2.カレンは村を捨てたくない
だから、意味が分からなかった。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。そういうことなの」
上級学校卒業の日、突然現れたエイミーが、申し訳なさそうな顔で言った。
「そういうことって……どういうこと?」
「だから、あたしはトーマスと結婚するの。お姉ちゃんには悪いけど」
エイミーの腕は、トーマスにべったりと絡みついていた。
「結婚って……トーマスは私の婚約者よ? それにあなた、就職するんじゃなかったの?」
「いい仕事なんてないもん。それに、お嫁さんになれば働かなくても済むじゃない」
いい考えでしょ? と言わんばかりの表情に、頭の芯がくらりとする。
「いやいやいや……」
突っ込みどころは多々あるが、あまりの事に言葉が出ない。
そもそも、無理を言って進学したのは、もっと勉強するためではなかったか。ひいては就職に役立つからだと、熱を込めて語っていた。そのための金を前借りしているのも同然の状況で、なぜそんな事が言えるのだろう。
婚約者に目をやると、バツの悪そうな顔をしていた。
「トーマス……。本気なの?」
「いや、その、君に悪いとは思ってるんだ、カレン。でも君はしっかりしているし、僕がいなくても大丈夫だろう。だけど、エイミーは駄目なんだ」
「何が駄目なの?」
「僕がいないと死んでしまうって……。僕も、頼りにしてくれない君よりも、彼女の方が可愛くなってしまって……。それに、君はいつも忙しそうだし、着飾ることもしない。女を捨てているようで、なんだか……冷めるよ」
――それを聞いたこちらが一瞬で冷めるようなセリフを吐いた彼は、もごもごと口ごもった。
「エイミーは君と違って、上級学校を卒業してる。それだけでも大したものだ。お父さんが薬師だったから、薬草の知識もあるみたいだし。若くて美人だって、両親も賛成してくれている。あ、いや、カレンがそうじゃないって言ってるんじゃなくて……」
「……ご両親も知ってるの……?」
しまった、という顔になったが、トーマスは上目遣いに頷いた。
「婚約解消ということになれば、色々と面倒だと思って……」
「そうね、とっても面倒だわ」
だから婚約破棄を申し入れるより先に、両親に話を詰めたのか。
カレンとの婚約が決まった時、あちらのご両親に挨拶した。二人ともにこにこ笑っていて、お似合いだと言ってくれたのに。
足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚の中、カレンはなんとか踏みとどまった。
「お店は……どうするの?」
こうなってしまっては、一緒に働く事などできない。
トーマスがエイミーを連れ、実家に戻るのが普通だろうが、あの家には長男一家が住んでいる。次男一家も近所にいるはずだ。権利関係の事もあり、戻るのは難しいだろう。
だとすれば、別の村で開業するのか。
一からそろえるのは大変だろうが、二人ならやれるだろう。だとすれば今使っている道具は――……。
「ああいや、それなんだけど」
そこでトーマスが目をそらした。
「……ここで続けようかと思ってる」
「は……?」
カレンの目が丸くなる。
「結婚相手は変わったけど、エイミーだってここの娘なんだし、おかしくはないはずだ。財産を分けるなら、エイミーにも権利がある。だから、僕たちはここで薬師として働こうと思ってるんだ」
「……冗談でしょう? 何考えてるの?」
「君もここにいていいよ。今まで通り、仕事は君がやればいい。僕も品質の確認はするし、エイミーが家のことはやってくれる。場合によっては、店番だってできるさ。エイミーは可愛くて愛想もいいし、看板娘になるはずだ」
「本気で言ってるの?」
「君だって、働く場所は必要だろう? 薬師の資格があるとはいえ、十七歳の女の子がひとりで暮らしていけるはずがない。ここにいた方が安心だ」
「えー、あたしは二人っきりがいいなぁ」
エイミーが唇を尖らせる。
「悪いけど、お姉ちゃんはこの店に毛布を敷いて寝てくれる? 家の仕事はやっていいから、あたしたちの邪魔はしないでね。この家はあたしにも半分権利があるの。出て行けって言われても、知らないから」
「エイミー……」
妹を見ると、勝ち誇った顔で笑われた。
