おまけ*懲りないトーマス(前編)
※前編と後編の間にエイミーのエピソードが入ります(『エイミーの後悔』)。時間が前後して申し訳ありません。物語の途中で二人が抜けます。
嘘だろう。
その女性を目にした時、トーマスは目を見開いた。
艶やかな赤毛をなびかせて、騎士を従えるその姿。
抜けるように白い肌と、それを彩る装身具。
身を包む衣服は、この辺りでは見た事もないほど上質な素材だ。長旅だというのに、目立った汚れはどこにもない。
揺れる布地がまといつき、優雅にそれを払う仕草。その動きも洗練されている。
宝石のような緑の瞳がきらきらと輝き、瞬きのたびに光を散らす。
息を呑むほどに美しい――女神の化身。
以前の婚約者であるカレン・ロックベルが、自分の元に戻ってきた。
***
***
カレンは地味な女だった。
薬師の三男として生まれたトーマスは、そこそこ裕福な家庭で育った。二人の兄は優秀で、十八歳の時には薬師の資格を持っていた。トーマスはやや技術が劣り、二十歳になった今でも薬師見習いだ。だが、薬師の試験は難しいので、それほど恥だとは思っていない。
隣村の少女との婚約を持ってきたのは父だった。
腕のいい薬師の娘で、本人も薬師の資格を持っているという。自分より先を行っているという点では鼻白んだが、家付きの娘と結婚するのは悪くなかった。
トーマスはまだ実家にいたが、あと数年で家を出る事になっている。婿に入った方がいいとは言われていたし、自分もそうするつもりだった。
初めて顔を合わせたカレンは、地味な少女だった。
染みだらけの作業着にひっつめた髪、男の子のような飾らなさ。
あまりの色気のなさに、少々がっかりしたのを覚えている。
正直な事を言えば、妹の方が好みだった。今はまだ幼いが、成長すれば美人になる。だが、打診されたのは姉だったので、あっちがいいと言う事はできなかった。家と店が手に入るなら仕方ないと思った。
カレンはお洒落に興味がなかったが、愛想の悪い娘ではなかった。
話せば答えてくれるし、打てば響くように返してくる。
自分にも徐々に打ち解けて、たまには笑顔を見せてくれるようになった。それで知った事だが、カレンもなかなか可愛い顔立ちをしていた。
これならまあ、悪くないかな。
そんな事を思って、少しだけ得意になったのを覚えている。
この少女はいずれ自分のものになる。この家も、店もだ。
カレンの父親が死に、頼る者がいなくなった時、その思いははっきりと形になった。
悲しみに暮れる少女達を見ながら、トーマスはほのかな喜びを感じていた、
これで彼女達を守れるのは自分だけだ。
ここにあるものすべて、いずれ自分のものになる。
それを分かっているのかどうか、カレンは今まで以上に自分に気を遣うようになった。
若い娘二人きりという状況は、小さな村では心もとない。男手がいない家がどうなるか、トーマスにもよく分かっていた。カレンはトーマスの居心地が良くなるように気を配り、店で働き、毎日おいしい食事を作り、家を快適に調えた。
それはとても心地よかった。
こんな生活がずっと続くなら、結婚も悪くないと思った。
その反面、少しばかり退屈も覚えていた。
この生活が続くのは楽だが、変化がない。カレンはずっと自分に尽くし、二人で薬店を切り盛りする。そんな遠い先の未来まで見えてしまった気がして、どこか物足りなさも覚えていた。
エイミーに声をかけられたのはそんな時だった。
年頃の娘らしくなってきたエイミーは、いつも流行の服に身を包んでいた。爪を綺麗な色に染め、口紅を何本も持っている。梳かしただけの髪をくくり、作業着姿で働くカレンとは正反対だ。
甘えるように腕を絡められ、久々に胸がときめくのを感じた。
改めて見ると、エイミーは美しい少女だった。
毎日丁寧にブラッシングしている金髪はしなやかで、茶色の目は長いまつげに縁取られている。毎日アイロンのかかった綺麗な服を着ていて、白い指先には傷ひとつない。
