あだ名魔
窓の外をツバメが飛んで行くのを、千佳は眺めていた。
毎年校舎にツバメが巣をかけるので、それほど珍しい光景でもない。
ぼんやりしていたら、三人組が千佳の席の脇を通り、ぶつかっていった。
千佳の席は窓際の後ろから二番目だ。彼女たちの目的地は真ん中の方の席だ。わざわざ遠回りしたらしい。ご苦労なことだ。
それにしてもこちらは平気だったが、彼女たちの誰かもろに机にぶつけたような音がした。痛くなかったのだろうか。
何がしたいのかはよく分からないが、大した実害もないので放っておく。
と思ったが、机にぶつかった衝撃でペンケースが落ちたらしい。
「はい。これ」
と隣の席の渡辺が軽く埃をはらってから手渡してくれた。
「……ありがとう」
渡辺は小柄で地味な男の子だ。長すぎる前髪が印象を薄めているが実はちょっとかわいい顔をしている。
「河原さんは」
と彼が続けて話しかけてきたので、千佳はひそかに驚いた。教室内で話しかけてくるとは珍しい。
「上中下トリオと仲悪いの?」
一瞬なんのことかと思ったが、確かにあの三人組は名字にそれぞれ上中下が入っている。用があったというよりは、新しく付けたあだ名を披露したかっただけのような気もする。
彼はひそかにあだ名魔なのだ。
「仲良くはないけど、壊滅的に悪いわけでもないかな」
「へえ? 意外な回答だ。――評価を修正しなきゃな」
最後の方はごく小さなつぶやきだったが、あいにく千佳はしっかり聞いてしまった。
千佳は読書クラブに所属している。
読書するだけなんて楽そうと考えた口だが、年に二回の読書感想文の提出と月一で学校図書室の本のレビューを提出するという課題があり、思ったよりもやりがいがある。
掃除当番を終えて部室に入ると、すでにマリ先輩が本を読んでいた。
腰まであるきれいな黒髪と、見ほれるような立ち居振る舞いでお嬢様じみているが、カップ焼きそば好きの庶民である。CMソングをよく口ずさんでいる。
マリ先輩がちょっと顔を上げて、にこりとしてくれたので千佳も軽くお辞儀をした。
集中しているようなので挨拶はそれだけだ。
部室は備品室を使わせてもらっている。なので壁際には机と椅子が積まれている。
それらを使う分だけ自分で出すのがこの部のスタイルである。もちろん使い終われば自分でしまう。
マリ先輩は窓際に椅子だけ出して座っていたが、千佳は机も出すことにした。
出入り口の付近の壁にぴたりと机をくっつけた。千佳の定位置である。
千佳は学校の図書室で借りた本のレビューを書いてしまうつもりだった。匿名だし、まじめに書いても採用されないこともある。
だが提出するとリクエスト本を優先的に入れてくれたりするので、千佳は結構マメに書いている。
今回レビューを書こうと思っているのは『下鴨アンティーク』。
古い着物や小物をめぐるファンタジーだ。描き出される京都の景色や、美しい着物を想像するだけでドキドキする。ヒロインのはんなりとした京訛りが可愛いこと、毎回差し込まれる古典や民俗学の知識も楽しい。
まあマリ先輩からは「ごはんがおいしそうなの」とおすすめされたのだが。というかマリ先輩から他の理由で薦められたことがない。
準備をしているうちに渡辺が入ってきた。
あとは一年生だが、二人は図書委員の当番だと聞いているから、今日の顔触れはこれでそろった。
本当はもう一人部員がいるが、彼はめったにこちらの部には顔を出さない。
普段ならめいめい読書をして、時間が来たら解散するところだが、千佳はふと渡辺の本に目をとめた。
地獄の文字が見えたのだ。どうやら公立図書館の本のようだ。
千佳の視線に気づいた渡辺は、本を掲げて首を傾げて見せた。
「河原さんはこういうの苦手かと思ってた」
「まあ、得意ではないけど……」
そういうことにしておこう。どちらかというと、この手の本を毛嫌いするのは母親の方だ。こんな本を読んでいることがバレたらと、そちらの方が怖い。
それに、渡辺に説明する気はないが、地獄の文字を見つけて仁也のことを思い出したのだ。
千佳の逡巡をどう受け止めたのか、渡辺は千佳の隣に椅子を並べた。彼は壁を背にする形だ。
「けど?」
「あ、いや別に。気にしないで」
「気になるね。何がスルー少女千佳の興味を掻き立てたのか」
「それやめてよ!」
あだ名魔渡辺の付けたそれは、ほんの少し千佳の心を波立たせる。やき弁先輩などとあだ名されてまんざらでもなさそうなマリ先輩とは違うのだ。
彼が「ふふっ」と笑って本を読み始めたので千佳はもう何も言えなかった。
ただもう一度だけ、彼の持つ本に書かれた地獄の文字を盗み見た。
やき弁こと、やきそば弁当は北海道のソウルカップ焼きそばです。たぶん。