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おまけ*懲りないトーマス(後編)



    ***

    ***



 目の前の男が言ったセリフを、カレンは理解できなかった。

 正確に言えば理解はしたが、脳がそれを拒んでいた。


 ――この男は、今、なんと言った?


「隠さなくてもいいよ、カレン。いくらなんでも分かりやすくて、すぐに伝わった。僕を忘れられなかったんだね。君を傷つけてすまなかった」


 以前の婚約者だったはずの男は、ぺらぺらと嬉しそうに語っていた。

 得意になると、鼻の脇がふくらむのも以前のままだ。――正直、イラッとした。


 この気持ちも伝わっているのかと思ったが、そもそも最初の伝達が失敗している。彼を忘れられなかったのは本当だが、それはマイナスの意味でしかなく、最近ではそれも消えていた。正直言って、村に戻ると決めるまで、頭の隅にも浮かばなかったほどだ。


 当然、愛しているはずもなかったが、この男の目は何を見ているのか。


(毒キノコでも食べたのかしら……。最近は幻覚作用だけじゃなく、高揚感をもたらす成分が発見されたはずだから……じゃなくて)


 今は時間が惜しいので、余計な事には関わりたくない。


「それは気のせいね。私まだやることが残っているから」

「照れなくていいんだよ、カレン」


 いきなり手を握られてぎょっとした。反射的に振り払い、続きに目を通す。あと少しで終了なのだから、邪魔をしないでほしい。


「そんなに恥ずかしがるなんて……。やっぱり君も、僕のことを……」


 目の端で何やらもじもじしている男が不気味だが、目の前の作業に集中する。幸い、目的はほどなく達成され、この村での役割も無事終わった。ほっと息を吐き、立ち上がる。


「それじゃあね、アンダーソンさん。エイミーとお幸せに」

「ちょっと待ってくれ、カレン!」


 帳面を閉じて出て行こうとしたカレンの手首を、トーマスがふたたびつかんだ。


「もう自分を偽る必要はないんだ。僕も君と同じ気持ちだよ。結婚しよう、カレン」

「…………は……?」


 何を言っているのかと思うのは二度目だった。


「エイミーとの婚約は破棄する。元々君と婚約していたんだから、元に戻るだけだよ。何も問題ない、大丈夫だ」

「……言いたいことは色々あるけど、とりあえず、ひとつだけ。――お断りするわ」


「カレン!?」

「そもそも、どうしてそういう結論になったのか、意味が分からないわ。いえ、説明してくれなくて結構。もうやめましょう。さよなら、アンダーソンさん。お元気で」

「待ってくれ、カレン!」


 振りほどこうとした腕に力を込められ、痛みに思わず顔をしかめる。薬師というのは力仕事が必要な場合もあるので、割と力の強い者が多い。


「離して、アンダーソンさん」

「トーマスと呼んでくれ。以前はそう呼んでくれただろう?」

「あの時とは状況が違うでしょう。あなたはエイミーの婚約者なのよ?」

「だから、それは破棄するって言ってるだろう!」


 耳元で叫ばれてキィンとする。そのまま抱き寄せられそうになり、力を込めて押しのける。ようやくできた隙間を広げ、カレンは一歩後ずさった。

 よく分からないが、自分は何か厄介な事に巻き込まれているらしい。


「エイミーは何もできない女の子だ。正直、なんであんなに怠け者なんだろうと思うよ。自分の外見にしか興味がなくて、何もかもが薄っぺらだ。彼女は僕にふさわしくない」

「その子がいいって言ったのはあなたでしょう……」

「その点カレン、君は素晴らしい。領主お抱えになるほどの薬師の能力に加え、家の仕事も手を抜かない。見た目だって――エイミーよりずっと綺麗だ。君なら僕にふさわしいよ」


