おまけ*エイミーの後悔(後編)
「俺に話って?」
声をかけると、彼は素直についてきた。
近くで見ると、彼もとんでもなく綺麗な顔をしていた。思わず胸がときめくような、完璧な美貌。琥珀色の瞳は深く澄み、形のいい唇には笑みがある。田舎ではまずお目に掛かれないような端麗さだ。
どきどきする胸を押さえながら、口を開いた。
「あ……あの、姉とは、仲がいいんですか?」
「カレン?」
その名前を紡いだ唇が、ふと笑んだ。その顔もどきりとするほど美しかった。
「そうだな、そう願いたいところだけど。手ごわくてね、彼女」
気安い口調の中に、紛れもない好意がある。ざわりと胸が波立った。
「どんな相手でもなびかないから、岩の女って呼ばれてる。そこは鉄じゃないかと思うんだけど、それはまあね。どうでもいいや。割と仲良くなった方だと思うんだけど、どうだろう。自信はないな」
「姉は口うるさい性格だから、苦労してるんじゃないですか?」
「うーん……どうかな」
長いまつげが伏せられた瞬間、隠し切れない甘さが宿る。その事に訳もなく腹が立った。
――奪ってやる。
自分は婚約者だって奪えたのだ。この村でも一番の美人だし、愛想もいい。いくら美形の騎士でも、若くて綺麗な女の子に甘えられたら、悪い気はしないだろう。
もし姉の騎士が自分のものになったら、姉はどんな顔をするだろうか?
そう思うだけでわくわくした。
意地の悪い優越感に、昏い喜びが込み上げる。
これから起こるはずの出来事に、胸の奥がゾクゾクした。
同情を買うように姉の話を聞かせ、自分は虐げられていたのだと口にする。予想通り、彼は目を丸くしていた。
もっと聞かせてほしいと言われ、うまくいったとほくそ笑む。言われるまま、たくさん話を聞かせてやった。彼は時に感心し、時に同情するように自分を見た。この美しい騎士にそんな目で見られるのは気分が良かった。
手ごたえは確かにあった。
あと少しで、彼は自分に心を許す。
そうなれば、きっと。
――だが、そんな目論見はもろくも崩れた。
腕に触れ、体をすり寄せようとした時――彼は、くっくっと笑い出したのだ。
「なるほど……。確かに、思った通りのお嬢さんだ」
「な、何?」
急に雰囲気の変わった彼に、思わずたじろぐ。何か変だと思う間もなく、彼は声を上げて笑い始めた。
「あいつが心配するはずだ。俺がついてきてよかったよ。あいつじゃ君をあしらえない」
あいつって誰だろうと思う間もなく、彼は笑ったままこちらを見た。
――今までの笑みが作り笑顔だと分かるくらい、酷薄で艶やかな笑みだった。
「綺麗で頭の弱いお嬢さん、君は可哀想な女の子だ。カレンの妹じゃなかったら、容赦はしなかったところだけど。君は運がよかったね。いや――悪かったのか」
「な……何よ……?」
何を言われているのか分からず、一歩後ずさる。
目の前の騎士が怖くて、この場から逃げたかった。
「カレンはいい姉だった。君がいい妹でいたら、今でもいい姉だったろうに。残念だよ、お嬢さん。カレンはもう戻らない」
「そんなこと、知って……」
「本当かい? 本当に、知っている?」
そう言われ、ほんの少し混乱する。
何を言われているのか分からない。だって、姉は村を出た。故郷の村を捨てたのだ。戻らないつもりで旅立ったのだから、何もおかしな事ではない。
すると、彼はその考えを読んだように言った。
「心がつながっていれば、村を出ても構わなかった。どこに行こうと、家族は家族だ。一生消えない絆がある。――でも、君はそれを断ち切ってしまった」
自分の手で、切れないはずの糸を切ってしまった。
その言葉に、思わずひるむ。言いようのない迫力に気圧されていた。
「そんなことも分からないほど馬鹿なお嬢さんでびっくりだよ。あの子の妹とは思えない」
甘い色を浮かべていたはずの琥珀の瞳が、ぞっとするほど冷たく光る。その恐怖にわななくと、彼はふと気づいたように視線をゆるめた。それでも恐怖は消えなかった。
「絆さえあれば、カレンはここに戻ってくる。今日こうして戻ったようにね。あの子は村が大切で、何があっても見捨てない。そういうやさしい子だからね」
彼の口調はやさしかった。話を理解しない自分に、丁寧に、噛み砕くように説明する。瞳の冷たさとはちぐはぐで、それが余計に恐ろしかった。
村にこんな男はいない。こんな――化け物は。
「捨てたのはカレンじゃない。君が絆を捨てたんだ。あの子は二度と戻らない。あの子が何よりも愛したはずの、『大切な妹』のところには」
歌うように節をつけ、トン、と胸の辺りを押す。
「そんな存在は消え失せた。永遠にね」
からかうような口調に、カッと頭に血が上った。
「バカにしないで!」
感情のままにわめいたが、相手は少しも動じなかった。
「あの子は努力したはずだ。それを踏みにじったのは誰だった? 気づかないとは言わせない。全部君のまいた種だよ」
「……なによ!」
そんなの知らない、と思った。
姉の努力? 絆を捨てた? 永遠に?