柔らかな手を握った時、ほのかに甘い香りがした。
そして思ったのだ。
姉と結婚する代わりに、妹としても同じだと。
エイミーと親しくなるにつれ、その考えはますます膨れ上がるようになっていた。
カレンに注意をされるたび、小さな不満が胸をよぎるようにもなった。
「トーマス、たまには一緒に薬草園の手入れをしない? あなたにもやり方を覚えてもらいたいの」
「慣れている方がやればいいじゃないか。失敗したら大変だし、君に任せるよ」
「だけど、あなたにも覚えてもらわないと」
これからずっとする事だからと言われたが、トーマスにはピンとこなかった。
どうせ結婚してもカレンが続ける事になるのだ。今までやっていたなら、これからもやればいいだろう。どうして楽をしようとするのか、トーマスには分からなかった。
自分の仕事を怠け、トーマスに押しつけようとしている。そうとしか見えなかった。
エイミーがこぼすカレンの愚痴も、それに一役買っていた。
「お姉ちゃんは口うるさいのよ。あたしだったら、トーマスにそんなことさせないのに」
「やさしいんだね、エイミー」
「当たり前よ。トーマスは大事な人だもの」
エイミーとの心の距離が縮まっていくのと同時に、カレンに対する思いはますます冷めていった。口紅ひとつ引かない地味な女が、自分の婚約者なんて。
カレンの顔立ちは悪くないが、エイミーの方がはるかに美しい。トーマスに甘え、洋服や小物をおねだりし、たまには拗ねたりふくれたりする。そういう態度が可愛いと思った。カレンとは正反対だった。
そのカレンは、エイミーとの関係に一言あったものの、それ以上は言わなかった。父親を亡くしたエイミーに気を遣っているのは明らかだったが、それを悪用した自覚はある。けれど、その時は好都合だとしか思わなかった。
エイミーとの婚約を発表した時、カレンは言葉をなくしていた。
大きな目が自分とエイミーを見つめ、嘘でしょう、と言う。
その瞬間――感じたのは、達成感にも似た喜びだった。
ほら、悔しいかい?
君が好きだったはずの僕は、妹のものになってしまった。どんなに君が泣いて頼んでも、もう僕は手に入らない。
悔しいかい? 悔しいだろう?
でもそれはしょうがないんだ。だから、おとなしくあきらめてほしい。
そうだな――ほんの少しだけ、君に悪いとは思っているよ?
地味で冴えない君を捨て、美しい妹に心を奪われてしまった。仕方のない事だけれど、君には残酷だ。それは心から謝罪する。
ごめんよ、カレン。僕はエイミーを愛してしまった。
君ではなく、彼女の手を取ってしまった。
そうする道を選んでしまったのは僕の罪だ。けれど、君にも責任はあるんだよ?
もっと僕を大切にしていたら、考え直したかもしれないのに。口うるさい事を言わず、なんでも自分で引き受けて、もっと楽をさせていたら。
でも、もう遅い。
どんなに君に縋られても、気持ちを変えるつもりはない。
君はこれから僕達の姿を見ているといい。エイミーと結婚し、可愛い子供が生まれ、薬店を繁盛させる姿を。君が手に入れられたかもしれない幸せを、傍で見つめているといい。
でも僕はひどい男じゃないから、君の幸せだって祈っている。
僕みたいに素敵な男は現れないかもしれないけれど、遠い将来、君をもらってくれるような男がいればいい。僕はそう思っている。
知り合いの親戚に、五十を過ぎた男がいる。この村に移住してもいいと言っていて、嫁を探しているらしい。薬店で働くのも許可してくれるという。
少し年齢が離れすぎているだろうか? でも、カレンなら断るまい。一緒に住んでいたはずの婚約者に捨てられて、行く場所のない未婚の少女。彼女の選択肢は多くない。
それとも――待てよ。
そいつと結婚したら、カレンが家を出てしまう。そうしたら、誰が家の事をやってくれる? もちろんエイミーは有能な女性だが、子供が生まれたら手が回らない。それくらいなら、カレンがいてくれた方がいいんじゃないか?