 満面の笑みを浮かべたトーマスが、カレンに手を差し伸べる。


「……エイミーと結婚するために、あなたは私を捨てたんでしょう」

「だから、それは間違いだったんだ。今の君を見たら、みんなそう思うだろうな。あの時の僕は間違っていた。エイミーという偽者にだまされて、君を捨ててしまうなんて」

「……多少調子のいいことは言ったかもしれないけど、あの子を選んだのはあなたよ、アンダーソンさん」


 そして不誠実な手段で婚約を破棄したのもそちらの方だ。


「どっちもどっちだけど、私を愛人にしようとした分、あなたの方がタチが悪いわ。そう思わない?」

「あれは……誤解だよ。君を失いたくなかったから……」


 以前の仕打ちを指摘され、トーマスは決まり悪げな顔になった。

 正確に言えば、無料の家政婦兼、無償で働く従業員兼、都合のいい時の性欲処理だ。

 さすがにそれをそのまま告げるほど愚かな男ではなく、もごもごと口ごもる。


「失いたくなくても、普通はひとりに決めるのよ。あなたはエイミーを選んで、私を捨てた。今さらそれは(くつがえ)らない」

「あの時とは状況が違う! 僕は本当に君が欲しいんだ。君と結婚したいし、一緒にやっていきたい。なあ、カレン、いいだろう? 君の気持ちは分かってるんだ」

「……気持ち気持ちと言うけど、私の何を分かっているの?」


 その声は少し低かった。だが、トーマスは気づかないようだった。


「君は、今でも僕を愛しているんだ!」


 堂々と告げられたセリフに、カレンの目が点になる。

 正確に言えば、この言葉を聞いたのは二度目だが、それでも脳が拒否していた。


 毒キノコでこんな症状は出ないはずだ。だったら毒魚でも食べたのだろうか。あれは確か神経毒で全身が麻痺する作用が……と思いかけて首を振る。今はそういう話じゃない。

 とりあえず誤解を解こうと、カレンは冷静な声で告げた。


「私はあなたを愛してないし、この先も好きじゃないと思うわ」

「嘘だ!!」

「嘘じゃないわ。というか、ありえないでしょう。変なことを言ってないで、手を離してちょうだい。痛いわ」


 手を引こうとしたが、少しも動かない。トーマスはしっかりと手首を握りしめている。

 これはもっとはっきり言わないと駄目なのかと思い、内心で嘆息する。


「あなたと婚約していたのは確かだけど、もう終わったことよ。あなたはエイミーの婚約者で、この店の跡取り。エイミーとの婚約を破棄するのは勝手だけど、だからと言って再婚約はしないわ。私はあなたと結婚しない」


「どうしてだ、カレン!? 君は僕が好きなんだろう?」

「いえまったく」

「嘘だ!! 強がっているだけなんだ!!」


 どうしようかと迷い、カレンは少し考えた。


 あまり大ごとになるのは避けたい。この騒ぎで「彼ら」が突入してこないのは、自分が入るなと頼んだからだ。命の危険がある場合や、身体に危害が加えられそうな場合はその限りではない。


