質問ばかり
家に帰ると、千佳の部屋に当然のように仁也がいた。窓枠に身を預け、外の景色を見ていたようだ。今日も変わらぬ着物姿だ。わらじは脱いで懐に入れ、笠は足下に置いている。
「おかえり。千佳」
「おかえりじゃない! 昨日も思ったけどなんで勝手に入ってきてるの」
「人前で声をかけても、無視するじゃないか千佳は」
仁也はにっこりと笑った。
「確かに……そうだけど」
千佳はため息をついて勉強机に向かう。練り香水はそこに置きっぱなしになっていた。手に取ったものの、千佳は少しためらった。昨日の光景を思い出すと、変なうなり声をあげたくなる。
「ねえ、仁也。これって手首じゃなきゃダメなの?」
「別にうなじでも耳の後ろでも構わないけど?」
「なんでそんなとこばっかり」
悪化してるじゃないか。
けれど仁也はきょとんとした顔で聞き返した。
「香水を着ける場所としては普通だろ? 別に太ももの内側とかでもいいけど」
「て、手首でいい!」
千佳は慌ててそう言った。動揺して顔が赤くなってるかもしれない。うつむいて、練り香水の蓋が上手く開かないフリでなんとか立て直す。
「仁也、他にも質問があるんだけど」
「ああ」
「亡者はいつもいるわけじゃないのに、香りは毎日必要なの?」
尋ねながら千佳は仁也に手首を差し出す。
「ありがとう、千佳」
仁也は契約した日に出したような、透明な板を出現させた。
あたりが暗くなり、空中に文字が浮かぶのも同じだ。少し怖くなる。
けれど仁也が優しく千佳の手を取り、安心させるように微笑むので、千佳の意識はすぐに仁也の方に向いた。
「河原千佳、樋山仁也。双方の合意に基づいて、あなたの香りいただきます」
仁也はその場に跪き、軽く目を伏せ、千佳の手首に唇を寄せる。
なんとなく、彼が食べた香りの行方が気になった。
手首の辺りを嗅いでみたが、何も感じない。右手の人差し指には、まだ金木犀の香りが残っているのに。
「千佳が見てなくても、亡者はその辺をうろうろしているよ。俺はちゃんと仕事してる。それにこっちで活動するには、ものすごくエネルギーが必要なんだよ。つまり、めちゃめちゃ腹が減る」
「でもなんであたし?」
「うーん。たまたま目があったから」
「馬鹿にしてるの?」
「じゃなくて。いや、本当は前任者から別の人を紹介されてたんだけど……、なにぶん、結構年かさの人だったから」
「死んじゃったの?」
「いや、介護施設に入ったんだ。元気そうだったけど、介護施設じゃ線香焚けないだろ? それで、当てが外れてあの時、千佳と初めて会ったとき、俺はかなり空腹だったんだ」
「ああ、木にぶら下がってた時」
しかし仁也はあの時、結構元気に走っていった気がするが。助かったとか何とか言って。
と、そこまで考えて千佳はハッとして頭を押さえた。
「ま、まさかっ」
「うん。ちょっとだけ味見というか、つまみ食いをしたんだ。すまない。つい、出来心で。それでまあ……」
仁也はかなり気まずそうに目をそらした。
つまり、あの時点で亡者だけでなく仁也にも狙われていたということか。
「他の人が焚いた線香を、食べるんじゃだめなの」
「四十九日が過ぎるまではダメだな。それは死者のための食べ物だから」
「過ぎたらいいの?」
「うん。裁きを終えたら、輪廻の輪に乗り生まれ変わるわけだから。過去世の記憶は消えうせるし、輪廻の輪に乗り損ね亡者になったものは、自分のために焚かれた香を嗅ぎ分けることができない」
「じゃあ、供養に意味はないってこと? 一周忌とか、月命日とか。おばあちゃんがずっとやってることは無意味なの?」
「死者にとっては。けど生者にとってはそうじゃない。何年も、何十年も続けていることなら、それは供養する側の糧となっているんだろうな。大切な者を失った悲しみは、そう簡単に癒せるものじゃない」
千佳にはまだ、そういう経験はない。だからその気持ちに共感するよりも疑問に思った。
「地獄でもそうなの?」
「そうだよ。輪廻の輪の中にいる限り、生老病死からは逃れられない」
「あれ? でも待って? お盆には祖先が帰ってくるんでしょ? あれはどうなってるの」
千佳が尋ねると、仁也はゆるく首を振った。
「死者は帰らない。帰るとすれば、供養する側の心の中にいる、思いが帰ってくるんだ。これもまた、心の穴を埋めるための儀式の一つなんだと俺は思うよ」
「ふうん」
「本当に質問ばっかだな」
「え? ああ、そうかも。ごめん」
「俺のことは聞かないの?」
仁也は千佳の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑う。
そして戸惑う千佳の右手を取り、人差し指をぱくりと食べたのだった。
「ちょっ! 仁也っ!!」
「ごちそうさま!」
千佳の怒りをするりと交わして、仁也は窓を開けて外に飛び出す。
閉めていかないのが腹立たしい。