第9話 凪の季節
◇◆◇
プロローグ あれから
セミの声が、校舎の壁を突き破るような勢いで鳴り響いている。
あんなに繰り返した「死の春」を通り過ぎ、
気づけば季節は夏へと移り変わっていた。
夏休み。
本来なら、受験を控えた高校生にとって勝負の季節だが、今の冬真にとってはそれ以上に「生き延びている」という事実が何よりの奇跡だった。
(……あれから、何も起きていない)
神谷が美月を執拗に追い回すことも、
誰かが毒入りのドリンクを飲むことも、そして自分が命を落とすこともなかった。
鏡花との、あの放課後の接触以来、世界は驚くほど「普通」に回り続けている。
鏡花のことはまだ信用していないが、別に、変わったことはない。
◇◆◇
「冬真くん、かき氷溶けちゃうよ?」
隣で美月の声が弾んだ。
駅前の商店街。地元の夏祭りは、猛暑にもかかわらず大勢の人で賑わっていた。
浴衣姿の美月は、少し照れくさそうに笑いながら、
イチゴ味のシロップで真っ赤になった舌を出してみせる。
「あ、ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
「もう、せっかくの夏休みなんだから。
……ねえ、冬真くん。最近、なんだか顔つきが大人っぽくなったね」
美月が覗き込むように顔を近づける。
その瞳には、かつてのループで見たような絶望も、
自分をかばって死んだ男を悼む影もなかった。
「そうか? 自分じゃよくわかんないけど」
「うん。……なんだか、ずっと遠くを見てるみたいで、たまに怖くなるよ」
美月の言葉に、冬真は胸の奥をチクリと刺されたような痛みを感じた。
幸せだ。間違いなく、今、自分はこの手で望んだ未来を掴んでいる。
神谷とも、表面上は良好な関係を保っている。
あの日、鏡花に言われた通り「直した」結果がこれだ。
しかし、その平穏を保つために、冬真は常に鏡花と無言の取引を続けていた。
彼女が神谷を制御し、自分が美月を支える。
それは、薄氷の上を歩くようなすぐにでも壊れそうな関係だった。
◇◆◇
人混みを離れ、神社の裏手に差し掛かったところで、冬真はスマホの振動を感じた。
画面を見なくてもわかる。このタイミングで連絡してくる相手は、一人しかいない。
『今、美月さんと一緒よね。邪魔して悪いんだけど、ちょっとだけ話せる?』
鏡花からのメッセージだった。
冬真は美月に「ちょっと電話」と嘘をつき、木陰に移動する。
「……何だよ、今祭りの最中なんだけど。
てか、まだお前のこと、信用してねぇんだからな?」
「ごめんなさいね。でも、少し困ったことになったの」
電話越しの鏡花の声は、夏風のように冷ややかだった。
「神谷くんの様子が、最近おかしいの。……記憶が混ざり始めてるみたい」
冬真の背筋に、冷たい汗が伝った。
「混ざってるって……どういうことだ」
「あなたのことを、何度も殺した夢を見るんだって、
泣きながら私に相談してきたわ。
……冬真くん。この世界、少しずつ“ガタ”がきてるんじゃない?」
遠くで上がる打ち上げ花火の音が、冬真の耳元で爆発したように響いた。
直したはずの世界。誰も死なないはずの夏。
だが、神が暇つぶしに与えた「力」の残滓は、まだ彼らを離してはくれなかった。
「……これから、どうするつもりだ」
「私に名案があるわ。でも、そのためには美月さんの協力が必要なの。
……彼女、まだ『何も知らないフリ』を通すつもりかしら?」
鏡花の言葉に、冬真は振り返る。
そこには、かき氷を手に、じっとこちらを見つめる美月の姿があった。
その瞳は、いつもの優しい彼女のものではなく、
どこか全てを見透かしているような――鋭さを帯びていた。




