おまけ*懲りないトーマス(後編)
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目の前の男が言ったセリフを、カレンは理解できなかった。
正確に言えば理解はしたが、脳がそれを拒んでいた。
――この男は、今、なんと言った?
「隠さなくてもいいよ、カレン。いくらなんでも分かりやすくて、すぐに伝わった。僕を忘れられなかったんだね。君を傷つけてすまなかった」
以前の婚約者だったはずの男は、ぺらぺらと嬉しそうに語っていた。
得意になると、鼻の脇がふくらむのも以前のままだ。――正直、イラッとした。
この気持ちも伝わっているのかと思ったが、そもそも最初の伝達が失敗している。彼を忘れられなかったのは本当だが、それはマイナスの意味でしかなく、最近ではそれも消えていた。正直言って、村に戻ると決めるまで、頭の隅にも浮かばなかったほどだ。
当然、愛しているはずもなかったが、この男の目は何を見ているのか。
(毒キノコでも食べたのかしら……。最近は幻覚作用だけじゃなく、高揚感をもたらす成分が発見されたはずだから……じゃなくて)
今は時間が惜しいので、余計な事には関わりたくない。
「それは気のせいね。私まだやることが残っているから」
「照れなくていいんだよ、カレン」
いきなり手を握られてぎょっとした。反射的に振り払い、続きに目を通す。あと少しで終了なのだから、邪魔をしないでほしい。
「そんなに恥ずかしがるなんて……。やっぱり君も、僕のことを……」
目の端で何やらもじもじしている男が不気味だが、目の前の作業に集中する。幸い、目的はほどなく達成され、この村での役割も無事終わった。ほっと息を吐き、立ち上がる。
「それじゃあね、アンダーソンさん。エイミーとお幸せに」
「ちょっと待ってくれ、カレン!」
帳面を閉じて出て行こうとしたカレンの手首を、トーマスがふたたびつかんだ。
「もう自分を偽る必要はないんだ。僕も君と同じ気持ちだよ。結婚しよう、カレン」
「…………は……?」
何を言っているのかと思うのは二度目だった。
「エイミーとの婚約は破棄する。元々君と婚約していたんだから、元に戻るだけだよ。何も問題ない、大丈夫だ」
「……言いたいことは色々あるけど、とりあえず、ひとつだけ。――お断りするわ」
「カレン!?」
「そもそも、どうしてそういう結論になったのか、意味が分からないわ。いえ、説明してくれなくて結構。もうやめましょう。さよなら、アンダーソンさん。お元気で」
「待ってくれ、カレン!」
振りほどこうとした腕に力を込められ、痛みに思わず顔をしかめる。薬師というのは力仕事が必要な場合もあるので、割と力の強い者が多い。
「離して、アンダーソンさん」
「トーマスと呼んでくれ。以前はそう呼んでくれただろう?」
「あの時とは状況が違うでしょう。あなたはエイミーの婚約者なのよ?」
「だから、それは破棄するって言ってるだろう!」
耳元で叫ばれてキィンとする。そのまま抱き寄せられそうになり、力を込めて押しのける。ようやくできた隙間を広げ、カレンは一歩後ずさった。
よく分からないが、自分は何か厄介な事に巻き込まれているらしい。
「エイミーは何もできない女の子だ。正直、なんであんなに怠け者なんだろうと思うよ。自分の外見にしか興味がなくて、何もかもが薄っぺらだ。彼女は僕にふさわしくない」
「その子がいいって言ったのはあなたでしょう……」
「その点カレン、君は素晴らしい。領主お抱えになるほどの薬師の能力に加え、家の仕事も手を抜かない。見た目だって――エイミーよりずっと綺麗だ。君なら僕にふさわしいよ」
満面の笑みを浮かべたトーマスが、カレンに手を差し伸べる。
「……エイミーと結婚するために、あなたは私を捨てたんでしょう」
「だから、それは間違いだったんだ。今の君を見たら、みんなそう思うだろうな。あの時の僕は間違っていた。エイミーという偽者にだまされて、君を捨ててしまうなんて」
「……多少調子のいいことは言ったかもしれないけど、あの子を選んだのはあなたよ、アンダーソンさん」
そして不誠実な手段で婚約を破棄したのもそちらの方だ。
「どっちもどっちだけど、私を愛人にしようとした分、あなたの方がタチが悪いわ。そう思わない?」
