百色眼鏡
残酷というほどではないと思いますが、首をしめるなど痛々しい表現を用いてます。
加速を始めた心臓は脳を支配して体を乗っ取る。
制御できない体は心臓と同じくらい加速して加速して加速して走る走る走る。
息切れしても喉が痛くても私はあの笑顔に殺されるために足を止めない。
私の足が止まる時は殺された時か死んだ時。
「奏」
ああ、もうほらそんな笑顔を見せられたら私は心臓を差し出したくてしょうがないのに。
そう言ったら、きっと貴方は大変おかしそうに顔を吊り上げながら「じゃあ差し出して? 食べてあげる」なんて言うに決まってるから言わない。
だって差し出してしまったらおう貴方に殺してもらうことができないってことでしょう。
ああ、もう。
今日はどこにいるの?
「奏」
あら、こんな近くいた。
「灯台もと暗し」
「何が?」
「貴方が」
息を切らしながら口と鼻の両方で空気を吸って吐いて階段を上ってきた彼を指差す。
「人に指を向けるなって習わなかった? 」
「さぁ? そんな昔のこと忘れて当然よ」
「だから君はバカなんだね」
「好きでバカなんじゃないもの」
私の人差し指を左手で握って、へし折るみたいに力を入れて右手で左の頬を暖める。
「じゃあそんなバカな君に躾をしてあげる」
右手の人差し指が痛い。
「ねぇ、知ってる? こういうのは躾っていうより虐待って言うの」
「虐待っていうのは無力な相手に一方的に暴力を加えることなんだよ」
「まさに今の状態でしょ」
「それは違うよ、君の存在そのものが僕には暴力なんだから。むしろ今まで虐待を受けていたのは僕ということになる。だから君はそ罪を泣いて許しを請わなくちゃいけない」
全く当然だという顔で私を見下ろして、右手を握る左手がぱっと離れた。
今度は私がその左手を右手で掴んで、まだ左の頬に当てられてる手に左手を重ねる。
「何?」
「泣いて許しを請おうかと思って」
「今さらもう遅いよ、君は死刑だ」
そういうと彼は普通に笑って、目を開けたままの私の顔に近づいてすぐ離れた。
温かかった唇は風と気温でちょっと寒くなる。
「大丈夫。君は僕に殺される限り何度も息を吸えるよ」
「でも私の命は一つだもの」
「じゃあ僕に差し出せばいい。そしたら食べてあげる」
「嫌よ」
眉間に酔ったしわが深すぎて痕が残ってしまいそうだと思った。
「僕の中で君の心臓は鼓動を打ち続けるのに」
「でも私がいなくなってしまう」
「ああ、そうか、もう君に触れなくなってしまうのは嫌だな」
全然嫌そうに見えない顔をして、私に掴まれた腕を返して、手の指達を絡ませる。
それから思いついたように目を開いて口が踊る。
「あっはは、そっかぁ、気付かなかった」
「なあに?」
「僕は君に触れていたいし、触れられていたい」
風で乱された前髪を頬に当てていた手で直してくれて、息が交換しあえる位顔の距離が縮む。
「僕を食べるのさ」
続けて彼は穏やかに笑って空を見た。
「ほら、そうしたら内側から僕は君を触れるし君もいつまでも一人じゃない」
「どうして?」
「だって僕の心臓は君の中で鼓動を打ち続けるから」
貴方の目は本気そのものだし絡ませた指はいつの間にか爪が立てられてて私の手の甲は幻覚には浸らせてくれない。
「バカなこと言わないでちょうだい」
「うん、ごめん君に僕を殺せるわけがない。だって君は僕が命なんだもの。知っているよ」
一層に爪の痛さは増すけど、その痛覚でこの人の目を逸らすことはできない。
もう、痛すぎて血が出てるんじゃないかとか思うけどだからって別にどうでもいいし、今こうやって触れられていることが何も考えなくさせる。
「ほら、目を開けたまま寝ちゃだめなんだよ。わかる?」
「寝てないわ。ただ生きてるのを忘れてただけ」
「じゃ、よかった。生きてるのを思い出してくれて。じゃないと僕はもう一生誰からも愛されなくなるところだった」
安心した表情をするかと思えば、その顔は酷く残念そうでこんなことならば私はさっき本当に息を引きとってしまっていれば良かった。
と思った。
「愛されたいの? 」
「どうだろう」
「愛って何? 」
「僕が君の命になること」
とても晴れやかに笑う。
ところが私は雨が好きなのでした。
「でも君が死んでも僕は死なない。それは僕の命は僕だから。君の命が僕でも僕は今にでも死ねるよ? だって僕について来てくれるんでしょ? 」
彼はわたしから目を離さずに言う。
「貴方の目には魔法でもかかっているの? 」
「そうして? 」
「吸いこまれそう」
「妄想だね」
「空想よ」
くすくすと笑いながら彼の指が私の耳をなぞる。シャワーの水が流れるみたいに裏を通って顎の骨を進んで首に指が添う。
冷たい指が脈の上に来て、跳ねる度に冷たい。
「蛙みたいに飛び跳ねているよ。僕が蛇だったら君を丸ごと飲み込んであげられるのになぁ」
首に触る手の指先だけが強くなって気管が圧迫されて吸いこんだ息は風を立てたみたいな音がした。
「蛙なんてロマンがないわ」
「カエルの王子様はキスをされて人間に戻るんだ。だけど君は王子様じゃないからキスをされると蛇になってしまうんだよ」
爪は離されていて、空いてる首のスペ-スに埋められていた。
「王子様じゃない蛙の君は僕という蛇にキスされて恋をして自分もいつの間にか点滴の蛇となって仲間を食べていくんだ。少しロマンチックじゃないか」
興奮しているのか貴方の手はますます力を増していく。
少し息がしづらくなって口から吸うようになると、それを見て楽しそうに貴方は笑った。
そして言った。
「奏」
ああ、私はこの人に出会ってから今日で何ヶ月目だったか、その度私は何度この人の手によって殺されたことだろうか。
「ねぇ、愛してるよ奏」
私の名前を呼びながら微笑む貴方は確かに蛇でその瞳に映る私は蛙でビクリと動くことはできない。
「どうしたの? 」
自分が首を絞めているのに、それを原因と思わないで心配そうな顔で私の目を覗く。
例え貴方が原因だとしても、そんな顔をしてほしくないから私は嘘を吐く。
「何でもない」
声帯が押さえられているから声はカラカラだ。
「ねぇ、何してほしい? 」
私の声が面白いのか、本当のことを言わないでイライラしているのか酸素が足りなくてちょっと考えられない。でも、貴方のそんな笑顔が好きだからどうでもいい。
「私を蛇にして」
彼は私の首を握り持ったまま、自分の方へと引っ張って自然につま先立ちさせた。
それでも身長が足りない分はかがんで距離を縮めてくれる。
喉がつっかえて、はぁはぁ吐息をする私の二酸化炭素ごと丸呑みして咬みつかれた。
「あぁ、この毒で私は死ねるのかしら」
「死ねるよ、だって、僕の毒だもの」
あ、またその笑顔に殺された。