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3.カレンは村に戻らない


 翌朝。


 いつもより大分遅い時間にトーマスは目覚めた。


「もうこんな時間……。カレン、なんで起こしてくれなかったんだ?」


 いつもはカレンが朝食を作り、スープのいい香りで目覚める。包丁を使う軽い音に、コトコトと煮える鍋の音。中身は軽い卵料理か、野菜料理だ。それでも目覚めなければ、カレンが部屋をノックする。


 ――もう朝よ。起きてください。


 部屋の中までは入らないが、落ち着いた声で起こされると、少しだけ気分がよかった。


 もちろん、エイミーと結婚したら、彼女がやってくれるだろう。


 カレンよりも鼻にかかった甘い声。あの声で起こされたら、きっと幸せに違いない。もっとも今は別々の部屋だが、カレンの目を盗んでいちゃついているから、彼女の声が甘いのは知っている。


 エイミーが自分より早く起きてきた事はないけれど、寝ぼけ眼の彼女は可愛いから、それもいいと思っている。


「カレン。……カレン?」


 いつもならいい匂いのするはずの台所には、火の気がなかった。


 わけもなく胸騒ぎを覚えて、トーマスは寝間着のまま店へ向かった。いつもならとっくに開業している時間だ。

 だが、一歩足を踏み入れたトーマスは立ちすくんだ。


「…………え?」


 店の中は、ほとんど空っぽになっていた。


 薬草を入れてあった棚も、薬を置いていた保管庫も、何ひとつ残っていない。がらんとした店の中、一枚の紙が残されていた。



 ――半分は私のものなので、処分は済ませました。エイミーとお幸せに。



 流れるような文字運びは、間違いなくカレンのものだった。

 見ると、部屋の隅に残った棚だけは、いくつかのものが残っていた。


 村で一番使われる薬草、その調合の仕方と、毒草の見分け方を記した紙。村人が取りに来る無料の乾燥葉。大鍋をかき混ぜる木べらと、驚くほど分厚い帳面。そこには、村人のひとりひとりについての細かな情報が、丁寧な文字で綴られていた。


 トーマスも薬師だが、この村に長くいたのはカレンの方だ。村人の事なら、彼よりもよく知っている。表面的な知識だけでは歯が立たない事も。ここに書いてある以上の事を、彼女なら理解しているだろう。村人が困らないように、カレンは準備をしていたのだ。ひと月という時間を使って。


 そのカレンは、もういない。


「なんで……カレン……」


 どうせそのうち手に入ると思い、金はほとんど使ってしまった。たまに売り上げをごまかしていたが、カレンは気づいていないようだった。だから、甘く考えていた。

 今はカレンが拗ねているが、そのうち金の管理は自分がする。その時に補(てん)すればいいと。


 だがもうカレンはいない。ありったけの薬や薬草、売り上げとともに消えてしまった。

 家や店、大鍋の金額と合わせれば、確かに等価といっていい。だが、彼女は手紙の最後にこう付け加えていた。



 ――あなたが横取りしていた分は、結婚のお祝いに差し上げます。とんでもない男に引っかからずに済んだ幸運のお礼として、どうぞそのまま納めてください。あなたたち、本当にお似合いよ。さようなら。