「あれは……誤解だよ。君を失いたくなかったから……」
以前の仕打ちを指摘され、トーマスは決まり悪げな顔になった。
正確に言えば、無料の家政婦兼、無償で働く従業員兼、都合のいい時の性欲処理だ。
さすがにそれをそのまま告げるほど愚かな男ではなく、もごもごと口ごもる。
「失いたくなくても、普通はひとりに決めるのよ。あなたはエイミーを選んで、私を捨てた。今さらそれは覆らない」
「あの時とは状況が違う! 僕は本当に君が欲しいんだ。君と結婚したいし、一緒にやっていきたい。なあ、カレン、いいだろう? 君の気持ちは分かってるんだ」
「……気持ち気持ちと言うけど、私の何を分かっているの?」
その声は少し低かった。だが、トーマスは気づかないようだった。
「君は、今でも僕を愛しているんだ!」
堂々と告げられたセリフに、カレンの目が点になる。
正確に言えば、この言葉を聞いたのは二度目だが、それでも脳が拒否していた。
毒キノコでこんな症状は出ないはずだ。だったら毒魚でも食べたのだろうか。あれは確か神経毒で全身が麻痺する作用が……と思いかけて首を振る。今はそういう話じゃない。
とりあえず誤解を解こうと、カレンは冷静な声で告げた。
「私はあなたを愛してないし、この先も好きじゃないと思うわ」
「嘘だ!!」
「嘘じゃないわ。というか、ありえないでしょう。変なことを言ってないで、手を離してちょうだい。痛いわ」
手を引こうとしたが、少しも動かない。トーマスはしっかりと手首を握りしめている。
これはもっとはっきり言わないと駄目なのかと思い、内心で嘆息する。
「あなたと婚約していたのは確かだけど、もう終わったことよ。あなたはエイミーの婚約者で、この店の跡取り。エイミーとの婚約を破棄するのは勝手だけど、だからと言って再婚約はしないわ。私はあなたと結婚しない」
「どうしてだ、カレン!? 君は僕が好きなんだろう?」
「いえまったく」
「嘘だ!! 強がっているだけなんだ!!」
どうしようかと迷い、カレンは少し考えた。
あまり大ごとになるのは避けたい。この騒ぎで「彼ら」が突入してこないのは、自分が入るなと頼んだからだ。命の危険がある場合や、身体に危害が加えられそうな場合はその限りではない。
それと――多分。
気を遣っているのかもしれない。一応は自分の「元」婚約者だったので。
諸々の事を思えば、騒ぎを起こしたくはない。
一瞬でそこまでを考えると、カレンは努めて穏やかな口調で言った。
「何か勘違いしたのね、アンダーソンさん。手を離して、忘れましょう。それで終わりよ」
「カレン……」
「エイミーと幸せに暮らすことを祈ってるわ。お幸せにね、アンダーソンさん」
それで話は終わりだと暗に告げたが、トーマスは何やら感激しているようだった。
「やっぱり、カレン……僕のために……」
「は……?」
「もう待てない。今すぐ結婚しよう。今日を逃したら、君は遠くに行ってしまうんだろう? その前に形だけでも整えておこう」
「ちょ……ちょっと、何言ってるの!? あなたとは結婚しないって言ってるでしょう!」
「いいんだよ、カレン。もう自分を偽らなくていいんだ」
「いや何言って……ちょっと、何するの!?」
いきなり押し倒されそうになり、カレンはぎょっとした。
「これですべて解決する。とりあえず、既成事実を作っておこう」
「――き」
既成事実というのは、つまり。
「君が僕のものになれば、エイミーもあきらめてくれるよ。外にいる騎士も、愛する二人を引き裂くことはできない。そうだろう、カレン?」
「いえだから愛してないって……ちょっと、本当に何するつもり!?」
とんでもない場所まで触れられそうになり、カレンは本気で焦った。
こんな時こそ助けに来るはずの騎士達は、なぜか現れそうにない。あいつら、と口の中で呟いたが、なんだか予想していた気がする。
この村はカレンの古傷だ。
愛おしくもあり、忘れたくもあり、うまく説明できない感情のすべて。
――だから。
自分の手で切り開かなければ、きっと前には進めない。
なのでカレンはそのすべてを込めて、蹴りを入れた。
トーマスの腹に、思いっきり。
「―――――っっっ!!?」
衝撃に吹っ飛んだトーマスが、何が起こったのか分からない様子で呆然としている。
