その壱 管狐
【まえがき】
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ある日、猫々子は友人から相談を持ちかけられた。
もっとも本当に馴染みがあったわけではない。どこぞの街中ですれ違ったおり、ひと目でその女が悩みを抱えているとわかったので、退屈しのぎに声をかけただけのことだ。古い友人の顔をして。
場所はどことも知れない昼下がりの路地裏。
昼どきだというのに、その喫茶店には猫々子と女のほかにはひとりの客もいなかった。
猫々子は十歳ほどの少女で、向かいに座る女は二十代の前半といったところだ。女はどこにでもいそうな、ごく普通のOLだった。友人というにはいささか不釣合いな組み合わせだが、女のほうでは猫々子のことを昔からの友人だと信じ込んでいた。
そして猫々子が促すままに、女はつらつらと悩み事を打ち明けた。
彼女の悩みというのは実に単純なものだった。最近どうにも「ウェストが気になる」というのだ。つまり、年頃の女性なら誰もがそうなりたくなりと思っている“肥満”についての悩みだった。
女は言った。
「もう毎日、毎日……体重計に乗るのが苦痛でしょうがないの」
じゃあ乗らなきゃいいのに──猫々子は思ったが口にはしなかった。代わりに「ふうん……。でもあなた、ちっとも太っていないわよ」と言った。
華奢な体つきの猫々子にそう言われ、女の目がわずかにつり上がった。
ただし猫々子は嫌味で言ったのではない。ただありのまま、客観的な感想を口にしたまでだ。女の体形はどう見ても肥満を気にする必要などなかった。むしろ医学的な平均値からすれば痩せているほうだ。
それでも女はもっと体重を減らしたいのだとこぼし、大げさにため息をついた。
「ああ、あの体重計の数字! あの数字さえ減ってくれるなら、なんだってするのに……!」
その言葉を聞き、猫々子は舌なめずりをした。
「仕方が無いわね。……いいわ。管狐を貸してあげる」
くだぎつね? と、女は反復した。
すると、いったい何処から取り出したのか、猫々子は鳥籠のようなものを女の前に置いた。木製の小ぶりな籠には黒い布がかけられている。
猫々子は言った。
「そうよ。今ではあまり必要とされていないから、ほぼ絶滅種ってところね」言いながら布の覆いを取ると──籠の中は空だった。
女は怪訝な顔で猫々子を見た。
猫々子はクスクスと笑った。
「普段はね、人の目には見えないの。いいこと──」猫々子は女と籠のあいだに、占い師が使う水晶みたいな透明な硝子球を──籠と同じく何処からともなく取り出して──そっと置き、「その球を通して見てごらんなさい」言った。
女は眉間に皺を寄せつつも、猫々子の言葉に従った。
そして「あっ」と声をあげた。
硝子球を透かして、籠の中に一匹の動物が見えたのだ。
それは真っ白な毛皮をまとったイタチみたいな生き物で、つぶらな瞳がまるでぬいぐるみのようだった。
「まあ、かわいい!」女の顔がほころんだ。
猫々子は話を続けた。
「狐といっても本当の狐じゃないの。そうね……たぶんヤマネやオコジョなんかが、こいつの遠い親戚だと思うわ」そして間を置き、「こいつはね。とても不思議な“力”を持っているの。きっとあなたの望みを叶えてくれるわ」ニヤリとした。
望みが叶う、という台詞に女は反応し、同時にその意味を理解した。
「でも、この可愛い姿が見えないのは惜しいなあ……。ね、ガラスの球もつけてくれない?」と女。
猫々子は肩をすくめた。
「それはダメ。でなきゃ意味がないの。こいつはね、人に姿を見られていると働けないもの」
女は残念がったが、それでも効果があるならと、喜んで管狐を借り受けた。
*
その後、女は猫々子の指示に従い、空っぽに見える籠を部屋のいちばん高い場所に置き、毎日餌を与えて過ごした。
喫茶店で見た、あの小動物の愛らしさを楽しめないのは悔しい気もしたが、もとよりそんなことは女にとって二の次だった。差し入れた餌はいつの間にか消えているのだから、籠の中になにががいることは間違いないのだ。そいつが自分の望む効能さえ提供してくれるなら、籠の中身が管狐だろうとそうでなかろうと、女にはどうでもいいことだった。
そして女が六つの朝日を迎え、七度目の月を見送ったその翌朝、状況は一変した。
管狐の効果はてきめんだった。
女が体重計に乗ると、なんと数字が減っていたのだ!