意味が分からない。そんな――そんなもの。
それなら言えばよかったのだ。もっとちゃんと口に出してさえくれれば、自分は道を間違えなかった。それを怠ったのは姉の方だ。だったら姉が悪いじゃないか。
ちゃんと自分に教えてくれれば、トーマスに手なんか出さなかった。
全部姉が悪いのだ。
何も教えてくれず、自分だけいい思いをして、こんな騎士まで味方につけて。
自分は悪くないじゃないか。だってそんな事、何も知らなかったのだから――。
けれど、それを察したように彼は笑った。
「君は学校の成績が悪かった時、『先生が勉強しろって言わなかったから』って言うのかい?」
――痛烈な皮肉だった。
「違うな。先生は言っていたはずだ。宿題をしなさい、勉強しなさいと。……じゃあ、言わなかったらそれは悪いのかい? できなければ勉強するなんて、当たり前のことだろう」
「だけど、だって、そんなこと!」
「家の手伝いだってそうだ。カレンは何も言わなかったのかい? 掃除も、洗濯も、それ以外も。君を心配して、口に出したりしなかったのかい?」
「それはっ……」
言っていた。何度も、何度も。でも、面倒で、嫌で、煩わしくて。
「――そもそも、他人の婚約者を奪ってはいけないなんてこと、教えられなければ分からなかったのかい?」
彼の言葉は容赦がなかった。息を呑む自分には構わず、微笑んだまま言い募る。
その口調がやさしい分だけ、えぐられるような鋭さがあった。
「あの子がいけなかったのは、見誤ったことだ。人には二種類のタイプがある。やさしくされた分成長する者と、駄目になっていく者だ。前者なら何の問題もない。やさしさを返そうと、それに報いようと努力する。あの銀髪はそのタイプだ。あの子とは割と相性がいい」
だが、もう一方は。
「後者はよくない。やさしくされることに胡坐をかいて、増長していく。甘やかす方が悪いと、教えてくれなかった方が悪いと言って、際限なく搾取する。やさしさを、思いやりを、愛情を。そして、自分はそれに気づかない」
「あたしは……そんな……」
「あの子はちゃんと言うべきだった。尻をひっぱたいてでも、手伝えと命令するべきだった。それをしなかったのはあの子が悪い。たとえ君が泣きわめこうと、あの子はそうしないといけなかった」
――けれど、それは罪なのか。
「もう一度聞くよ、綺麗で愚かなお嬢さん。君がこんな目に遭っているのは、全部あの子のせいなのか?」
「それはっ……」
「君自身は気づかなくてよかった? 何も――何ひとつ?」
――気づこうともしないままで?