「いつも偉そうなことばっかり言ってたくせに、婚約者も繋ぎ留められないのね。お気の毒さま。心配しなくても、トーマスはあたしが幸せにするわ。子供が生まれたら、お姉ちゃんにも抱かせてあげる。お世話もさせてあげるから、感謝してね」
「こら、エイミー。言いすぎだよ」
「だって、トーマス」
べたべたといちゃつく二人を見ながら、カレンはふらりと体を揺らした。
倒れてしまいたかったが、そんな事はできなかった。
「……それがあなたたちの結論なの?」
「ああ……」
「そうよ、お姉ちゃん」
「分かった。心の準備をするから、ひと月だけ時間をちょうだい」
うつむいたまま言うと、妹の唇が吊り上がったのが分かった。
「ええ、もちろんよ。あたしの大事なお姉ちゃん」
その日から、カレンはこまごまとした準備を始めた。
店の一角に毛布を敷き、身の回りのものを整理する。持ち物は大分少なくなったが、仕方のない事だった。今まで自分が使っていた部屋は、トーマスのものとなった。
トーマスはさすがに居心地が悪そうだったが、エイミーは満足そうな顔をしていた。
今まで知らなかった事だが、エイミーはずっと我慢していたらしい。
いい子ぶった姉が大嫌いで、贅沢をさせてくれない事が憎らしかった。美人で才能のある自分が上級学校へ行くのは当たり前で、カレンの婚約者が自分になびくのも当然なのだと。胸を張り、堂々とした口調で言い放った。
今までは我慢していたが、もうそれも必要ない。この家の主人はトーマスで、自分はその妻になるのだと。
そのすべてを黙って聞き、カレンはごめんなさいと謝った。
あなたの気持ちを知らずにごめんなさい、傷つけてしまってごめんなさいと。
その贖罪のように、カレンはいつも以上に働いた。薬草の買い付けだけでなく、お得意様を回って症状を聞き、必要な材料を高額で買い、足りない分は自分で育て、たくさんの薬を作った。薬草園の手入れも続けた。出入りの行商人にもメモを渡し、あれこれ細かな注文をつけた。
掃除や洗濯、食事の支度も、今まで通りカレンが行った。エイミーは当然とばかりに任せていたし、トーマスもやがて慣れていった。元々、すべてカレンが行っていた事だ。
幼いころ、何度かエイミーに手伝わせようとしたが、絶対に嫌だと泣いて駄々をこね、何ひとつ手伝わなかった。エイミーは家事全般をした事がない。だから、これもカレンの仕事だ。
「カレン、最近在庫が少なくないか?」
「店に私の場所を作ったから、配置を少し変えたのよ。全部は置ききれないから……ごめんなさい」
悲しそうに言えば、トーマスもまずいと思ったのか、それ以上は言わなかった。
今は他人になったのだからと言い張って、金の管理も別々にした。
最初こそ、カレンが村を出て行ってしまうのではないかと危ぶんでいた彼らだが、いつもとまったく変わらない彼女の様子に、すぐに安心したようだった。
彼女はここを出て行かない。行かないのではなく、行けないのだ。
それも当然だろう。たったひとりで何ができる。彼女は平凡な田舎の薬師だ。多少嫌な事があろうと、我慢してここにいるしかない。
それに、彼女は村を捨てられない。どんなに腹が立っても、村人を残して出て行く事はできない。この村には薬を必要としている人間が大勢いる。そのうちのいくつかは、カレンにしか作れない代物だ。
たとえトーマスがひどい事をしても、エイミーが無茶なわがままを言っても、カレンに逆らう術はない。
約束のひと月が過ぎれば、彼女も心の整理を終え、落ち着くに違いない。彼らはそう思っていた。
カレンにもそんな二人の内心は伝わっていたが、やはり口答えはしなかった。
「お姉ちゃん、服にシミが残ってる。ちゃんとやってよ」
「ごめんなさい、すぐやるわ」
「結婚式用のドレスにこんなことしたら、一生恨んでやるから。早くしてよね」
彼らの結婚は、エイミーが十八になる時と決まった。二年遅く、花嫁がすげ替えられただけの、同じ内容だ。
カレンはもうすぐ誕生日。十八歳になろうとしていた。
本当なら自分がその立場だったと思う暇もなく、時間は飛ぶように過ぎていく。
カレンは毎日遅くまで働き、家の仕事をこなし、薬やポーションをいくつも作って、黙々と日々を過ごした。下働きのように扱われるのも慣れた。エイミーはここぞとばかりに文句を言い、あの時はああだった、この時はこうだったと、カレンからのお説教がいかに嫌だったかを延々と述べた。