 金をちょろまかした泥棒と、男をちょろまかした泥棒という意味か。もしそうなら、皮肉が効いて――いや、効きすぎている。


「カレン……」


 その時、扉を叩く音がした。


「いつもの薬が欲しいんだが、用意してくれるかい?」


 現れたのは、しょっちゅう店に来る老人だった。

 相手をするのが面倒で、いつもカレンに任せていた。彼の名前すら自分は知らない。


 帳面をめくろうにも、名前を聞く必要がある。大きな町ならいざ知らず、この小さな村で、しかも常連の名前を今さら聞くのは外聞が悪い。


「そうですね……あの、症状は?」

「何言ってるんだい。いつものやつを出してくれって言っとるんだよ。カレンはどこだい? あの子ならよく知っている」

「いえ……カレンはその、今留守で」


 そうなのかいと言い、老人は薬の名前を告げた。ほっとしたのも束の間、すぐにトーマスは青くなった。薬の在庫がまったくない。


「半日もあればできる薬だと、カレンは作り立てを用意してくれた。今日はいいから、明日にでも作っておいてくれるかい」

「はい……確かに」


 老人の言う薬は、確かに半日もあればできるものだ。けれど、手間がかかる作業があり、トーマスはしばらく作っていない。いきなり作れるかは不安だ。それに、ものすごく面倒くさいので、正直言ってやりたくない。大変な割に儲けも少ない。割に合わない作業だ。


(カレンがいれば任せられるのに……)


 そんな事を思っていると、ふたたび店に客が来た。


「あら、カレンちゃんは?」


 今度は中年の女性だった。顔に見覚えはあるが、やはり名前は分からない。それでも必要なものを聞くと、火傷の薬だと言われた。


「火傷の薬は……ええと、今、在庫がなくて」

「何言ってるの? あの子がいつも補充してくれていたじゃない。もしかして、駄目にしてしまったの?」

「そうではないんですが、あの、ええと、ちょっとした事情があって」


 しどろもどろのトーマスに、女性は眉をひそめた。


「こんなことを言ってはなんだけど、あなたとエイミー、いい噂を聞かないわよ。婚約者をすげ替えたんじゃないかって話まで出ているくらいだもの」

「それは、あのっ……」

「まさかそんな恥知らずな真似はしないと思うけど、薬の管理はしっかりしてちょうだい」


 女性が帰っていくと、トーマスはがっくりと座り込んだ。


 こんなはずではなかったのに、どうしたらいいんだろう。


 薬は補充できるだろう。自分は薬師だから、薬を作る事はできる。けれど、カレンのような手際の良さで、あれだけ質の良いものができるかは不明だ。


 おまけに、カレンが使っていた愛用の道具も店にはない。大鍋や窯、値の張る道具はそっくりそのまま残っているが、細かな作業には向いていない。どうせカレンがやるのだからと高をくくって、自分の道具には錆が浮いている。とてもすぐには使えない。


 そんな状況で、すべてをこなさなくてはならない。

 カレンの持ち物は一切残っていない。この店に戻るつもりがないのは明らかだ。


 カレンなしで、この大きな棚を埋めるほど大量の調合ができるのか。


 村人達への説明は。買い付けの時期と、相場の値段は。支払方法は。取引相手は。納品の内容は。薬草の採集は。保存は。薬店の仕事は。店番は。引継ぎは。


 そのすべてを知る人間は、煙のように消えてしまった。

 今まで真面目にやっていれば、できないはずはない。けれど、トーマスには分からない。すべてをカレンに押しつけて、知らん顔をしていたから。


 当然知っているはずの事さえ、何も分からない。知らない。聞いていない。何も――何ひとつ、分からない。


(どうしたら……)


 一体、どうすれば。


 裏口の扉が開いたのはその時だった。


「カレン……っ」


 駆け寄ろうとしたトーマスは動きを止めた。


「トーマス、どうしたの?」


 そこにいたのはエイミーだった。

 寝間着姿のまま、欠伸を噛み殺している。いつもなら可愛いと思うはずの姿に、一瞬「だらしない」という思いがよぎった。


「ご飯の支度もできてないし、部屋の窓も開けてないし。お姉ちゃんは何してるの? ちゃんと注意しておかないと」

「いや、カレンは……」


 言いかけて気がついた。彼女に手伝ってもらえばいい。


「エイミー、君は上級学校を卒業したんだろう? 薬草の知識もあるだろうし、僕が言う薬を作ってくれないか。面倒な作業だが、時間をかければ失敗はない。作り方は――」

「えー、嫌よ。何言ってるの?」


 だが、その返事に愕然とした。


「あんな力仕事したくない。それに、あたし、薬草の知識なんてないもの。無理よ」

「だ、だが、君は上級学校で……」


「この店で働きたくなかっただけだもの。学校のみんなとはお茶やお菓子を楽しんで、洋服の話をいっぱいしたけど、それだけよ。勉強なんて覚えてない。トーマスと結婚すれば、あたしはトーマスのお嫁さんよね? お嫁さんなら働かなくてもいいんでしょう? 面倒なことは、お姉ちゃんにやらせておけばいいじゃない」


