体温
委員会の仕事で、千佳は少し早めに学校に来ていた。ここのところ雨が降らないのでサルビアの葉が少し枯れてきていた。
水やりを終えて、外の水道で手を洗っていると、遠くから大声で名前を呼ばれた。
「河原さ~ん!」
何事かと思って振り返ると、土煙を上げて走ってくる人影が見えた。読書クラブの幽霊部員、野球部所属の知宏先輩だ。
大きく手を振り、輝くような笑顔で駆け寄ってくる。
朝練だからかユニフォームではなくジャージにTシャツだ。
知宏先輩はその人懐っこさと行動力でとても顔が広い。学内で有名人なのだ。気づかないふりで何とか逃げられないだろうか。
きょろきょろしたせいでだめ押しのようにまた名を叫ばれる。
「か~わ~は~ら~さ~ん!」
これは逃げても無駄だ。実際、もう目の前まできているし。千佳は色々と観念した。
「あのさ、この前借りた本面白かったよ! 返そうと思ったんだけど」
彼は自分のジャージ姿を見下ろして、にかっと笑った。
「あるわけなかった!」
「あの、あのですね。あの本はマリ先輩のものです。もともと、マリ先輩のおすすめで」
「そうだっけ。でもあいつ、おいしそうしか言わないから」
先輩が読んだのはビストロ・パ・マルのシリーズ第一作「マカロンはマカロン」だ。小さなフレンチレストランが舞台のミステリーなので、おいしそうで合っている。
けれどなぜか先輩は、千佳に礼を言いに来た。。
「面白いって教えてくれたのは河原さんだろ? だから、ありがとう。本はマリに返しとくよ。それだけじゃーね~!」
あっと思ったときには、彼はすでに駆け出している。
三分も話していなかったと思う。
それでも結果として、千佳は教室に入ってすぐに上中下トリオに取り囲まれる羽目になった。
「河原さんてさ、知宏先輩と仲いいの?」
声をかけてきたのは三人の中で、いやクラスで一番背の低い村上だった。ポニーテールが頭の高い位置で揺れている。
背後にショートカットの中田とサイドテールの山下を従えて、精一杯ふんぞり返っている。小学生に見えるので全然怖くないのだが。
「マリ先輩を間に挟んでなら」
千佳は答えて自席に向かった。
この三人組、妙に絡んでくると思ったら、知宏先輩めあてだったのか。
「先輩は私ではなくマリ先輩と仲がいいの」
「ふうん。マリ先輩って、どんな人?」
「おっとりした、きれいな人」
ざっくりした質問には、ざっくり返していいだろう。カップ焼きそば好きのかわいい人、ということまで教える気はない。
「ホントに、河原さんと仲良しってわけじゃないんだよね?」
「あの先輩は、誰に対してもあんな態度じゃない?」
千佳が首を傾げて見せると、まあそうかも。という雰囲気になった。
知宏先輩が読書クラブに所属していることはあまり知られていない。幽霊部員とはいえ、同じ部活に所属していると知られれば少し厄介だ。協力しろとか言われても困るし。
幸い、彼女たちは千佳の返答に満足したようだ。何か言いあいながら自席に戻っていく。
ほっとして小さく息を吐くと、隣からふき出すような声が聞こえて、千佳は渡辺を睨みつけた。
今日もマリ先輩は部活を休むようだった。一年生は図書委員の当番だ。
ということは、渡辺と二人だと気づいて千佳は帰りたくなった。渡辺はそのあたり頓着しないようだった。むしろ機嫌がよさそうだ。
「今朝は見ものだったね」
話題を振られたので千佳が見やると、渡辺は肩をすくめて見せた。
「毛色違い先輩のことで、上中下トリオになんか言われただろ?」
「それ、やめなよ失礼だよ」
「上中下トリオ?」
「そっちじゃなくて! 渡辺くんが野球部に入れば、渡辺くんの方が毛色違いだよ」
「僕は野球部には入らない」
千佳はムッとして、渡辺に鍵を差し出した。
「あたし、今日は帰る」
と部室から出ようとした時、ちょうど誰か入ってくるところで、千佳は鼻をぶつけた。
「あ! ごめん、河原さん」
そこには制服姿の知宏先輩が立っていた。
「先輩? 部活は?」
これは野球部のことである。向こうもその前提で聞いていると思う。
「進路指導。速攻終わったから、マリに本返してから行こうと思ったんだけど。そうだよなあ。休みだよなあ」
と頭を掻いた。
「あ、あの、マリ先輩ちょっと元気がなかったような気がするんですけど」
「あー、マリな。おばあさんが亡くなったそうなんだよ。それでちょっとな」
じゃあやはり、千佳が目撃したあの幽霊はマリ先輩のおばあさんだったんだ。
分かったところで、千佳に何かできるわけではない。仁也にも叱られてしまったし。
「マリ先輩のために……」
「ん?」
「できることってないんでしょうか」
気づけば、千佳は知宏先輩にそう尋ねていた。知宏先輩は珍しく難しい顔でうなっている。
困らせてしまったことにおろおろしていると、知宏先輩はにぱっと笑った。
「河原さんが心配してたって、マリに言っとく」
と踵を返そうとするので、千佳は思わず知宏先輩の制服を引っぱった。
「いえ、あの、言わないでください! マリ先輩気にします。あたし、マリ先輩に無理して欲しくない!」
千佳が必死で見上げると、知宏先輩はちょっと目を見開いた。それから何を思ったか千佳の頭をぐりぐり撫でまわす。
「分かった! 千佳ちゃんがそういうなら」
「ち、千佳ちゃん!?」
「マリがそう呼んでるだろ? だから俺も」
「え? え?」
「じゃ俺行くわ。渡辺もまたな!」
さわやかに手を振って先輩は去っていった。
千佳は呆然とその後姿を見送る。
「……千佳ちゃん」
渡辺がぼそりと呟いた。
「ちょ! やめてよ!」
「髪、すごいことになってるよ」
慌てて直したものの、今の衝撃で脳が沸騰してしまったのだろう。思ったまま口にしてしまった。
「先輩の手、ぽかぽかしてた」
次の瞬間。何の前触れもなく、首筋に冷たいものを当てられて、千佳は「ひゃっ!」と悲鳴を上げた。
「今日は僕も帰る。閉めるよ」
渡辺が鍵を振って見せるので、千佳は首筋に押し当てられたものの正体を知った。
それでも不快感が拭えず、千佳は首を押さえた。
自室に帰って、千佳はそっと自分の額に触れた。
先輩の手が当たってぽかぽかしたところ。
先輩の体温を感じて、千佳が思い浮かべたのはむしろ仁也のことだった。
仁也がどれだけ千佳に触れても、彼の体温を感じたことがない。
分かったつもりでいても、まだ分かっていなかったのかもしれない。彼がこの世の人間ではないということを。
千佳は、そっと窓を見やった。
仁也に会いたいのか、会いたくないのか、よく分からなくなった。
夜半から雨になった。天井を叩く雨音を聞きながら、千佳は手の甲で目元を覆った。
手首に付けた金木犀の香りが煩わしく、余計に眠れなくなった。