だとすれば、どうするか。
カレンが結婚せず、かといって家を出て行く事もなく、無償で働き続けてくれるには。
都合のいい存在として、ずっとそばにいてくれるには。
(……そうだ)
それを思いついた時、名案だと思った。
それは難しいようでいて、簡単な事でもあったのだ。
***
***
カレンを探しに行くと、彼女は薬草を煮詰めていた。
婚約破棄を告げてから、カレンの仕事量は格段に増えた。今までトーマスがしていたはずの仕事も一手に引き受け、毎日夜中まで働いている。
おそらく、トーマスの気持ちを取り戻すための努力だろう。無駄だとは思うが、口は挟まない。けれど、体に気をつけてほしいとは思ってしまう。
トーマスはエイミーに心変わりしたが、別に冷酷な男ではない。カレンが倒れてもいいと思うほど非情な性格ではないつもりだ。
村人の間で妙な噂になっても困るので、少し休まないかと声をかけたが、いいのよと首を振られてしまった。まだやる事がたくさん残っているから、と。
けなげではあるし、いじらしいとも思う。
そうまでして自分の心を取り戻したいのかと思えば、多少は情も湧いてくる。なんといっても、六年近くも婚約していたのだから。
二人の女に愛されて、捨てないでと縋られる。それは物語の主人公のようで気持ちよかった。
薬草を煮詰めるカレンの横顔は、こうして見ると整っている。
化粧気はないが、飾らない美しさがそこにある。エイミーとは違う、自然の美だ。
いいな、と思った。
五十過ぎの男にやるなんてもったいない。
だって、彼女はトーマスの事が好きなのだ。それはあんまり可哀想じゃないか?
よく見れば手首も細く、胸はピンと張っている。腰は細く引き締まり、首筋を流れる汗がなまめかしい。
まつ毛も長い。大鍋のそばは暑いのか、胸元をあおいで風を入れている。
白い肌が見えた時、どきりとするのを感じた。
わけもなく胸を高鳴らせ、トーマスは彼女の姿を観察した。
唇を舐め、何事か考える表情。汗ではりついた髪を払い、額の汗を腕で拭う。その仕草が煽情的だった。
こうして見ると、カレンは美しい女性だった。
エイミーの影に隠れてはいるが、着飾れば見違えるようになるだろう。あの瑞々しく尖った胸も、可憐な唇も、元は自分のものだったはずだ。
そう――もしかすると、今でも。
わずかな期待と興奮とともに、トーマスはカレンに近づいた。
「――やあ、カレン」
それから先の事は、正直あまり覚えていない。
ただ、カレンは自分の申し出を断った。
そして、この村からいなくなってしまったのだ。
***
***
あれから長い時間が過ぎた。
エイミーとの婚約はそのままだが、関係は冷え切ってしまっている。結婚したくはないが、かといって他にどうしようもない。それは相手も同じようで、会話はほとんどなくなった。
驚く事に、エイミーは家事がまるでできなかった。
一緒に暮らしている時も、カレンがあれこれ声をかけていたから、てっきり教わっているのだとばかり思っていた。彼女はいつも小綺麗な恰好をしていたし、指先まで手入れされていたから。
だが今、二人きりになって痛感するのは、どれだけカレンに頼り切っていたかという事だ。
食事は生煮えか丸焦げ、魚は生臭く、肉は硬くて噛み切れない。おまけに処置を怠ったらしく、臭みが強くて食べられない。それを指摘すれば泣き叫んで暴れ、手が付けられなくなってしまう。
掃除や洗濯も同様だった。おかげですぐに家は荒れ、服は薄汚くなった。いつも綺麗で可愛いエイミーの外見は見る影もなくなった。
着飾っていないエイミーは、カレンより魅力の乏しい少女だった。念入りな化粧と各種の手入れが、彼女をあれほど輝かせていたのだ。