むしろ目をそらしていた。気づいてしまったら面倒だから、全部姉に押しつけて。
甘やかす方が悪いのだと、自分は悪くないと言い切って。
忠告を無視し、時には遮り、好き勝手にふるまって。
それは本当に、罪にはならないのか。
「だ……って、だって、それは、お姉ちゃんが……」
「うん、そうだね。そう思うならそれでいい」
構わないよと、微笑んだまま突き放す。
そんな手間をかける価値さえないのだと、言外に言われた気がした。
「俺は君に興味がない。だけど、困ったことにね。あの子は君が思い切れない。見限ろうとしても、最後の情が邪魔をする。いっそのこと、原因を排除すれば解決するんじゃないかと思ったけど――」
その目に何かの光が宿り、ぞっとするような色を宿す。
「……あの子に恨まれるのは嫌だからね。言った通り、本当にやさしい子だからさ」
ふっとその気配をゆるめ、仕方なさげに息を吐く。
けれど、何かする気なら容赦はしない。
そう言うと、彼はからっとした顔で笑った。
「言っておくけど、俺が一番やさしいよ。何しろこうして教えてあげてる。黒髪の方も大概だけど、あの銀髪。あっちも割とぶっ飛んでるから、余計なことはしない方がいい」
「な……何が……」
「その軽い頭の中に、ちゃんと詰め込んでおくんだよ。――カレンに何かしたら、俺は君を許さない」
――ゾクリ、と。
底冷えのするような声で告げた後、彼はふたたびにっこり笑った。
「いやー、ずいぶん話をしちゃったな。で、何? 君の話はもう終わり?」
「……っ」
頷く事も難しかったが、なんとか首を動かした。こくこくと壊れたように繰り返す。
「ならいいや。楽しかったよ、綺麗な金髪のお嬢さん。――ああそうそう、別に俺は、君たちの交流を断とうってわけじゃないからね?」
手紙を出したいなら出してもいいし、会いたければ会ってもいい。
反省したなら謝ればいいし、それを咎めるつもりはない。
「君はあの子の妹だからね。カレンに何かしなければ、俺は静観する。けど、もし、ほんの少しでも何かしようと思ったら――」
――その時は、許さない。
「それじゃあね、綺麗で可愛いお嬢さん」
「…………」
彼が立ち去ってしまっても、足は動かなかった。
がくがくと震えが走ったのはしばらく後、そのまま地面にへたり込む。
「……なによ……」
わなわなと唇が震えている。
怖かった。
トーマスとの喧嘩や、町で見た言い争いなんかとは比べ物にならない。
あれは殺気だ。
本物の、自分に向けられた敵意だ。
そしてそれは、あれでも大分手加減されているはずだった。
「なによ……なによ」
震えながら、同じ言葉を繰り返す。
二つ年上の姉が疎ましくなったのはいつからだろう。
口やかましく言われる事に反発して、反抗して、腹いせに姉の婚約者まで奪い取った。
あの日、自分は人生の最高潮にいた。
結婚式よりも、何よりも。
姉から奪った婚約者を見せつける事に、心の底から歓喜していた。
あの日の姉は、どんな顔をしていただろう。
――それがあなたたちの結論なの?
今なら分かる。
あの瞬間、姉は自分達を見限ったのだ。
「なによ……なによ……なによ……」
唇からは同じ言葉がこぼれている。
カレンはもう戻らない。
村に戻っても、あの家に帰っても、その心は戻らない。
最後の情が残っていても、あの時とは違う。
トーマスとこんな関係になる前、掛け値ない愛情を与えてくれていた姉の心は、もう二度と戻らない。
頬を流れた涙が落ち、スカートを濡らした。
どんなに泣きじゃくっても、背中を抱きしめてくれる姉の手はここにない。
カレンはもう戻らない。
自分の手で断ち切ってしまった、かけがえのない絆だった。
お読みいただきありがとうございます。後悔と反省と、姉を慕う気持ち。
*たくさんの方に訪れていただき、本当にありがとうございました。
感謝の気持ちでいっぱいです。いいねも評価もブクマも全部嬉しかったです。後日談と思ったのですが、領主がどうしても出せなかった……!(大変申し訳ありません)。ちなみに領主は独身です。
(個人的に、河童の話に反応いただけた事が一番の衝撃でした。あれ読んでくれた人いるの!? ありがとう、嬉しい、幸せです!)