考えるべきは死者のことじゃない
「それでね、このエレガントマヨネーズ味なんだけど、数量限定なんですって。しかも抽選なの」
マリ先輩は、相変わらずカップ焼きそばのことで頭がいっぱいらしい。
千佳は葉書を手渡されて、頷いた。
「分かりました。私でいいなら。あまり、当たる気はしないけど」
「そんなこと言っちゃだめ! 気持ちで負けていては勝てる勝負も勝てないのよ!」
数日前は、そんなことを言って元気いっぱいだったマリ先輩が、少し沈んでいる。
その理由は彼女の肩ほどに佇む婦人のせいかもしれない。
ツーピースを上品に着こなしたきれいな人だ。お母さんではないだろうから、おばあさんだろうか。
マリ先輩は誰かを亡くしたのだ。そして、幽霊は先輩に別れを告げに来ている。
登校中に先輩は前方を歩いていたのだが、千佳はとうとう声をかけられなかった。
ハンカチをなくしたことに気が付いたのは放課後だった。
落としたとしたら昼休みだろうか。
千佳は掃除当番を終えた後、落とし物のコーナーをのぞき、職員室にも行ってみたのだがハンカチは届いていなかった。
珍しく、ピンクでも白でもない水色と白のギンガムチェックのハンカチだった。
がっかりしながら部室に行ったのだが、鍵が開いてなかった。
さっき職員室に行ったのに。と、さらに落ち込む。
今日はもう帰ってしまおうかと考えたとき、後ろから声をかけられた。
「千佳ちゃん」
慌てて振り返るとマリ先輩がいた。
「よかった~。誰もいないかと思ったわ。悪いんだけど、今日ね、わたし用事があるのよ。鍵お願いするわね?」
「あ、はい」
頷いて、そっと先輩の背後に目をやる。
幽霊はまだマリ先輩のそばにいて、先輩を心配そうに見つめていた。
千佳がこっそり見つめていたせいだろうか。幽霊の方も千佳に気付いてこちらを向いた。
千佳は部室にポツンと一人で立つ。
遅くなったと思ったのに、他の部員もなかなか来なかった。
本を開く気にもなれなくて、千佳は窓辺に寄りかかる。いつもマリ先輩がいる窓辺からはグランドの一部が見える。野球部の練習風景がちらりと見えた。
遠くから聞こえる運動部員たちの掛け声と、廊下を行き交う人々の足音や、楽し気な笑い声。
そんなものを聞きながらぼんやりしていると、カタンという小さな音がして、千佳はギクリとして振り向いた。
入り口のところに渡辺が立っていた。
「今日、やき弁先輩休むってさ」
「あ……、うん。さっき鍵を預かった」
「なに? 幽霊でも見たような顔して」
「え?」
言われて千佳は自分の頬に手を当てる。
「そんな顔してた?」
「さあ? 河原さんは表情を隠すから。僕にはよく分からないよ」
千佳はちょっとムッとした。長い前髪で表情を隠しているのは渡辺の方だ。最近ちょいちょい絡まれるが、何か彼の気に障ることをしただろうか。思い返しても分からない。
「先輩、元気なかったね。気づいてた?」
渡辺が意外なことを言うので、千佳はまじまじと彼を見つめてしまった。
「……渡辺くんも?」
「河原さんは、何かしないの」
「え? 何かって?」
「さあ」
渡辺は口の端を上げた。
それきり彼は持参した本を読み始めた。
来ないかと思っていた一年生二人もやってきた。挨拶を交わして本を読み始めたので、千佳は帰り損ねてしまった。
何かしないのか、そう聞かれたとき千佳が思い浮かべたのは幽霊のことだった。
マリ先輩に伝えたいことがあるのだろうか。
伝えてあげることが、できるだろうか。
「千佳、とうとう幽霊まで連れてきちゃったのか」
窓から入ってこようとした仁也が、半端な姿勢で止まるので、千佳は首を傾げた。
仁也は千佳の背後を顎で示した。
振り返ると、ドアの近くにあの幽霊がいた。マリ先輩のそばにいた女性だ。
やっぱり何か言いたいことがあったんだろうか。
千佳が口を開きかけたとき、後ろから仁也に目をふさがれた。
「え? 何? 仁也」
「ダメだよ、千佳。見ないふりしなくちゃ。彼らに干渉しちゃだめだ」
耳元で聞こえる仁也の声は、思いがけず厳しいもので千佳は戸惑った。
仁也が千佳の部屋に入ったからか、目隠しを解かれたとき、幽霊の姿はすでになかった。
「でも、なにか伝えたいことがあったのかも」
それでも千佳は部屋の中を見回した。
「死者に残された時間は多くない。たとえ千佳が何か託されたとして、期日までに叶えられなかったら? 未練を残せば彼らは亡者になってしまうかもしれない。彼らが生まれ変わる機会を、千佳が奪ってしまうかもしれないんだ」
「でも、あたし! マリ先輩のために何かしたくて!」
「千佳!」
怒鳴りつけるような仁也の声に、千佳はハッとして口を閉ざした。
「何かしたいなら死者にではなく、その、マリ先輩って人にしろよ。考えるべきは死者のことじゃない。生者のことだろう」
「それ、仁也が言うの? 仁也だってあの世の人間じゃない!」
千佳が感情に任せて言いつのろうとした時、ノックの音が響いた。
その音だけで、千佳は頭から水を掛けられたように口を閉ざした。
恐る恐るドアを開けると、兄が冷たい顔で千佳を見下ろしていた。
「おまえ、うるさいよ。何騒いでんだよ」
「あ、その……。朗読」
「ふうん。ずいぶん熱の入った朗読だな。幽霊と話してるのかと思ったよ」
「あ、まさか」
「どうでもいいけど、母さんの前ではやめろよな。せいぜい普通にしてろよ。あの人、またキレるぞ」
「ごめんなさい」
青ざめる千佳に対して兄は舌打ちをして、身をひるがえす。
「飯だってよ」
そう言いながら、扉を乱暴に閉ざした。
しばし呆然と扉を見つめていた千佳だが、ふと思い出して窓の方を見た。
仁也はすでにいなかった。
「あ……、香り」
仁也は食事をしていかなかった。
怒らせた。いや、嫌われたかもしれない。
扉にもたれるように座り込んで、顔を覆う。涙は出てこなかった。
それどころか、最悪なことにこんな時まで考えたのは自分のことだった。
早く降りなければ叱られてしまう。