おまけに、エイミーには薬草の知識もまるでなかった。
トーマスと二人きりの時、彼女はよく口にしていた。
自分は姉以上の才能がある。だから姉も上級学校へやるのを認めたのだと。
学校で薬の知識を蓄え、あの店で働いていくのだろう。トーマスはそう思っていた。
カレンよりも優秀で美しい、自慢の婚約者。
それも決め手のひとつになったのは事実だ。薬草の専門知識のある妻は貴重だと。
だが――蓋を開けてみれば、エイミーは薬草を学んでなどいなかった。
それどころか、専門的な知識もほとんどない。学校の成績も最底辺、あれでは就職もままならない。
それを知った時、さすがにトーマスは愕然とした。
カレンと婚約している間、薬師の資格はなんとか取った。仕事に慣れていくうちに、筋がいいとも褒めてもらった。だが、頼めば引き受けてくれるカレンに甘え、その腕も今は錆びついている。
たったひとりで、この店をやっていかなくてはならない。
仕事に慣れた従業員も、家の事を任せられる妻も、自分を思いやってくれる恋人も、誰もいない状態で。
カレンがいれば、全部カレンがやってくれた。
彼女はトーマスの健康を気遣い、店の仕事に明るくて、家事だって手際よく完璧にこなす。いなくなってみて初めて、自分がどれだけカレンを必要としていたか思い知った。
だが、もう遅い。
カレンは自分に見切りをつけて、この家を捨てて行ってしまった。
おそらく、戻ってくる事はないだろう。彼女には二度と会う事もない。
――どうしてこんな事になったのだろう。
胸に問いかけても、答える声はない。
もう遅いと思ったのはトーマスのはずだった。
カレンがどんなに後悔し、自分に復縁を求めてきても、心は変わる事がないと思っていた。それでも泣いて縋られれば、情けを恵むつもりはあった。あくまでも妻はエイミーだが、寂しさを慰めてやってもいい。そう思っていたはずだ。――それなのに。
「カレン……」
トーマスはかすれた声で名前を呼んだ。
答える声はどこにもなかった。
それがしばらく前の話だ。
そして、今。
カレンが村に戻ってきた。
***
***
帳面を見たいとやってきた彼女は、トーマスを見て笑顔になった。
「久しぶりね、二人とも。元気でやっている?」
久々に見た彼女は、以前よりもはるかに美しくなっていた。
唇を少し上げて微笑む顔。わずかな表情の変化さえ、花が咲きこぼれるようだ。
髪はきちんと整えられ、両脇を軽く編み込んである。この村にいた時は一度も見た事のない髪型だ。
肌も爪も手入れされ、どこもかしこも輝いている。指先で触れてみたら溶けそうなほど、繊細に作り込まれているようだった。
――この美しい女性が、自分の婚約者だった少女なのだ。
そう思うと鼻が高くて、みんなに自慢したくなる。
傍らにいたエイミーがぴくりとしたが、気に留める事はなかった。
「や……やあ、カレン。久しぶりだね」
「ロックベルと呼んでちょうだい、アンダーソンさん。エイミーも、元気だった? 少し痩せたのかしら。ちゃんと食べている?」
「……ええ、そうね。お姉ちゃん」
エイミーはうつむいてぼそぼそと言う。
つい先ほど、村に到着したカレンを陰からのぞきに行っていたのは知っているが、まさか自分の家に来るとは思わなかったのだろう。驚きが隠し切れない様子だ。それでも、供として連れてきた騎士を見ると、途端に弾んだ声になった。
「久しぶりだわ。ねえ、この方たちはだあれ? 紹介してくれない?」
「友人よ。今日はその……そうね、なぜかついてきてしまったのだけど……本当になんでかしら……まあ、友人よ、友達ね、ただの」
