ある母の遺言と娘の手記
「母親の遺言書」
これから起こることを予想して、あらかじめ遺書を残しておきます。
私は、母として、失格です。
そのために、娘に殺されます。あの子を少しでも守るためにこの手紙を書きます。
あの子は、とてもカワイソウな子でした。私が馬鹿な男に騙されて、身籠り、母親1人でも育てたいから産むという私のエゴによって生んでしまった子です。私は、子供を育てることがどんなに大変なことか知らなかった。大学を中退して子供を産むと決心した私を、両親は許しませんでした。孕ませた男のほうに養育費を頼るのも、死んでも嫌だった。今考えると変なプライドなんか捨てて、頭を下げて金を無心すればよかった。私の足りない頭では、生活保護に頼ることもできませんでした。私なんかが、国民の税金に頼ってはいけない。生活保護なんかに頼りたくない。あの子にはとても貧しい思いをさせました。でも、それでも一日に一食は食べさせてたんです。私は三日食べない日も多くありました。着せてあげられる服も少なくて、私のおさがりの服をを子供用の服に直して着せていました。家が貧乏で、みすぼらしいせいで、あの子は幼稚園や学校でも相当いじめられていたようです。
でも、誇りは失うな、と教えてきたつもりです。どこにいっても、恥ずかしくないような、強い子に育てたい。私のようにはなってほしくない。私の過ちを繰り返してほしくない。
あの子は、父親のこと、家が貧しいことで、私によく癇癪を起こしていました。時には殴ったり、蹴ってきたこともあります。でも、それはあの子が悪い子だからじゃない。私があの子を勝手に産んで、育てたかったせいなんです。私のせいなんです。だから私は殴られて当たり前なんです。あの子のことを分かってあげられるのは私だけなんだ。あの子は私に甘えたかっただけなんです。
いつか私はあの子に殺されるでしょう。これは私が受けるべき罰なんです。潔いあの子のことですから、きっと警察には自首するでしょう。その時、あの子を守れるようにこの遺書を書きます。他殺なんかじゃありません。自殺です。私は自殺するんです。私は死ぬべきです。どうか、この遺書が、あの子のことを守りますように。
「娘の手記」
弁護士に言われたので、この手記を書いています。弁護士は最初、私がやったことについて外部に話すことに反対をしていました。しかし、世間の同情を集めた方が良いと言われたので、今、重たい腰をあげて書いています。別に私は量刑が軽くなることを軽く望んではいません。殺人罪か、自殺幇助罪か、そこにどんな違いがあると言うのでしょうか、私は刑期を全うしたい。しかし、弁護士は裁判官の判決に対して、控訴をしたいそうです。それは、弁護士が母親の遺言を入手したから。ここに至っても母の横やりが入ると嫌なので、私の口から真実を語りたいと思っています。どうか、私の言葉がそのまま皆さんに届くといいなと心の底から願っています。
まず私の生い立ちから語らねばなりません。私の家はご存知のとおり、母子家庭です。父親は、私が生まれる前からおりませんでした。母が言うには、私たちを置いて別の女のところに行ってしまったそうです。父親については特段興味はありません。しかし、父親が不在であることについて他人からとやかく言われることは大変不快なことです。私が今刑務所にいることを、父親の不在と結びつけられることも大変不愉快です。
父親がいるということは、そんなに偉いことなのでしょうか。私が小学5年生の時、クラスのみんなは私に父親がいないことを何故か知っているようでした。私から話したわけではないのに、この手の噂の広がりは早いものです。
学校から帰っても私はまだムカムカしていました。ムシャクシャする。腹の居所が悪い。家の玄関に飾ってあった猫の陶器の置物を、私は衝動的に掴んで壁にぶつけました。陶器は壊れず、大きな音をたてて床に転がるだけであった。私はそれにもむかついた。猫の置物を蹴りつけ、部屋の奥のほうに飛ばしました。今思えば、そこまでやらなくてもいいと思います。
