息がつまる
クローゼットを開けるときは、いつも少しばかり息がつまる。
見えるのはピンクと白ばかり。普通の女の子は、こういうものを着るのだと、千佳の母親は思い込んでいる。
千佳には全て同じ服に見える。だから右から順に選んでいく。
手に取ったのはピンク色のワンピースだった。
千佳は出かける前に、手首にほんの少し練り香水を付けた。仁也がいつ現れてもいいように。
千佳は昨日、結構遅くまで本を読みながら仁也のことを待っていたのだが、彼は姿を見せなかった。
毎日来ると言っていたのに、地獄にも休日があるのだろうか。それともよそでつまみ食いでもしてるのか。
とはいえ彼が香りを食べる瞬間は、本当に身の置き所がないので、できれば外出中は出てきて欲しくないけれど。
千佳は公共図書館に向かっていた。昼食代は居間のテーブルに乗っていた。コンビニでサンドイッチでも買うことにする。
普段は顔を上げないレジの人がちらりと千佳を見た気がした。
自意識過剰と言われればそうだろう。
けれど香りを纏うことは、自己主張の一種だ。埋没したい千佳にとっては少々荷が勝つのだ。
香りは揮発性だ。時間がたてば薄れるはずだ。千佳は自分に言い聞かせた。
図書館には、すでに利用者が結構いた。千佳はまっすぐ検索機に向かい地獄と入力してみた。
調べてみると、タイトルに地獄とつく本がずいぶんあった。
日本に地獄の概念が入ってきたのは仏教伝来のころだから、6世紀くらい。古墳とか作っていたころだ。
地獄がやってくる前から黄泉の国があるように、世界各地に死後の世界があるわけだ。
それにもしかしたら、仁也みたいな存在がぽろっと死後の世界のことを漏らすのかもしれない。
読みたい本は宗教の棚にあるだろう。
見当をつけ本棚の前に行ったけれど、ここで読み切るには厚すぎる。
千佳は児童書のコーナーに行くことにする。
そこで適当な本を選んで、その場でめくってみた。
「あれ?」
と声がするのでちらりと視線をやると、よりによってあだ名魔の渡辺だった。
「クラスで話題のクールビューティーが、児童書のコーナーで地獄絵見てる」
「クールでもビューティーでもないけど」
そう返すと、渡辺は肩をすくめて見せた。
「そうだね。河原さんのそれは、たんなる臆病だ」
確かにそうかもしれないが、なんだかやけに棘のある言い方だった。
口元は笑っているようだが、長めの前髪に隠されて彼の表情はいまいちよく分からない。
「その絵本、いいよね」
戸惑う千佳にそう言い残して、渡辺はすっと立ち去った。
地獄絵には、なますにされる人間の姿が描かれている。
「いいかな……?」
遠い目をしたら、視線の先に幽霊がいた。年かさの男性の肩にくっついている。最後のあいさつに来ているのだろう。
幽霊までちらりと千佳の方を見た気がして、千佳は気まずい思いで手元の本を閉じた。
「仁也も、亡者をなますにするの? それともされる方?」
夕方、仁也は窓から普通に入ってきた。見たところ体の不調などではなさそうだったので、千佳は朝から気になっていたことをひとまず聞いてみた。
「なます? 大根を酢で和えた」
「じゃなくて。切り刻んでるのかって聞いたの」
「ああ。ずいぶん古風な言葉を使うんだな」
「そう?」
「読書の成果かな?」
仁也は苦笑して、机の上の本を指さした。
「まあ、そうなのかも。月に十冊読むのが目標なの」
「多いな」
「毎日一時間。好きでもないテレビを見て、仲良くもないクラスメイトの話に付き合うより、本を読んだ方がいい。三時間で一冊読むとして、ひと月で九冊か十冊読める」
「それ、千佳の持論?」
と仁也は瞬いた
「ううん。部活の先輩がそう言ってくれたの。クラスでなじめないって言ったらね」
そうこれは、読書クラブのマリ先輩の言葉だ。
千佳はお嬢様然としたマリ先輩のことを思いうかべる。脳内で彼女が持っていたのは、本ではなくカップ焼きそばだった。本人の布教の成果なので仕方ない。
「それって自分に言い聞かせてるんじゃ」
幾分呆れたような仁也の声に、千佳はそれかけた思考を戻した。
「そうかもね。けど、あたしにとって救いだった。だから、いっぱい本を読んでる」
「そうか」
仁也は頷いて、それ以上は突っ込んでこなかった。こういうところが仁也は気安い。
「さっきの質問だけど、千佳の知ってる地獄、かなり古いよ。その分だと他にも針地獄とか窯茹でとかそんなのイメージしてるんだろ。そんなの俺でも見たことない。酢の物なら得意だけど」
「え? 仁也料理するの? っていうか、地獄の人ってもの食べるの? 確か香だけって」
「それはこの世でだけ。あの世には炊飯器だってあるよ」
「炊飯器!?」
「そんな驚くことか?」
「うん。だって、仁也そんな恰好なのに? わらじなのに? 竈に羽釜で火吹き竹じゃないの」
「これ草履だよ」
「え?」
一瞬頭が真っ白になった。どう違うんだろう。いや、今聞きたいのはそこじゃなくて。
などと千佳が困っていると、仁也は声をたてて笑った。
「笠と草履は制服みたいなもんだよ。うちの地区、和装じゃなきゃダメなんだ。まあ和装と言ってもかなり自由だけど。なぜかブーツはダメなんだよな。地獄でも他の地区ならもっと違う格好だよ」
「他の地区……」
また新たな疑問が出てきたが、きりがないし千佳はすでにかなり混乱していたので、それ以上尋ねなかった。
千佳はため息をついて気を取り直す。
「決まりじゃ仕方ないね。でも、よかったじゃない。仁也は着物似合うもの」
千佳が言うと仁也はちょっと目を丸くして、それから照れたように目をそらした。
「千佳も似合うと思うよ」
何気ない言葉だった。けれど千佳の心はすっと冷えた。
「……千佳?」
「ねえ、仁也。例えば、あたしにどんなのが似合うと思う? やっぱり、女の子らしくピンクとか?」
彼は首を傾げて千佳を上から下まで眺めると、「千佳にピンクは似合わないよ」ときっぱりと否定した。
「子供っぽく見える。青の格子柄とかがいいと思う。その服も似合ってない」
言われて、千佳は自分の服を見下ろした。
ピンク色のワンピースだった。白い襟とパールの飾りがついている。
「あ、ごめん。余計なこと言った」
「ううん。自分でもそう思う」
仁也がはっきり言ってくれたので、千佳はむしろほっとした。