カレンも目を丸くしていたが、あら思ったよりも飛んだわね、とも思っていた。
「な……な……」
トーマスが口をぱくぱくさせている。驚きに声も出ないらしい。
その顔を見て――急激に笑いが込み上げてきた。
「一度張り倒しておけばよかったと思っていたけど、蹴り倒した方がずっとスッキリするのね。ああ、気持ちよかった!」
「……カ、カレン?」
「名前で呼ばないでと言ったはずよ、トーマス・アンダーソン」
フルネームを突きつけると、トーマスはひるんだように身を引いた。
無様に尻をつけたまま、ずり、と後ずさる。彼の靴の先は汚れていて、床の上にも埃があった。
「あなたとよりを戻す気はない。この村を出て行く前に言ったセリフを、あなた覚えていないのかしら? よくもまあしゃあしゃあと、君ともこういう関係になってもいいなんて言えたものよね。お断りよ、トーマス・アンダーソン」
「いや、だから今は、君の方が第一候補で――」
「それこそお断りだわ。私に何のメリットがあるの? 姉と婚約中に妹に手を出した不実な男とよりを戻して、どんなご褒美があるのかしら」
冷たい言葉に、トーマスはひくっと引きつった。
「き……君は、僕を見て笑ってくれたじゃないか!」
「久々に会う妹の婚約者に、最低限の礼儀を守っただけよ。それとも会うなり引っぱたけとでも言うつもり?」
それも悪くないと思ったが、さすがに口には出さなかった。
「だ、だってエイミーが何もしないのは本当で……そんなの、僕にふさわしくない……」
「そういうあの子を選んだのはあなたよ、アンダーソンさん」
「僕のことがまだ好きで、だからこんな真似を……」
「違うと言ったわ」
にこりともしないカレンを見て、トーマスはうろたえた顔になる。そんな、とかまさかとか、ぶつぶつと小声で呟いている。
「……な、なら、どうして今さらこの村に戻ってきたんだ? 僕のことが忘れられないから、僕と結婚したいからだろう。違うのか?」
「……その壮大な自信がどこから来るのかは知らないけど」
カレンははあっとため息をついた。
「馬鹿なの?」
「……な」
「馬鹿な上に、愚かなの? どこまで自分に自信があるの、あなたって」
冷ややかな声に、トーマスは息を呑んだ。
彼の婚約者だった時、こんな口調で話す事は一度もなかった。いつも彼を立て、機嫌を損ねないようにと気を遣っていた。そのせいで彼を増長させたのかもしれないが、ここまで蔑ろにされる謂れはない。
唯一の男手である事を知りながら、父親を亡くして不安でいっぱいだった少女の弱みに付け込み、好き勝手したのはそちらの方だ。
あの時は、トーマスを失ったらと思うだけで不安だった。
エイミーとあんな事になるまで、何も気づいていなかった。たとえ変だと思っても、そんなはずはないと言い聞かせていた。その結果があれだ。もはや笑うしかない。
トーマスにとっては天国だっただろう。面倒な事はカレンに任せ、自分は可愛い恋人と甘い生活。金は両親から与えられ、家の事はカレンがやってくれる。そして、もしも別の女性に目が向いたら、婚約を解消すればいい。こんなに楽な暮らしはない。
それでも以前の自分なら、トーマスの手を振り払えなかった。
エイミーの事が心配で、薬店の事が気がかりで、別れたいとは思えなかったはずだ。
だが今、そんな気遣いもなくなった。
「正気なら頭がおかしいし、冗談でも笑えないわ。学習能力がないどころか、記憶力までおかしいの? それとも認識能力がないのかしら。ああもちろん、倫理観が欠如しているのは知ってるわ。この村を出て行くひと月前からね」
淡々とした口調で追い詰めるカレンに、トーマスは一言も言い返せない。何か言おうとして口をつぐみ、また言おうとして口を閉じる。何か言ってやりたいと思っているのだろうが、うまく言葉にならないらしい。
どうやら自分は相当鬱憤がたまっていたらしいと思ったが、手加減してやるつもりはなかった。
「そもそも、ひとつ聞きたいけど。あなたはそれほどの男なの?」
「なっ……」
捨てられた事を今でも嘆き、口実を作って村に戻り、よりを戻したいと縋りつくほどの存在なのか。
トーマスはおずおずと自分の恰好を見た。
薄汚れ、アイロンもろくにかかっておらず、くたびれてすり切れた自分の服。ズボンも汚れ、靴底もすり減ってしまっている。酒をよく飲むせいか、顔もむくみ、皮膚も少々たるんでいる。