 それと――多分。


 気を遣っているのかもしれない。一応は自分の「元」婚約者だったので。


 諸々の事を思えば、騒ぎを起こしたくはない。

 一瞬でそこまでを考えると、カレンは努めて穏やかな口調で言った。


「何か勘違いしたのね、アンダーソンさん。手を離して、忘れましょう。それで終わりよ」

「カレン……」

「エイミーと幸せに暮らすことを祈ってるわ。お幸せにね、アンダーソンさん」


 それで話は終わりだと暗に告げたが、トーマスは何やら感激しているようだった。


「やっぱり、カレン……僕のために……」

「は……?」

「もう待てない。今すぐ結婚しよう。今日を逃したら、君は遠くに行ってしまうんだろう? その前に形だけでも整えておこう」


「ちょ……ちょっと、何言ってるの!? あなたとは結婚しないって言ってるでしょう!」

「いいんだよ、カレン。もう自分を偽らなくていいんだ」

「いや何言って……ちょっと、何するの!?」


 いきなり押し倒されそうになり、カレンはぎょっとした。


「これですべて解決する。とりあえず、既成事実を作っておこう」

「――き」


 既成事実というのは、つまり。


「君が僕のものになれば、エイミーもあきらめてくれるよ。外にいる騎士も、愛する二人を引き裂くことはできない。そうだろう、カレン?」

「いえだから愛してないって……ちょっと、本当に何するつもり!?」


 とんでもない場所まで触れられそうになり、カレンは本気で焦った。

 こんな時こそ助けに来るはずの騎士達は、なぜか現れそうにない。あいつら、と口の中で呟いたが、なんだか予想していた気がする。


 この村はカレンの古傷だ。

 愛おしくもあり、忘れたくもあり、うまく説明できない感情のすべて。


 ――だから。


 自分の手で切り開かなければ、きっと前には進めない。


 なのでカレンはそのすべてを込めて、蹴りを入れた。

 トーマスの腹に、思いっきり。



「―――――っっっ!!?」



 衝撃に吹っ飛んだトーマスが、何が起こったのか分からない様子で呆然としている。

 カレンも目を丸くしていたが、あら思ったよりも飛んだわね、とも思っていた。


「な……な……」


 トーマスが口をぱくぱくさせている。驚きに声も出ないらしい。

 その顔を見て――急激に笑いが込み上げてきた。


「一度張り倒しておけばよかったと思っていたけど、蹴り倒した方がずっとスッキリするのね。ああ、気持ちよかった!」

「……カ、カレン?」

「名前で呼ばないでと言ったはずよ、トーマス・アンダーソン」


 フルネームを突きつけると、トーマスはひるんだように身を引いた。

 無様に尻をつけたまま、ずり、と後ずさる。彼の靴の先は汚れていて、床の上にも埃があった。


「あなたとよりを戻す気はない。この村を出て行く前に言ったセリフを、あなた覚えていないのかしら? よくもまあしゃあしゃあと、君ともこういう関係になってもいいなんて言えたものよね。お断りよ、トーマス・アンダーソン」


「いや、だから今は、君の方が第一候補で――」

「それこそお断りだわ。私に何のメリットがあるの? 姉と婚約中に妹に手を出した不実な男とよりを戻して、どんなご褒美があるのかしら」


 冷たい言葉に、トーマスはひくっと引きつった。


「き……君は、僕を見て笑ってくれたじゃないか!」

「久々に会う妹の婚約者に、最低限の礼儀を守っただけよ。それとも会うなり引っぱたけとでも言うつもり?」


 それも悪くないと思ったが、さすがに口には出さなかった。


「だ、だってエイミーが何もしないのは本当で……そんなの、僕にふさわしくない……」

「そういうあの子を選んだのはあなたよ、アンダーソンさん」

「僕のことがまだ好きで、だからこんな真似を……」

「違うと言ったわ」


 にこりともしないカレンを見て、トーマスはうろたえた顔になる。そんな、とかまさかとか、ぶつぶつと小声で呟いている。


「……な、なら、どうして今さらこの村に戻ってきたんだ? 僕のことが忘れられないから、僕と結婚したいからだろう。違うのか?」

「……その壮大な自信がどこから来るのかは知らないけど」


 カレンははあっとため息をついた。


「馬鹿なの?」

「……な」

「馬鹿な上に、愚かなの? どこまで自分に自信があるの、あなたって」


 冷ややかな声に、トーマスは息を呑んだ。

 彼の婚約者だった時、こんな口調で話す事は一度もなかった。いつも彼を立て、機嫌を損ねないようにと気を遣っていた。そのせいで彼を増長させたのかもしれないが、ここまで(ないがし)ろにされる(いわ)れはない。


 唯一の男手である事を知りながら、父親を亡くして不安でいっぱいだった少女の弱みに付け込み、好き勝手したのはそちらの方だ。


 あの時は、トーマスを失ったらと思うだけで不安だった。

 エイミーとあんな事になるまで、何も気づいていなかった。たとえ変だと思っても、そんなはずはないと言い聞かせていた。その結果があれだ。もはや笑うしかない。


 トーマスにとっては天国だっただろう。面倒な事はカレンに任せ、自分は可愛い恋人と甘い生活。金は両親から与えられ、家の事はカレンがやってくれる。そして、もしも別の女性に目が向いたら、婚約を解消すればいい。こんなに楽な暮らしはない。


 それでも以前の自分なら、トーマスの手を振り払えなかった。

 エイミーの事が心配で、薬店の事が気がかりで、別れたいとは思えなかったはずだ。

 だが今、そんな気遣いもなくなった。


「正気なら頭がおかしいし、冗談でも笑えないわ。学習能力がないどころか、記憶力までおかしいの? それとも認識能力がないのかしら。ああもちろん、倫理観が欠如しているのは知ってるわ。この村を出て行くひと月前からね」


 淡々とした口調で追い詰めるカレンに、トーマスは一言も言い返せない。何か言おうとして口をつぐみ、また言おうとして口を閉じる。何か言ってやりたいと思っているのだろうが、うまく言葉にならないらしい。


 どうやら自分は相当鬱憤がたまっていたらしいと思ったが、手加減してやるつもりはなかった。


「そもそも、ひとつ聞きたいけど。あなたはそれほどの男なの?」

「なっ……」


 捨てられた事を今でも嘆き、口実を作って村に戻り、よりを戻したいと縋りつくほどの存在なのか。


 トーマスはおずおずと自分の恰好を見た。

 薄汚れ、アイロンもろくにかかっておらず、くたびれてすり切れた自分の服。ズボンも汚れ、靴底もすり減ってしまっている。酒をよく飲むせいか、顔もむくみ、皮膚も少々たるんでいる。