「ただの」をやや強調しながら、友人だと告げる。彼らはそれぞれ礼を取った。
「お名前を教えてくださいません? あたし、エイミーです。お姉ちゃんの……カレンの妹で、エイミー・ロックベル。あなたは?」
エイミーの興味はひときわ美しい銀髪の騎士に向けられているようだった。彼は少し困惑した顔で、黙ったまま目を伏せる。
隣にいた黒髪の騎士が、失礼には聞こえない口調で言った。
「我々はこの方の護衛として参りました。名乗る必要はないかと」
「でも、せっかく会えたのに」
エイミーが唇を尖らせたが、二人とも口は開かない。その後ろにいたフード姿の騎士が、くすっと笑い声を立てた。紺色の髪をした、甘い声の男だった。
「可愛らしいお嬢さん、俺たちにも規則があるんですよ。せっかくの出会いというのは同感ですが、今はまずい。護衛対象から離れて、別の美人に心を奪われたら大変だ」
「おい、お前――」
「まあまあ。そんなわけで、ここではちょっと。――ね?」
ひそめた声に、エイミーも機嫌を直したようだった。「ええ、もちろん!」と快諾する。カレンはちょっと呆れた顔をしていたが、特に何も言わなかった。
せっかくなので家にという誘いは丁重に辞退し、カレンは店に足を踏み入れた。
護衛の騎士が続こうとしたが、いらないと辞退する。彼らは少し粘ったが、カレンが気を変える気はないと悟ったのか、あきらめた顔で出て行った。
エイミーもいつの間にか姿を消し、フード姿の騎士も消えている。
どこへ行ったのか気になったが、それよりも邪魔者がいないと思う気持ちの方が強かった。
護衛の騎士が離れた場所に行ったのを見届けて、店の扉を開ける。
カレンは帳面を広げ、何やら難しい顔で読みふけっていた。
「やあ……その、大丈夫かい、カレン?」
「アンダーソンさん? 別にあなたの助けはいらないわ。外に出ていてくれて構わないわよ」
「そういうわけにもいかないよ。その……一応、僕の店だし」
「――ああ……そうね。それなら」
そう言うとカレンは帳面に目を戻した。もはや興味をなくしたらしい。
カレンが読んでいるのは、村人の既往歴や使用した薬を記した帳面だ。
カレンが出て行ってから、内容には目立った変化がない。顧客が激減してしまった事に加え、別の村から薬を仕入れた行商人が、ちょくちょく質のいい薬を売りに来るのだ。おまけに、新薬が出るとその情報を持ち込んで、あれこれ世話を焼いている。
おかげで収入はめっきり減って、今は日雇いをして稼ぐ日もある。
そんな愚痴交じりの近況を、カレンは聞いているのかいないのか、話半分で聞き流しているようだった。
「……ということは、症状が悪化した人はいないのね? 薬も新しいものが届いているの?」
「まあそうだけど……正直言って厳しいよ。今まで通りじゃ儲けが出ない」
「新しい薬を学べばいいじゃない。本もあるし、学校もあるわ。場合によっては見習いに行ってもいいし」
「そう簡単にはいかないよ。今さら見習いなんて恥ずかしい」
「そんなことはないわ。きっと色々学べるはずよ」
「そんなみっともない真似はできないよ。僕は君とは違うんだ」
その言葉に、カレンは一瞬手を止めた。ごくわずかに目を伏せる。
「……そうね。そうかもしれないわ」
ごめんなさい、と謝る。
「余計なことを言ったわね。許してちょうだい」
「あ――ああ……」
その反応を見て――トーマスは胸を躍らせた。うっかりすると本当に踊り出しそうだった。かろうじてその衝動を抑え込んだが、口元に浮かぶ笑みまでは消し切れなかった。
(……やっぱりそうか)
今の表情は、後悔している顔じゃなかったか?
