波が猫々子を狙った。
生き物みたいな風は家中を駆けまわり、そこらにあるものを手当たり次第に巻き上げると、次々に猫々子目がけて投げつけた。
花瓶や灰皿、テレビ、果ては台所の調度品や包丁、冷蔵庫といったものまで、ありとあらゆる物が悲鳴とも唸りともつかない轟音を引き連れ、隊列を組んで一斉に猫々子に向かって突進した。
だが猫々子がほんのひと睨みしただけで、それらはことごとく猫々子の眼前でひしゃげ、砕け散り、木っ端微塵に消し飛んだ。砕けた無数の残骸が、まるで散弾のように周囲の床や壁にめり込み、天井に突き刺さった。
少女は唸った。
「こしゃくな真似を……!」だがその顔はすぐにいやらしい笑みへと変わった。「……ふん。威勢がいいのも今のうちだ。どうせお前はじきに死ぬ。せいぜいあと数分の命だ……」
すると猫々子は口もとをゆるませた。
「さっきの紅茶のことなら残念ね……。なにか仕込んであるのはすぐにわかったわ。これでも紅茶にはうるさいのよ」
「なんだと!」少女の顔色が変わった。
「どうやらあなたには私の暗示が効かなかったみたいだけれど……おあいにくさま。あの程度の毒では私を殺せないわ」
少女は一瞬たじろいだが、「小生意気な化け物め!」さらに風を強めて猫々子に迫った。
途方もない風圧が少女の背後で荒れ狂い、目に見えないかたまりとなって猫々子に向かった。
「あなたに言われたくないわね」そう言い、猫々子は先ほどと同じ要領でいとも簡単に突風を弾き返した。
弾かれた風は地鳴りのような声をあげ、少女の脇をかすめて部屋の壁を突き破った。
「ハアーッ!!」猫みたいに唸ると、少女の口がパックリと耳まで裂けた。
大量の血を噴き出しながら、少女はおとがいをごっそりと外し、自分の頭よりも大きく口を開いた。
「く、食ってやる……。グヒヒ、お……お前を頭からまる飲みにしてやるぞ……!」言った口からよだれのように鮮血が垂れる。「あいつらのようになッ!」
少女の巨大な口が猫々子に迫った!
──と、少女はふいに動きをとめた。
猫々子の体が陽炎のように揺れ、みるみるうちに溶け始めたからだ。
驚きのあまり身動きのできない少女の眼前で、どろどろに溶解し、すでに人の原型をとどめない元猫々子だった残骸は、水に落とした絵の具のように宙で渦巻き、やがてひとつのイメージへと向かって集結し、その姿を現した。
それは一匹の巨大な龍だった。
龍はなおも成長し、部屋の天井を突き破り、ちょうど二階のあたりから少女を見下ろした。
少女は泡を食って床に這いつくばった。
「お、お前はいったい……何だ!?」
もはや自分の手に負えないと悟った少女は、ひいひい言ってその場を逃げ出そうとした。
──が、龍の右腕がわずかに動いたその瞬間には、少女の両足は膝から下が消え失せていた。
少女はギャッと叫んでのたうちまわった。
「た、たすけてっ……!」その声は幼い少女のものに戻っていた。
“……あた……しを……ころさ……ない、で……”
血の海でのたうち、赤い涙を流しながら少女は懇願し、命乞いをした。
龍はグルル、と喉を鳴らし、にやりと笑った。その口からは青白い炎がチリチリと漏れていた。
それを見て少女の顔が恐怖に歪んだ。
再び少女が口を開こうとしたとき、ゴォという炎の一斉射が少女を飲み込んだ。
*
「なるほど……実に面白い話だ」夜景を背に化け猫が言った。
ふたりは遠くに都心を一望できる山の頂の、いちばん高い杉の木の上にいた。
自慢の尻尾をせっせと舐めながら、二股は続けた。
「……しかし、いったいそいつぁ何者だったんだろうねえ?」
さあね、と猫々子は答え、「聞く暇がなかったからね」
「ひひひっ……そんな気があったのかね?」
今は幼い少女のなりをした猫々子は、自分の背丈ほどもある化け猫を横目で睨みつけた。
二股は慌てて目をそらすと、わざとらしく毛づくろいに集中した。
猫々子は鼻で笑った。
「ふん。あれが何であったにせよ、ああいう輩はどこにでもいるわ……。生きるためにはどんな能力だって持とうとするのが生き物だもの。昔も今も、そしてこの先もずっとね……」暗闇に煌々と浮かび上がる都市を、猫々子は見つめた。
「それにしたって例の夫婦さね。あんた会ったんだろう? まさかふたりがふたりとも気が違ってたわけでもあるめえに……」と、化け猫は猫々子の顔を覗きこみ、「ねえさ、いったい何ィ見たんだい?」
まあね、と猫々子。
「夫は獣……夫人のほうは蟲に憑かれていたわ。もっとも会ったときには気配しか感じなかったけれどね」そして言葉を継いだ。「あのあと女の子の死骸から、なかば消化された《狐》と《女郎蜘蛛》が出てきたわ……」
狐と蜘蛛は別々に夫婦にとり憑いた。
だが夫婦がよほど強い気の持ち主だったのか、やがて狐も蜘蛛も、憑いたはずの相手に正気を取られてしまった。自分たちが《もののけ》であることすら忘れてしまい、完全に夫婦と同化してしまったのだ。たまたま人間のほうが正気を失ったときにだけ、隙をついて本性が出ていたというわけだ。もちろんあの夫婦にも、そして《もののけ》たちにもその自覚などなかったのだろう。
昔から《もののけ》のたぐいは人に化けたがるものだ。とくに理由のないあたりが畜生であるのだが、もしかすると狐と蜘蛛は、本当に人間になろうとしたのかもしれない。あるいは互いに示し合わせて夫婦にとり憑いたのか……。
「……そりゃあそうと」化け猫は切り出した。
「なんだってまた人間のことにそう首を突っ込むんだい、あんた」おずおずと、「長い付き合いだが、あたしゃいまだにあんたのことがわからねえ」それから腕を組み、「なあさ、お前ィさん本当に……何なんだい?」そう尋ねた。
猫々子は穏やかな口調で、だがきっぱりと言った。
「それ以上言うと、お前でも殺すよ」
化け猫はあたふたと木のうしろに身を隠した。
「馬鹿なこと言ってないで、行くわよ」
猫々子はふわりと宙に舞い上がった。
化け猫はそのあとを追いながら、聞いた。
「──で、それからどうなったんだい?」
猫々子は足をとめて振り返った。
「べつに。あのふたりを一緒にしてあげただけよ。そう望んでいたもの」そして少し間を置き、「それに、あいつらにはお似合いだわ」微笑した。
猫々子と化け猫の姿は夜空にまぎれ、やがて見えなくなった。
余談
そののち、夫婦の家は改修されるも買い手がつかず、朽ちるにまかされた。
そして取り壊されることになったおり──家の土台をさらったところ、地中から全長が数メートルにも達する巨大な蚯蚓が出てきたという噂だ。
ちなみに世界中にいるおよそ三五〇〇種の蚯蚓のうち、最大のものは体長が二メートルを越すものも確認されてはいるが、日本でそれほどの大型種が発見されたという記録はない。
ともあれ蚯蚓は雌雄同体である。家の下から出てきた蚯蚓の話が本当だとして、果たして添いとげたのはあの夫婦なのか、それとも《もののけ》たちのほうであったのか──。
【あとがき】
最後までお付き合いいただき感謝です。
未熟な作品ですが、気に入ってくださる方がひとりでもいれば嬉しく思います。