しかもどんなに飲み食いし、自堕落な生活をしようとも効果は変わらなかった。
女は嬉々として有頂天になった。こんなに楽をして体重が減るだなんて、まさに夢のようだった。
*
だが話はそれで終わったわけではない。
そもそも管狐というのは、主に北陸や中部に生息する生き物で、古くから吉凶を占う卦などに用いられた歴史を持つ動物だ。
彼らのうち、人里離れた奥地に生息していたものが今日のオコジョやイタチ、またヤマネなどの原型となったのだが、ときに里の道筋や辻、あるいは特定の家屋に居ついたものは魔力を持ち、《管つき》や《管屋》などと呼ばれ、人が富を得るために飼い慣らされた時代もあった。
管狐の最も得意とする仕事は《秤騙し》というものだった。その名の通り、主人に有利なように秤を誤魔化すのだ。
例えば主人が物を売るときには秤に乗って品物を重くし、逆に買う場合は分銅にぶら下がって目方を軽くする、といった具合だ。そのほかにも井戸や鉱脈の場所を探り当てたり、商売敵にとり憑いて商売ができないように邪魔したりといった、こまごまとしたこともやってのけた。なんとも幼稚なやり方のように見えるが、古い時代にはこれで充分に蔵のひとつやふたつは建ったのだ。
やがて人間の暮らし向きが移ろい、管狐の働き手も不要になると、彼らは次第に人々の記憶から葬り去られてしまったというわけだ。
*
話を件の女に戻そう。
管狐のご利益に味を占めた女は、当然ながら猛烈に食った。
なにしろどんなに食べても体重計の数字は増えないのだから。
日に三度の暴飲暴食に加えて間食をし、夜は屋台のはしごに勤しんだ。それまで日課としていたジョギングやジム通いもやめてしまい、休みの日には一日中食べて惰眠を貪るといった有様だ。その行き着く先はもちろん《肥満》だった。
半年もしないうち、女はぶくぶくに太った。
もはや以前の彼女とはまったくの別人と化し、着る物はすべて通販に頼った特注サイズへと変わっていた。段々の数を数えるのも億劫なお腹は子持ちのトドみたいに膨れあがり、顎と首の境は見当たらず、自分の手で靴紐を結ぶことさえ困難になりつつあった。このままいけば、備え付けのユニットバスが彼女の巨体を受け付けなくなるのも、そう遠い日とばかりは言えない状況だった。
普通なら、そうなる前に変化してゆく自分のお腹に気づきそうなものだが、それほどまでに女は目がくらみ、いわば神がかり的なご利益という魔力にとり憑かれてしまっていたのだ。もちろんそこに彼女を向かわせた要因の中には、人に暗示をかけるのを得意とする猫々子の気配りも含まれているのだが。
とはいえ、転んだ拍子に自重のせいで足を骨折するに至っては、さすがに女も夢から醒め、悲惨な現実を直視するはめになった。
そのときになって女はようやく慌てたが、なにもかもが手遅れだった。もう以前と同じ量の食事では我慢できなくなっていたのだ。いちど覚えてしまった快楽は、そう簡単には忘れられないということだ。
それからというもの、女は会社も休みがちになり、部屋に閉じこもることが多くなった。単なる知人は言うに及ばず、大の親友といえる相手ですら部屋に寄せ付けなくなり、外出するのはもっぱら深夜、コンビニに食料を買いに行くときだけだった。
部屋にある鏡という鏡はすべて打ち捨て、自分の姿が映りこむような、表面のつるつるした物まで真っ黒に塗りつぶした。もちろん、管狐の籠も滅茶苦茶に叩き壊して捨ててしまった。
*
それからしばらくのち。
頃合を見計らった猫々子が女を訪ねた。
「ごきげんよう。そろそろ管狐を返してもらおうと思って寄ったの」
戸口に立つ猫々子は初めて会ったときと同じように華奢で、そして人形みたいに愛らしい容姿をしていた。
その姿を見て、女はなおさら醜く太った自分を感じた。
「あ、あんたっ!?」女は声を震わせ、口をぱくぱくさせた。その狼狽はすぐさま猫々子への怒りへと変わった。「どうしてくれるのよ、この体っ!!」
「あら。あなたが自分で望んだのよ」猫々子は涼しい顔で答えた。
「私を……私を騙したのねっ……! このペテンッ!!」
女は泣きながら、思いつく限りの言葉で猫々子を罵倒した。
猫々子はまるで馬耳東風といった様子で、まくしたてる女には目もくれず、部屋の奥を覗いて猫でも呼ぶように舌を鳴らした。
すると、いったい今までどこに隠れていたのか、部屋の奥から管狐が現れた。
管狐はちょこまかと部屋を横切り、可愛らしい動作で猫々子の体を駆け上がると、その肩にちょこんと収まった。
それを見て、女はなにかわめきながら台所へ走っていくと、包丁を取り出した。
「このっ……嘘つき──悪魔ッ!!」
女は恐ろしい形相で猫々子に包丁を振りかざした。
猫々子はお腹をかかえて笑った。
「だって、あなたが言ったのよ。体重計の数字が減ればいいんだって」
その台詞で、女の自制心はどこかへ消し飛んだ。
女は言葉ともいえない不明瞭な叫びをあげ、猫々子に飛びかかった。
その瞬間──
猫々子の体がふわりと宙に浮き、女の包丁は空を切った。
「自業自得よ、お馬鹿さん」猫々子は上空から女を見下ろし、ケタケタと笑った。
女は愕然としてそれを見上げた。
猫々子は肩の管狐を優しく撫で、それから女に言った。
楽して何かを得ようとすれば、必ずそれに見合った代償があるものよ。
そうして、猫々子は煙のように消えてしまった。
女は言葉を失い、虚ろな心でその場に崩れた。
その姿は風景の一部のようにそこに凝り固まり、いつまでも動かなかった。
【あとがき】
稚拙な文にお付き合いいただき、感謝です。
あらすじでも触れていますが、残念ながら連載途中で同人から足を洗ったため、原文はたったの三話で封印されてしまった不運な子です……。当時の設定ノートもすでに手元になく、四話以降の展開をどうするか、今から頭をかかえています(苦笑)
二話および三話については修正を終え次第アップしますが、四話から先は新作になりますので、投稿までには(執筆ブランクのリハビリ中につき)少々お時間をいただくことになりそうです。