 その自分の姿に、ようやく意識が行ったようだった。


 カレンは逆に、爪の先まで輝いていた。

 この村にいた時は余裕がなかったが、肌や爪の手入れを覚え、髪の結び方も教えてもらい、化粧の仕方も習った。どれも初めて知る事ばかりで、戸惑ったけれど、楽しかった。


 領主の下で働く充実した日々に加え、そんな経験のすべてが、今のこの姿だ。

 釣り合う釣り合わないで言えば、トーマスがカレンに釣り合わない。

 それを、目の前で突きつけたも同然だった。


 ようやく理解できたのか、トーマスがあぁ…と呻く。

 それを見下ろし、カレンはきっぱりと言い捨てた。


「分かったなら、二度と私に触らないでちょうだい。心の底から不愉快だわ」






 トーマスがふらついた足取りで出て行くと、カレンはちらりと背後を見た。


「……で、いつまでそこで見ているつもり?」

「ばれたか」


 その後ろから現れたのは二人の騎士だった。銀髪の方は不機嫌そうだが、黒髪の方は笑みを浮かべている。


「ばれるも何も、あそこで助けに入らなかった時点で分かってたわよ。この薄情者」

「いやぁ、俺はこいつを押さえるので精いっぱいで。即息の根を止めそうになってたからな」

「か弱い女性を助けないで、何が騎士よ。笑わせてくれるじゃない」

「君はか弱い女性じゃないし、黙ってやられるタイプじゃないだろう?」

「ああ言えばこう言う……」


 はあっと息を吐き、カレンは仕方なさげな顔で言った。


「……でもまあ、よかったわ。あそこで手を出されても困るもの」

「だろうと思ったよ。いい蹴りだった」

「だからあなたは……。まあいいわ」


 もう一度嘆息し、銀髪の騎士へと向き直る。

 相変わらず不機嫌な顔をした銀髪の騎士は、冗談に聞こえない声で言った。


「――獣の餌に。今すぐにでも」

「いや、私の話を聞いている? 手を出されたら困るのよ」

「手……」


 そこで自分の手を見つめ、うん、と頷く。


「足だけでも問題ない。やれる」

「そういう意味じゃなくてね……ちょっと! 笑ってないでどうにかしてよ!」


 とても綺麗な顔で、とても不穏な事を呟く青年が怖い。そして彼はそれを実行できるだけの力がある。


「そう言われてもなぁ……。そいつは君にしか御せないよ。何しろ君の獣だからね」

「誤解を招くようなことを言わないで。もうひとりはどうしたの?」

「あいつは可愛いお嬢さんと逢引きじゃないかな?」

「どいつもこいつも……本当に」


 いくらため息をついても足りない。

 中身で言えば彼が一番危ないので、あまり単独行動を取ってほしくはないのだが。


「心配ないよ。あいつもよく分かってるさ」

「ならいいけど……」


 店を出ると、空はよく晴れていた。

 父親と共に過ごした場所。たくさんの思い出があったはずの場所は、時を経て、形を変えてしまったものもあるようだ。それを寂しいと思わないわけではないが、ひとつの区切りはついた気がする。


 ここはカレンの故郷だ。

 それ以上でもなく、以下でもない。

 それを、実感したのかもしれない。


「ところで、どうだった? 久々の里帰りは」


 そう聞かれ、カレンは少し考えた。

 おそらく今日を境に、変化した事もあるのだろう。

 時間は戻る事もなく、時計の針を戻すつもりもない。


 思い返せば色々ある。

 村を出た日からずっと、凝り固まっていたいくつもの記憶。

 何も思わないと言えば嘘になる。


 けれど――まあ。


「そうね、悪くなかったわ」


 そう言うと、彼らはそろって笑みを浮かべた。

 とても嬉しそうな顔だった。


お読みいただきありがとうございます。トーマスの後日談。


*トーマスは足にダメージを負ったため、その後出る予定はなかったのですが、思ったよりも元気そうだったので再登場となりました。彼のてい骨は無事だったようです。


*前回のあとがきで河童について熱く語ってしまったせいか、他のやさしい方々までいらしてくださったようで感激です。

あのね!! 本当に嬉しかった!! あの話読んでくれる人がいるとは思わなかった! 本当にありがとうございます、読んでいただけて嬉しいです! 他のお話につきましても、重ねてお礼申し上げます。もう嬉しすぎて言葉にならない……!!


またどこかでお会いできたら幸いです。やさしい皆様に幸あれ!

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