次に母の寝室に向かい、化粧台に置いてあった化粧品をすべて床に落としました。母は見栄っ張りで、たくさんの化粧品を台の上に置いていました。それらが大きな音をたてて床に落ち、転がっています。私は少し満足した思いがしました。化粧品のいくつかを蹴りつけ、私はふて寝をするために自分の寝室に向かいました。
ふて寝から起きるとすでに夜の11時でした。母は仕事から帰ってきて、すでに床についているようだです。居間に行くと、私のためのお夕飯が机の上に置いてありました。焼きそばを作ってくれたようです。ラップがかけてあります。私はそれを見てとにかく悲しく、とにかく腹がたったのを今でも覚えています。猫の陶器と同じように、母の化粧品と同じように、そのやきそばもテーブルから床に落としました。焼きそばにはラップがしてあったので、そこまで派手に飛び散りませんでしたが、お皿はひっくり返り、中身は空しく床に広がりました。結構大きな音がしましたが、母が起きてくる気配はありません。私は猛烈な怒りを感じ、母の寝室に向かいました。
母は仕事で疲れていたのか、まったく起きる様子がありません。私は母の上に馬乗りになると、母の首を渾身の力を込めて締めました。さすがの母もびっくりして飛び起き、私の腕を解こうとしましたが、すぐに諦めたように私に抗うことをやめました。小学生の私でも、結構な力があったことでしょう。母は顔を歪めていましたが、じっと首が締まるのに耐えていました。私は、思いっきり母の首を締めましたが、なかなか死ぬ気配がありません。そのうち、首を締めることに疲れてしまって、母の首から腕を離し、母のほうを振り返らずに自分の部屋に戻りました。後ろのほうで、母がせき込む音が聞こえましたが、母は何も言わずに、その夜は終わりました。
母は私がどんなに癇癪を起こしても、どんなに怒鳴りつけても、私を叱ることはありませんでした。諦めたように黙り込み、悲しい顔をするだけでした。私はそれが気に入らず、ますます母に向かっていくことが多かった記憶があります。
そんな私にも誇れるものがありました。バレエです。バレエは6歳の頃から始め、今でも練習をしていました。バレエは、母に私が始めたいと言って、ずっと続けられている私の全てです。誇りでした。たくさんの同級生が、中学生や高校生になった瞬間にドロップアウトしていく。だけど私はやめない。逃げ出さない。練習は大変だし、先生は厳しかったですが、舞台で煌びやかな衣装を着た時の高揚感。観客の喝采。バレエの舞台上では、私はカワイソウな子ではなかった。舞台の上はすべてが公平。努力したものだけが評価される。バレエをやっているときだけが、私が生きている瞬間でした。
成人バレエの舞台発表が迫る1ヶ月前。忘れもしません。あの夜です。あの夜に事件は起きたんです。バレエのレッスンを終えて、帰宅し、夕飯を食べ、お風呂に入り、これから眠ろうという時でした。部屋干しの衣類をひっかけている欄干に見慣れたものがある。それは洗濯されて、そこに干されていました。私の命よりも大事なバレエ衣装。白鳥の湖で、ブラックスワンに抜擢された私の黒のチュールスカート。
気づくと母の首を絞めていました。母の寝室に押し入り、何回か罵声を浴びせたのだけは覚えています。母は最初こそ、抵抗していたものの、すぐに諦めた様子でした。むしろ私が母の首をしめる手を応援するかのように自分の手を添えてきました。そしてこちらを見て、私のことが全部わかるかのように微笑んできたのです。本当に、気味が悪い。私は腹が立って、一層強く母の首を締め上げました。怒りのために体はすごく熱くなったのに、心はどこか冷えていったのをよく覚えています。しばらくして、母は死にました。私はすぐに警察に電話をしました。私は興奮した自分を抑えながら、動揺を悟られないようにすることに苦労しました。そして、今ここにいます。
私は母を殺しました。そのことに微塵も後悔はありません。そして、死刑でも、無期懲役でも、刑期何年でも受けるべき人なんです。これは私が受けるべき罪なんです。どうか、私を罰してください。