 いい考えだとでも言いたげな彼女に、トーマスは信じられないという目を向けた。


「何言ってるんだ、エイミー? カレンは……無理だよ」

「何が無理なのよ。いつも通り、仕事を押しつければいいじゃない。断らずにやってくれるわよ。それよりあたし、今日は町に買い物に行きたい。欲しい洋服があるの。ねえ、いいでしょう?」


 甘えるような声を聞きながら、トーマスは頭がぐらぐらするのを感じていた。


 これから老人に言われた薬を作り、火傷の薬を調合して、棚いっぱいの薬の製作、薬草の補充、時間のかかる調合、できた薬を片っ端からチェックして、品質の足りないものは作り直して、無理なら買い付けに――ああいや、金はすでにない。エイミーにねだられて使ってしまった。店にはわずかな小銭だけだ。これでは必要な材料も手に入らない。


 やるべき事、やらなければならない仕事の多さに、気が遠くなりそうだ。


 自分は今まで、どうやって暮らしていたのだろう。


 いつもなら今ごろは、おいしい朝食でお腹を満たし、ぱりっとしたシャツに着替えて、店でコーヒーでも飲んでいるところだ。忙しそうに立ち働くカレンを横目に、のんびり品質のチェックをしていればよかった。それも面倒になれば、エイミーが呼びに来ないかなと思っていた。そうすれば、仕事を押しつけて遊びに行ける。


 この家に来てから、毎日が楽で楽しかった。


 薬の調合を任せても、店の仕事を押しつけても、カレンは文句も言わずにやってくれた。いや――違う。正確に言えば、最初は苦言を呈されたが、エイミーが言い返せば要求が通った。だから、そんなものだと思ってしまった。エイミーに感化され、自分までカレンを雑に扱った。


 若く美しい婚約者に乗り換えて、地味な姉に仕事を押しつける。それですべてがうまくいくと思っていた。


 自分の未来は明るいはずだった。――それなのに。


「どうして、こうなったんだ……」


 なるべくしてなったのだという答えは、彼の耳に届かない。


「カレン、戻ってきてくれ……」


 その言葉を聞く者は、もはやどこにもいなかった。



    ***

    ***



「……くしゅっ」


 小さなくしゃみが出て、カレンは立ち止まった。


「風邪かしら。嫌だなあ」


 冬はまだ先だというのに、ここで足止めを食いたくない。幸い、鼻がむずむずしただけだったらしく、ほっと胸をなで下ろした。


「風邪薬は……大丈夫よね。大量に作って渡してきたし、咳止めと熱冷ましも用意したし……そうだ、痛み止めと傷薬も」


 指を折り、抜けはないか確認する。


「湿布薬はメイベルおばあちゃん、塗り薬はジョンさんに、関節の薬と、火傷の薬はマーチさん。足りなければ他の人に分けてあげてって言っておいたし……行商の人にも話は通してあるから、大丈夫」


 ひと月という時間は短いが、やれる事は多い。


 カレンは与えられた時間を使い、目いっぱいの薬を作製した。村人の持病ならほぼ熟知している。そのため、自分がいなくなってもすぐに困る事のないよう、大量の薬を作り置いた。保存の仕方も教えてある。


 補充が切れる前に、行商人が来るよう手配した。彼は完成品の薬も取り扱っている。トーマスが製作しなくても、村の人が困る事はないだろう。そのために、手付金を多めに払っておいた。彼は二つ返事で承知してくれた。


