第7話 付与
◇◆◇
プロローグ 付与
『ふふふ……でも。どうして、彼女に力を与えたの?』
声は、近い。
確かに彼女の耳元で囁かれているはずなのに、距離という概念が存在しない。
上下も、前後も、広がりもない。
ただ、意識だけが接続された空間で、会話だけが成り立っている。
「暇だから、だよ」
男はあくび混じりに答えた。
言葉に重みはない。
世界を書き換えるかもしれない行為を前にしているという自覚すら、ない。
『……ほんとに?』
声はくすりと笑う。
『“暇”って言葉、あなたの中では便利よね。
退屈、興味、期待、残酷さ……全部それで誤魔化せる』
「誤魔化してるつもりはないさ」
男は肩をすくめる。
そこに身体はないはずなのに、仕草だけが自然に再現される。
「ただ、条件が揃っていた。
観測対象として、ね」
『条件?』
「歪みに気づける感性。
それを受け止めてなお壊れない精神。
そして――“誰かを強く想う心”」
『ああ……』
声は、納得したように息を漏らした。
『つまり、壊れやすいし、すぐ直る』
「ああ。そうとも言うな」
男は否定しない。
『新しいおもちゃが欲しかっただけじゃないの?』
しばしの沈黙。
否定は、なかった。
男は小さく首を傾げ、
「まあ、バレたか」とでも言うように、軽く会釈する。
「与えただけだ。
どう使うか、いつ壊れるか――それは彼女次第だろう?」
『もし、世界ごと壊れたら?』
「それも含めて、データだ」
冷たい言葉。
だが、それを残酷だと感じる感性は、ここには存在しない。
二人は、同時に視線を遠くへ向ける。
そこには、
まだ何も知らず、
運命に囚われた、ひとりの少年の世界があった。
「俺たちは、遠くで見ていよう」
『ええ。どう転ぶか……とても楽しみ』
笑い声が、
世界の外側で、静かに重なった。
◇◆◇
冬真は、その日を「普通の日」だと思っていた。
空は曇っていた。
だが、冬の空なんていつもこんなものだ。
吐く息は白く、指先は少し冷える。
それだけのこと。
胸の奥に、かすかなざわつきがあった気もするが、
理由のない不安など、誰にでもある。
――今日は、特別な日じゃない。
そう、自分に言い聞かせながら、学校へ向かっていた。
鏡花とは、最近なぜかよく話す。
神谷の恋人。
それが彼女の立ち位置のはずだった。
悪いやつかと警戒してたが。
なのに、
いつの間にか、冬真と話す時間の方が長くなっている。
「ねえ、冬真くん」
呼ばれた瞬間、
心臓が、ほんの少し跳ねた。
それが恋なのか、
それとも、説明できない警戒なのか。
冬真自身にも、まだわからない。
「もしさ」
鏡花は歩きながら、前を向いたまま言う。
「“同じ毎日”が、急に壊れたら……どうする?」
唐突だった。
冗談のようにも聞こえるし、
やけに真剣な声音にも聞こえる。
「壊れたら?」
冬真は、少し考えてから答える。
「……まあ、直すんじゃないか」
「直らなかったら?」
即答できなかった。
「……その時は、別のやり方を考える」
鏡花は、足を止めた。
そして、
なぜか懐かしむような目で、冬真を見る。
「そっか」
その笑顔が、
なぜか、記憶の奥に引っかかった。
◇◆◇
帰り道。
夕方の光が、やけに白く見えた。
音が、遠い。
街のざわめきが、薄い膜越しに聞こえる。
次の瞬間――
冬真の意識は、唐突に途切れた。
衝撃は、ない。
痛みも、恐怖も、叫びも。
ただ、
「ああ、終わった」
という感覚だけが、後から追いついてくる。
◇◆◇
「……は?」
冬真は、自分の部屋で目を覚ました。
カーテン越しの朝日。
鳴り響くスマホのアラーム。
見慣れた天井。
――生きている。
それが、最初の確認だった。
夢?
そう思おうとする。
だが、胸の奥に残る
説明できない欠落感が、それを否定する。
時間を見る。
日付を見る。
「……昨日?」
昨日が、もう一度来ている。
理由はわからない。
何が起きたのかも、わからない。
ただ、一つだけ。
「何かに……終わらされた」
その確信だけが、消えなかった。
◇◆◇
学校へ行く。
会話をする。
授業を受ける。
すべては、同じ。
なのに――
細部が、微妙に違う。
鏡花が、まだ話しかけてこない。
神谷が、昨日より穏やかだ。
美月の視線が、ほんの一拍遅れる。
気のせい。
そう思える程度の違和感。
だが、
それが積み重なると、無視できなくなる。
昼休み。
ふと視線を上げると、鏡花と目が合った。
彼女は、冬真を見て――
「ああ。ちゃんと戻ったんだ」
と言いたげな顔をした。
言葉にはしない。
けれど、確かに“理解している”目だった。
冬真は、考えないようにする。
考えたら、
何かが壊れる気がした。
人は簡単に、
「なかったこと」にする。
夢だった。
疲れていた。
勘違いだ。
そうやって、自分を守る。
だが夜。
目を閉じた瞬間――
途切れた直前の感覚が、鮮明に蘇る。
近すぎる距離。
鏡花の声。
そして――終わり。
「……あれ、俺……何してたっけ……?」
◇◆◇
『ほら。まだ理解していない』
『かわいい反応ね』
遠くで、誰かが笑う。
「最初は、こんなものだ」
『彼女は、うまくやった?』
「ああ。付与は成功している」
『でも、もうやめましょう。
私たちが干渉するのは、ここまで』
「……同意…するか…」
冬真は、知らない。いや、覚えていない。
自分が、
もう一度始まってしまったことを。
そして、
一度、確かに死んだことを。
鏡花は知っている。
――一度、終わらせたことを。
そして世界は、
同じ形を装いながら、
静かに、確実に歪み始めていた。