カレンは未練があったのだ。婚約者であった自分に対して。
それも当然だろう。いくら領主のお抱えになっても、カレンは鄙びた村の娘だ。住み慣れた村の人間がいいと思うのはおかしくない。
自分はカレンと共に暮らし、気心も知れている。多少見目のいい騎士が現れても、馴染んだ相手の方がいいはずだ。
おまけに自分は、一度カレンを振っている。
手に入らなかった自分を今でも恋焦がれていると考えるのは、そうおかしな話でもない。
思えば、突然この村に戻ってきたのもそうだ。
カレンはきっと、何か口実が欲しかったのだろう。そのためにこんな真似をした。村人の様子を確かめたいと言って、里帰りをする理由を得たのだ。
目的はもちろん、トーマスと再会するためだろう。
最後はあんな形になったが、カレンが自分の事を好きだったのは明白で、それは今も変わらない。そうでなければ自分に微笑むはずがない。
そうとなれば、すぐにでも話を詰めたいところだったが、カレンは帳面から目を離さなかった。
手持ち無沙汰で商品の整理をしてみるものの、気にする様子はない。膨大な帳面のひとつひとつを丹念に調べている。その目は真剣で、領主のお抱えというのは本当なんだろうと思った。
カレンの横顔は、以前よりも大人びていた。
時間が経ったのだから当然だが、華やかさと美しさが増している。今ここであの日に戻れたら、すぐにでもプロポーズしたくなるほどだ。
いや――今からでも、遅くはない。
呼吸が荒くなってきたのを感じながら、胸元に視線をやる。
薄い衣装に隠れていたが、そこには確かなふくらみがある。それを触った人間は――いや、そんな相手はいないはずだ。だとすればトーマスが最初の男になる。
唇は何かを塗っているのか、つやつやとして美しい。
今すぐにでも口づけしたくなる衝動を押さえながら、トーマスは首を振った。
それはまだ早いだろう。いくらなんでも、心の準備というものがある。
だが――場合によっては。
「な……なあ、カレン」
話しかけると、カレンはちらりと鬱陶しそうな顔をした。
「疲れたんじゃないか? お茶でも淹れようか」
「結構よ。ご親切にありがとう」
「そう言わないで、少しは休んだ方がいいよ。長旅だったんだろう?」
できれば催淫効果のあるお茶でも淹れたかったが、カレンはにべもなく首を振った。
「大丈夫よ、心配いらないわ。できれば今日中に戻りたいから、できるだけ早く確認したいの。みんなと挨拶は済ませたし、長居する気はないもの」
「え、な、なんでだい?」
「なんでって、当たり前でしょう」
なぜそんな事を聞くのかといういぶかしげな顔で見つめられる。
「戻るつもりはなかったもの。必要だから来たけど、次は大分先になるでしょうね。もっとも、村のみんなには会いたいから、悩ましいところだけど」
「そ……だって、僕は」
「あなたがどうしたっていうの、アンダーソンさん?」
うろたえるトーマスに、カレンは怪訝な顔を隠さない。その表情に未練はなかったが、トーマスはそうか、とひらめいた。
(これは照れ隠しなんだ)
もしくは、自分を捨てたトーマスへの意趣返しかもしれない。そう考えると、カレンの態度にも説明がつく。
急に余裕ができてきて、トーマスは口元をゆるませた。
「もういいよ、カレン。いい加減、芝居はやめにしないかい?」
「……は?」
「君の気持ちは分かってる。君は、今でも僕を愛してるんだね」
その言葉をトーマスはやや誇らしげに、堂々と告げた。
お読みいただきありがとうございます。だからさトーマス……。お前さぁ……。
*エイミーが最初うつむいていたのは、美しくなった姉を目の当たりにしたショックからです。騎士の登場で持ち直しましたが、その後はご存じの通りです。
*薬師にもランクがあり、トーマスのランクは下の方です。逆にカレンの資格取得は早く、村の学校を出た辺りでは少し上のランクを取得していました。