いつか痛い目に遭わせてやろうと思っていたのだと言った時だけ、カレンがわずかに目を伏せた。その顔は少しだけ悲しそうに見えた。
「トーマスなんて、最初は好きじゃなかったけど。割とお金持ちだし、顔もそんなに悪くないし。奪っちゃってごめんね、お姉ちゃん?」
あはははっと笑いながら、エイミーは綺麗な髪をかき上げた。
「今のお姉ちゃんは嫌いじゃないよ。これからもよろしくね」
「……そうね、どうかしら」
カレンはうつむいたまま、寂しそうに笑った。
明日が約束のひと月という日も、カレンは作業を続けていた。
「やあ、カレン」
いつものように大鍋をかき混ぜていると、後ろに人の気配がした。
「なあに、アンダーソンさん」
「そんな他人行儀な……。トーマスって呼んでくれよ、今まで通りに」
「そういうわけにはいかないわ。立場的には義弟でも、村の人がどう思うか。私、あなたが恥をかくのは困るわ」
「……カレンはやさしいな」
照れたように笑いながら、トーマスが横に立ってくる。こんな風に話をするのは久々だったが、いささか迷惑な距離だった。無関係の男女にしては近すぎる。
「なあ、やっぱり怒っているんだろう?」
「怒ってないわ。あなたとエイミー、お似合いだもの」
「またそんな強がりを……。確かにエイミーは可愛いけど、君だって十分可愛いじゃないか。赤い毛は暖炉の炎みたいだし、緑の目は宝石みたいだ。本当に綺麗だよ、カレン」
「……お酒でも飲んでるの?」
いつもとは違う様子に、カレンが訝しそうな顔になる。
「そうじゃないよ。その、君も十分魅力的だから、別に気を落とさなくてもいいって言うか……」
「別に気を落としてないわ。言ったでしょう、二人ともお似合いだって」
「君は僕がエイミーのものになってもいいのか?」
「何言ってるの、あなた?」
話の意図が読めず、カレンは目を瞬いた。エイミーのものも何も、そうなりたいと言ったのは彼らの方だ。それとも、今さら嫌だとでも言うつもりだろうか。
「エイミーと喧嘩でもしたの? だからって、そんなこと言われても困るけど……」
「そうじゃないって」
「じゃあ、何?」
顔を上げると、トーマスがこちらを見つめていた。
ごくりと唾を飲み込んで、彼は言った。
「エイミーとは結婚する。けど……その、君ともそういう関係になってもいいと思ってるんだけど」
「…………は?」
何を言われたのか分からず、カレンは思わず聞き返した。
「強がらなくてもいいよ。ここを出て行かない時点で、君の気持ちは分かってる。かいがいしく働いてるのは、僕のためなんだろう? 僕に食べさせたくて、毎日おいしい料理を作ってる。掃除や洗濯も完璧だ。店のことだって、いつも君が働いてる。それって、好きな男を……僕を、振り向かせるためなんだろう?」
カレンはまじまじと男を見た。
久々に見たトーマスは、わずかに頬を赤くしている。緊張もしているが、それ以上に得意げな様子だ。鼻の脇がひくひくして、優越感が透けて見える。手を伸ばされそうになり、反射的に払いのける。パシンと軽い音がした。
「カレン?」
トーマスは目を丸くしている。拒否されるとは思ってもみなかったらしい。
だからカレンは遠慮なく言った。
「誤解しているところ悪いけど、そんなつもりはさらさらないわ。私はあなたと復縁しないし、愛人なんてまっぴら。これ以上言うなら、全部エイミーに話すわよ」
「な、カ、カレン!」
「名前で呼ばないで。ロックベルと呼んでちょうだい」
それと、と一歩距離を取り、カレンは冷ややかに告げた。
「あなたのためなんかじゃないわ。どうせ食べるならおいしいものが食べたいし、父さんが住んでいた家を、綺麗に保ちたいのは当然でしょう。洗濯をしなければ悪臭がするし、店の仕事を怠ければ、たくさん困る人がいる。それだけよ、誤解しないで」
「な……な……」
「ああでも、ひとつだけいいことがあったわ」
そこで言葉を切り、カレンは笑った。
「あなたみたいな男と結婚しなくて本当によかった。それだけはエイミーに感謝してるわ」
その顔ははっとするほど美しかった。
ぽかんと見とれたトーマスを追い出し、カレンは背を向けて言い捨てた。
「分かったら出て行ってちょうだい。今日はやることがたくさんあるの」
この男は扉の角に尾てい骨をぶつければいいと思う(すごく痛い)。