その自分の姿に、ようやく意識が行ったようだった。
カレンは逆に、爪の先まで輝いていた。
この村にいた時は余裕がなかったが、肌や爪の手入れを覚え、髪の結び方も教えてもらい、化粧の仕方も習った。どれも初めて知る事ばかりで、戸惑ったけれど、楽しかった。
領主の下で働く充実した日々に加え、そんな経験のすべてが、今のこの姿だ。
釣り合う釣り合わないで言えば、トーマスがカレンに釣り合わない。
それを、目の前で突きつけたも同然だった。
ようやく理解できたのか、トーマスがあぁ…と呻く。
それを見下ろし、カレンはきっぱりと言い捨てた。
「分かったなら、二度と私に触らないでちょうだい。心の底から不愉快だわ」
トーマスがふらついた足取りで出て行くと、カレンはちらりと背後を見た。
「……で、いつまでそこで見ているつもり?」
「ばれたか」
その後ろから現れたのは二人の騎士だった。銀髪の方は不機嫌そうだが、黒髪の方は笑みを浮かべている。
「ばれるも何も、あそこで助けに入らなかった時点で分かってたわよ。この薄情者」
「いやぁ、俺はこいつを押さえるので精いっぱいで。即息の根を止めそうになってたからな」
「か弱い女性を助けないで、何が騎士よ。笑わせてくれるじゃない」
「君はか弱い女性じゃないし、黙ってやられるタイプじゃないだろう?」
「ああ言えばこう言う……」
はあっと息を吐き、カレンは仕方なさげな顔で言った。
「……でもまあ、よかったわ。あそこで手を出されても困るもの」
「だろうと思ったよ。いい蹴りだった」
「だからあなたは……。まあいいわ」
もう一度嘆息し、銀髪の騎士へと向き直る。
相変わらず不機嫌な顔をした銀髪の騎士は、冗談に聞こえない声で言った。
「――獣の餌に。今すぐにでも」
「いや、私の話を聞いている? 手を出されたら困るのよ」
「手……」
そこで自分の手を見つめ、うん、と頷く。
「足だけでも問題ない。やれる」
「そういう意味じゃなくてね……ちょっと! 笑ってないでどうにかしてよ!」
とても綺麗な顔で、とても不穏な事を呟く青年が怖い。そして彼はそれを実行できるだけの力がある。
「そう言われてもなぁ……。そいつは君にしか御せないよ。何しろ君の獣だからね」
「誤解を招くようなことを言わないで。もうひとりはどうしたの?」
「あいつは可愛いお嬢さんと逢引きじゃないかな?」
「どいつもこいつも……本当に」
いくらため息をついても足りない。
中身で言えば彼が一番危ないので、あまり単独行動を取ってほしくはないのだが。
「心配ないよ。あいつもよく分かってるさ」
「ならいいけど……」
店を出ると、空はよく晴れていた。
父親と共に過ごした場所。たくさんの思い出があったはずの場所は、時を経て、形を変えてしまったものもあるようだ。それを寂しいと思わないわけではないが、ひとつの区切りはついた気がする。
ここはカレンの故郷だ。
それ以上でもなく、以下でもない。
それを、実感したのかもしれない。
「ところで、どうだった? 久々の里帰りは」
そう聞かれ、カレンは少し考えた。
おそらく今日を境に、変化した事もあるのだろう。
時間は戻る事もなく、時計の針を戻すつもりもない。
思い返せば色々ある。
村を出た日からずっと、凝り固まっていたいくつもの記憶。
何も思わないと言えば嘘になる。
けれど――まあ。
「そうね、悪くなかったわ」
そう言うと、彼らはそろって笑みを浮かべた。
とても嬉しそうな顔だった。
了
お読みいただきありがとうございます。トーマスの後日談。
*トーマスは足にダメージを負ったため、その後出る予定はなかったのですが、思ったよりも元気そうだったので再登場となりました。彼の尾てい骨は無事だったようです。
*前回のあとがきで河童について熱く語ってしまったせいか、他のやさしい方々までいらしてくださったようで感激です。
あのね!! 本当に嬉しかった!! あの話読んでくれる人がいるとは思わなかった! 本当にありがとうございます、読んでいただけて嬉しいです! 他のお話につきましても、重ねてお礼申し上げます。もう嬉しすぎて言葉にならない……!!
またどこかでお会いできたら幸いです。やさしい皆様に幸あれ!