 必要ならば、隣村で薬を買ってきてくれるという。足の悪い人もいるから、その申し出はありがたい。定期的に薬が買えるよう、追加の金も積んでおいた。おかげで手間賃はかさんだが、後悔はない。


 カレンが村に残っていた理由は、村人の存在だった。


 いくらトーマスとエイミーに腹が立っても、すべてを放り出していくわけにはいかない。父親が生きている時から、死んだ後もずっと、何くれとなく気にかけてくれた人達だ。


 あたたかい料理をお裾分けしてくれたり、洋服の繕い方を教えてもらったり。カレンにとって、彼らはもうひとつの家族でもある。だからこそ、あんな目に遭った後も、知らん顔で出て行く事はできなかった。


(私が出て行くことについて、みんな怒ってくれていたけど……あんまり過激なことはしてほしくないなあ)


 特にしばらくの間は、トーマスの店に行かなくても大丈夫なようにしたので、目立った騒ぎにはならないだろう。多少売り上げは落ちるだろうが、それは仕方ない。


 もっとも、それを承知でわざわざ店に向かうような人間がいるなら話は別だが――。


 そこまで気にしてあげる事はないわねと、カレンはちょっと首を振った。


 甘やかしすぎた自分にも原因はある。ちゃんと(いさ)められなかったのも。

 だからこそ、次は失敗したくない。


「もう男はこりごりよ。これからは自分の足で生きていこう」


 婚約していた数年で、男はすっかり嫌になった。

 妹には複雑な思いがあるが、それでも戻るつもりはない。順番を無視したのはあちらの方だ。

 不幸になれとは思わないが、奴隷になるのはまっぴらだ。


 だから、戻らない。


(まずはどこに行こうかしら……。とりあえず、今夜の宿を見つけないと)


 隣村までは、歩いて半日。

 早朝から家を出てきたため、あと一刻もあれば辿り着ける。


 その先は深い森があるから、行くなら翌日の方がいい。

 カレンの顔を知っている人間がいるかもしれないが、それはそれだ。問題ない。噂が村に届くころには、自分は出立しているだろう。


 問題は何もない。あとは自分が進むだけだ。


「行こう、次の村へ」


 大きな鞄をゆすり上げ、カレンは目を上げた。


 この中には愛用の道具と薬草が入っている。貯めていた金はほとんど使ってしまったが、また稼げばいいだろう。幸い、手に職はある。落ち着いたらすぐに仕事を探そう。


 陽の光が降り注ぎ、赤い髪をきらきらと輝かせる。

 緑の瞳が細められ、カレンは晴れやかに微笑んだ。


「いい天気」


 門出にはちょうどいい。

 さあ――出発だ。




    ***

    ***

    ***




 それからしばらくして、こんな噂が流れてきた。


 田舎から出てきた無名の薬師が、重病に冒されていた領主の娘を助けたという。


 その功績により領主に召し抱えられ、次々に新しい薬を作製したと。


 赤い髪に緑の瞳の美しい女性は、数多の求婚者に見向きもせず、黙々と薬を作り続け、領主の求婚まではねのけた。だが、彼らはまったくあきらめず、あの手この手を使って彼女に言い寄り、やがて根負けした彼女がその手を取った人間がいるとか――いないとか。


 すべてはただの噂である。


 ただ、彼女は輝くように美しく、幸せそうだったと、口をそろえて皆が言う。


お読みいただきありがとうございます。前回の主人公が割とぽやぽやした感じだったので、今回はややしっかり者(?)になりました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

あとエイミーはこの先苦労すると思うので、今だけは苦労知らずでいいんじゃないかなと思う……(直近では朝食すらまともに食べられないので)。


※あの分厚い帳面は、カレンが父親から受け継ぎ、コツコツ書き溜めていたものです。出て行くにあたって内容の確認・追加を行いましたが、紛れもなくカレンの財産のひとつです。あとトーマスは薬棚の角に膝と小指とスネとくるぶしをぶつけるといい。


あとがき長くなってごめんなさい。お気が向かれましたら、またいらしてくださいね!

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